奴隷。惨めで哀れな在り方


 一糸纏わぬ姿で、シェリアはそこに立っていた。


 傷一つない白の柔肌や、女性らしい曲線を描く起伏に富んだ躰が、さも当たり前かのように七夜の目に晒されている。


 長く伸びる闇色の髪がいくらか前に流れているものの、それだけでは決して裸身を覆い隠せていない。まごう事なき一人の少女の裸体が、目の前にはあった。


「……シェリ、ア……なにして……」


 硬直し、訥々と言葉を零しながらも、七夜の目は無意識に彼女の身体へと吸い寄せられる。


 常に猫背気味でありながら、それでも強く存在を主張していた豊満な双丘。それが今はありのまま曝け出されていて。

 引き締まったウエストから丸みを帯びて膨らむ腰までの曲線はとても魅力的で、加えてすらりと伸びる腕や脚は細く華奢だが決して折れないしなやかさを感じさせる。


 何度も見てきたリィリスの裸体とは、また違った印象を抱くそれ。

 リィリスの躰が、見た者全員の情欲を掻き立てる淫靡さを孕んだものだとすれば、シェリアの躰は見た者が思わず見蕩れてしまうような、完璧な造形美を備えたもの。

 

 薄暗い部屋の中において、淡く発光さえしてして見える裸身の少女に、七夜は自分でも不思議なほどに目を奪われて。


「――ナナヤさん」


 気が付けば。


 扉の前に立っていたはずのシェリアが、すぐ眼前にまで接近していた。


 停止した思考はそのままに、驚愕に思わず息を呑む。

 音もなく、何の予備動作もなく、そもそも動いた気配さえ感じられなかった。


 瞬き一つの時間よりも短い刹那の間に、一切の挙動もなく距離を詰めた――これは、シェリアの技能?


 訝しむと同時、一抹の恐れを抱いた。

 もしもシェリアが敵意を持ってここに来たのだとすれば、七夜は今、何の抵抗もできないまま確実に殺されていただろう。


 その事実が、七夜を強制的に我へと返らせた。咄嗟に身を引き、ベッドから飛び退こうとして――しかし数瞬早く、シェリアの裸体が七夜へと覆い被さってきた。


「ッ、おい……!?」


 どさり、と二人揃ってベッドに倒れこんだ。


 仰向けに転がった七夜の脇にシェリアが両手を付き、至近距離から覗き込むようにして見つめてくる。

 鼻先が触れ合うほどの近さ。リィリスに迫られた時には感じなかった吐息や人肌のぬくもり、そして柔らかな感触が一度に伝わってきて。


 七夜は柄にもなく気が動転してしまうのを自覚した。


「ちょ、シェリア、何してんだ! とっとと離れ――」


「ナナヤさん」


 再び呼ばれた名。

 少年は咄嗟に口を噤み、言葉を紡ぐその薄い唇をじっと見つめてしまう。


 無機質な問いがあった。


「ナナヤさんは、私の身体を見て、どう思いましたか?」


 少女の吐息が少年の頬に触れる。


 それほどに近い距離にいながらに、そしてあられもない格好で男と重なり合っていながらに。

 やはりというべきか、シェリアの顔は微塵も揺らいでいない。


 羞恥も動揺も緊張も、その美しい貌には一切としてない。


「……どう思うか、ってのは……どういう事だ?」


「そのままの意味です。より詳しく言うならば、ナナヤさんにとって私の身体は、欲望を誘発できるものなのかどうか、という事です。こうして見て、触れて、抱きたいと思いましたか?」


 七夜にピタリと密着する柔らかな肢体が、微かに動く。

 豊満な胸がシェリア自身の身体の重みによって形を変える。細くしなやかに伸びる脚が七夜の下半身に絡みついて離さない。

 こめかみから闇色の髪が一束流れ落ち、首筋や微を撫でてきて。


 七夜はくすぐったさに顔を顰めた。


 つい先ほど、リィリスともまったく同じような体勢で密着した。

 だがあの時とはまるで異なり、人肌のぬくもりが、柔らかさが、香りが、心音が、全て実体を伴って七夜の五感を刺激してくる。


 返す言葉に迷って何も言えない少年に、シェリアの淡々とした声が重ねられる。


「その、私の身体が男性にとって魅力的なものであるという事は、今までの色々な出来事で分かっていますが……それがナナヤさんにとっても同じかどうかは、分からなかったので」


「……いや、その。そんな事聞かれたって、どうしようも……」


「ですが」


 彼女の手が、七夜の首筋を滑り、胸元を撫で、そうしてゆっくりと下へ降りてゆき――下腹部のある部分でぴたりと止まった。


 ズボンの上からそっと触られる。どこからとは言わないが、シェリアの柔らかな手つき、滑らかな指の感触が鮮明に伝わってきて、七夜は反射的にビクリと身を震わせた。


 ――グラスドの奇跡にも等しい治癒魔法により、七夜の全身に刻まれていた傷は内外問わず、そしてひとつ残らず消え去った。

 拷問の過程で去勢されてしまっていたその部分も、当然、元通りになっているわけで。


 だからと言って、治ってすぐに反応を示す、己の正直かつ愚直かつ短絡的な身体を、七夜は全力でぶん殴りたくなった。


「無事に興奮して頂けているようで、安心しました」


「いや、これは別に……」


「私は経験がない処女ですので、上手くできるかは分かりませんが、精一杯頑張らせて頂きます」


 シェリアの手が、服の裾からするりと滑り込み、七夜の腹部を直に撫でる。

 ひやりとしていて、かつ滑らかな感触にくすぐったさを覚え。


 七夜は反射的に身を引きながら叫んだ。


「ちょ、ちょっと待てシェリア! ストップ! 動くな!」


 バッと手を翳してそう〝命令〟すると、少女はピタリと動きを止めた。

 静止したままじっと七夜の目を見つめてくる。


 こんな時でも大人しく従ってくれるのかと安堵したのも束の間。シェリアが動きを再開させ、七夜の身体をまさぐり始めた。


「おぉい!? やめろ! 止まれ! 命令しただろ! 俺の言葉には全部従うんじゃなかったのか!?」


「今この状況においては、ナナヤさんへの奉仕を何よりも優先すべきと判断したので」


「俺が拒否してるんだ! 俺の意思の方を尊重してくれ!」


「それは承知できません。ナナヤさんへの奉仕は私にとって絶対の役割なので、どうか大人しく身を委ねて下さい」


「すごい強情だな!? さっきまでの指示待ち機械人間はどこ行ったんだよ!!」


「私の身体に興奮して固くなられていましたし、そちらを鎮めるだけでも先にさせて頂けたらと……」


 一糸纏わぬ姿を晒す絶世の美女に夜這いをされて、ここまで全力で拒絶できる男などどれくらいいるだろう。


 何とか七夜を脱がそうとするシェリアと、そんな彼女を何とか抑え留めようとする七夜。


 もうすでに時刻は真夜中。

 これほどに騒ぎ立てていれば、階下で寝ているイレィナたちが起きてしまいそうなものだが。


 全てを知った上で姿を消した黒き女によって、部屋には防音の結界が張られていたため。

 どんな些細な物音であろうとも、外に漏れ出る事は万に一つもなかった。





 なぜか半暴走状態にあったシェリアを何とか落ち着かせ、昼間にも使用していた外套を羽織らせた。ベッドに大人しく腰掛けている彼女を、窓際に立つ七夜は若干気まずい表情でもって見下ろしていた。


「……取り敢えず、全裸で部屋に来るのはもう二度としないでくれ。いいか?」


「それは命令ですか」


「あぁ、命令だ」


 そう言うと、シェリアは「分かりました」と素直に頷いて。


「ならば服を着た状態でしたら、何も問題はないという事でよろしいですか?」


「……部屋に来るとして、それはいったい何の用だ」


「ですから、夜のご奉仕を――」


「それについてもだ」


 七夜は頭痛を堪えるかのように、指でこめかみを強く押さえた。


「そんな事しなくていい。まるでそれが自分の仕事かのように言ってたが、別に俺が命令したわけじゃないだろ。というか、そんな事を自分の役割だなんて思うな。それをするのは鎖で繋がれた奴隷くらいだ」


「はい、私は奴隷ですから」


 端的な言葉があった。


 無感情に告げられたその台詞に、刹那、七夜は己の耳を疑い、そして瞠目した。


「は?」


「私はナナヤさんの奴隷であり、人形です。なので、私がナナヤさんに身体を差し出す事は当たり前の事で、何の問題もないと思います」


 淡々と紡がれる声。

 七夜は目を見張ったままにその言葉を聞いた。


 無機質に話すシェリアは七夜が貸した外套を羽織っているが、襟元や裾からは白を湛える肩口や太股ふとももが覗き、煽情的な雰囲気を醸している。


 先ほどは見て動揺してしまった白皙の柔肌を、しかし七夜は今、まるでそれが忌々しいものであるかのように険しい視線で見下ろした。


「……それが」


 苛立ちを孕んだ声が漏れる。


「その在り方が、どんなに惨めで哀れなものなのか、分からないのか?」


 厭悪の込められた瞳。理解しがたいものを見る瞳。


 忌避と苛立たしさを隠す事もなく差し向けられるその双眸に、けれどシェリアは、凪の如き静謐の瞳を返すばかりで。


「もう一度聞くぞ。――シェリア。あんたは本当に、俺の言葉にただ従うばかりの、死ねと言われたら何の迷いもなく死ぬような、そんな圧倒的弱者の立場にいてもいいのか? 誰かにいいように使われて、最後はみっともなく捨てられる末路しか選べない自分を、本当に許せるのか?」


「許すも何も」


 激情を隠した問いに応じるは、一切の感情なき淡々とした〝音〟。


「それが私にとって最も相応しい在り方ですから。惨めだろうと哀れだろうと関係ありません。ナナヤさんの意に従う以外に、私は私としての正しい在り方を自分に見出せません。なので、私は貴方の人形でいる事は、当然の――」


「その在り方が相応しいと決めたのは誰だ?」


 語気を強めてシェリアの言葉を遮る。


「誰かからハッキリとそう言われたのか? 違うだろ。あんたが自分で勝手に思って、勝手に決めつけてるだけだ。それ以外の自分の可能性を、微塵も考えた事なんてないくせにな」


 その時の七夜は。

 まるで叱責するかのように感情的な言葉を吐く自分の姿を、どこか客観的な視点から見下ろしていた。


 彼女に対して抱く嫌悪と苛立ちは自覚している。

 だがこの時、七夜の胸中を満たしていたのは、やはりシェリアに対する憐憫。


 ゆえにその顔は険しさを帯びていながら、まるで痛みを堪えるかのような色を覗かせている。


 七夜の言葉に、シェリアはただ沈黙を返す。顔は下を向いていて、こちらとは目を合わせようともしない。

 またこの流れかと七夜が溜息を吐きかけたところで――やがて。


「考えては、いました……ずっと」


 静寂の中へ落ちるかのように、少女の小さな声が零れた。


「ナナヤさんの傍にいる上で、最も適切な立ち位置はどこなのだろうかと。あの監獄を出てからずっと……私は、考えていました」


 少女の唇以外が動いて、部屋の中に澄んだ声を響かせる。

 こうして静かに聞いていると、七夜にはシェリアの声色が、酷く儚い音のように思えた。


「その末に出た答えが、ナナヤさんにとって使い勝手のいい人形になる事でした」


 とても綺麗で、耳の奥にすっと入り込んでくる、柔らかさと清廉さを同居させた音。


「ナナヤさんの言葉にはすべて従い、自ら意思を示す事もなければ余計な言葉を発する事もない。ただそこにいて、ナナヤさんが求めるものにのみ応じ、動く……それが、最も正しい私の在り方なのだと」


 シェリアの顔が持ち上げられ、虚を潜ませる瞳に七夜の姿が映りこむ。


 無機質だが、死んではいない目。

 かつて地獄の底で七夜が浮かべていたものと似通っていて、けれど決定的に異なる目。


 心を失っているわけでも、意思を持つ事ができないわけでもなく。

 純粋に、己の全てを相手に委ねている傀儡の目。


 そこには悲嘆も何もなく。

 本当にそれが自分にとって最善の在り方なのだと信じて疑っていない。


「……どうしてだ」


 彼女の目を真正面から見つめて、七夜はそれだけを返す。

 シェリアは僅かに首を傾げながら。


「どうしてと言われても……その方が、ナナヤさんにとっては好ましいのでしょう?」


 分かり切っている事を確認するかのように。


「ナナヤさんが望むなら、私は喜んで命を投げ出します。求められれば、いくらでも身体を差し出します。私のような者に利用価値があるとすれば、その程度でしょうから」



 七夜の発した否定が、シェリアの口を噤ませる。

 再びその首が傾く。


「違う、というのは……」


「俺が聞いたのは、何で俺についてきたのかって事だ」


 言いながら、七夜は窓際を離れ、ベッドの傍らに置かれた小さな椅子に腰を下ろした。


「人の奴隷になりたいなら、あんたを犯そうとしてた変態野郎のものにでもなればよかっただろ。俺の誘いを断って、あの場に残っていればよかったはずだ。俺なんかよりもよっぽどあんたを奴隷らしく、そして心から喜んで扱ってくれたと思うぞ」


 ディアメルク王立刑務所の看守長であるドロエは、七夜によってシャリアに関する記憶を失ったが、あれほど執心を見せていた彼である。

 覚えていなくとも、シェリアの姿を見ただけでまた狂的なほど惚れ込むに違いない。


 半分冗談、半分本気で口にした言葉に対し、数秒の沈黙があった後。


「それは――すみません、嫌です」


 明確な否定を聞かされ、七夜は思わずベッドに座る少女を見た。


 外套を羽織り、変わらず俯き気味の彼女は、行儀よく揃えられた膝の上で、やんわりと拳を握りこんでいた。


「それは嫌です。私は、あの者の奴隷にはなりたくありません。例えナナヤさんの命令だとしても」


「……いや、別にあいつのところへ行けって言ったわけじゃないんだが」


「あの者だけではありません。ナナヤさん以外の者には、何があろうと従いたくありません」


 そこでようやく、シェリアが七夜の方を向いた。

 視線だけではなく、身体同士が向かい合う。


「ナナヤさんだから、私は従っているんです。ナナヤさんだから、私は今ここにいるんです」


 その時、初めて。

 七夜はシェリアの顔を、真正面からちゃんと見れたような気がした。


 いつも視線を逸らすか俯いてばかりだった彼女の貌が、目が、揺らぎなく少年を捉える。

 真剣な面持ちを見せるシェリアに、七夜は僅かに驚き瞠目しつつも、真摯に視線を返す。


 感情的な自分を心の奥底に押し込め、穏やかに、先と同じ問いを投げかける。


「……なぁ。シェリアはどうして、俺についてきてくれたんだ? どうして、俺になら従ってもいいと思ったんだ?」


 そう聞くと、真っ直ぐ向けられていた彼女の目が、僅かに下へ逸らされた。


 だがそれは、今までのようにこちらの視線から逃れるための仕草とは違う。

 七夜は漠然と、だが明確にそう思った。


 数秒の静寂が、両者の間を揺蕩う。


 やがて、少女の口がそっと開かれる。


「――ナナヤさんの事が、とても羨ましかったからです」


 そう、シェリアは言った。

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