まとめて消えればいいのに
椅子に座ったままの七夜とシェリア、そして唖然とした様子で立ち尽くすイレィナの視線の先で、床に膝をついて虚空を見上げるヒューゴが、先ほどから絶えず呻き声を上げており。
その周囲では、取り巻きの男たちが全員もれなく気絶して転がっていた。
ヒューゴの顔からは一切の血の気が失われ、完全に白目を剥いてしまっている。
そんな彼を見て怯えた表情を浮かべるイレィナに、七夜は体内で励起された魔力を鎮めながら、穏やかな声をかけた。
「心配しなくていい。ちょっと悪い夢を見てもらってるだけだ。……あの地獄から戻ってこれるかは、また別の話だけどな」
魔力の収束に伴い、フロアの床に滞留していた黒く薄い
とは言え、魔力そのものを持っていないイレィナは魔力媒体である黒霧を認識できていなかったのか、部屋の変化には気付く事なく、困惑した顔を七夜へと向けた。
「あの、その……これは全部、シバさんが……?」
「あぁ、俺の魔法だ」
七夜は椅子から立ち上がり、魘されているかのように呻くヒューゴ、そして泡を吹いて気絶している男たちに視線を巡らせながら。
「本当なら、腕や足の一本くらいは
その説明に、当然というべきか、イレィナは首を傾げる。
――『
一人ひとりに全く別の夢を見せるような器用な芸当はまだできないため、男たちは総じて同じ地獄を味わった。
多少強い精神力があれば跳ね除けられる程度の練度とは言え、そもそも夢を夢と自覚しない以上、この魔法から自分の意思で抜け出す事はできない。
そして悪夢に恐怖すればするほど、精神が立ち直るまでに時間を要する。
少なくとも、七夜の魅せた悪夢に心の底から恐れを抱いた彼らは、丸一晩はあのままだろう。
呆然とするイレィナの前で、七夜は立ち止まった。
少年よりも僅かに背が低い彼女が、揺れる瞳で以てこちらを見上げてくる。
対して七夜は、無感情に細めた目をイレィナへと向けた。
「余計なお世話、だったか?」
「ッ、」
その問いに、イレィナは喉を詰まらせた。
込み上げてくる何かを堪えるように唇を固く引き結び、けれど我慢ができない様子で、僅かに肩を震わせる。
「……いいえ」
やがて彼女の視線が床へと落ちる。その目元には影が差していた。
先にも見た昏い表情を見止めた七夜は、薄く顔を顰めた。
「助けて、いただいて……本当に……ありがとう、ございました……」
何かの葛藤を孕んだ声。安堵と苦悩の入り混じる声。
そうして深々と頭を下げたイレィナに、少年は何も言葉を返せず。
複雑で曖昧な、嫌な重さの付きまとう静寂が、宿の中にひっそりと満ちた。
*
その後、ヒューゴたち暴漢は適当な路地裏にまとめて捨てておいた。
意識のない大人を運ぶのは相当骨が折れたが、やむなくシェリアに〝命令〟して手伝ってもらい、意外にも力持ちな彼女の助力もあって無事に全員を放り捨ててくる事ができた。
そして七夜は今、宿の三階にある自身の宿泊部屋でベッドに寝転び、何をするでもなくただ茫然と天井を見上げていた。
視界の端に、艶めく黒髪が映りこむ。
『どうしたの? ボーっとして。眠れないのなら、前みたいにお姉さんが添い寝してあげましょうか?』
どこからともなく姿を現したリィリスは、重さを感じさせない動きでベッドの端に腰掛けると、薄くも艶冶な笑みを浮かべて七夜の顔を見下ろした。
燭灯も何もついておらず、窓から差し込む月明かりだけが唯一の光源。
そんな薄暗い部屋の中でも変わらぬ美しさを湛える女に、少年は目線だけを流しながら。
「ずっと姿が見えなかったが、いったい何してたんだ。デカい花畑でも近くにあったのか? あんたがいない間、俺はまた性懲りもなく厄介ごとに巻き込まれてたんだがな」
『あら、お姉さんがいつも傍にいないと不安だなんて……そろそろ姉離れしてくれないとナナヤくんの将来が不安になってくるわね。まぁ、私はナナヤくんがシスコンになっても別に構わないのだけれど』
そのままリィリスは身体を倒し、七夜に覆い被さるような姿勢をとる。
少し顔を突き出せば唇同士が触れてしまうほどの至近距離に、まごう事なき絶世の美女の顔を見ながらも、少年はただ僅かに眉を顰めるだけであった。
「いちいち話を誤魔化すなよ、リィリス。そしてはぐらかしたいならもっとちゃんとはぐらかしてくれ」
『誤魔化すだなんてとんでもない。私はただ、いつでもどこでもナナヤくんと他愛のない話がしたいだけなのに』
囁くように言うリィリスの長髪が垂れ、七夜の顔を囲うように黒の
艶めく笑みは変わらず、重なり合った姿勢もそのままに。
けれど顔からおふざけの色を忽然と消して、彼女は続けた。
『あのお猿さんたちね、この辺りで幅を利かせてる徒党の一味みたいよ。街にある商会の下部組織と繋がっていて、そこから裏町に生きている人たちに食材を流しているんですって。……お金の代わりにたくさんの女性を食い物にしながら、だけれどね』
ある程度は七夜にも想像できていた事だが、実際に聞かされると思わず嫌悪に眉を潜める。
『あまりに酷い場合だと、性奴隷同然に扱われている人もいるらしいわ。言う事を聞いて彼らの玩具になればなるだけ、ちゃんと食料が与えられるから、どこまでも従順になってしまうのは分かるけれど』
「それを分かってて連中はクソみたいな交換条件を出してるって事だろ。ただ自分の欲望を満たすためだけに〝餌〟を撒いてる、何の正義も免罪符もない純粋にクソったれな下衆野郎どもだ」
『ん~、まぁ確かにやっている事は下衆だけれど、それで助かっている人が多くいるのも事実よね~』
「イレィナやノゥナのように、か?」
七夜の瞳に鋭利な光がちらつくのを見て、けれどリィリスは当然のように頷いて見せた。
『そうよ。きっとこの裏町はそうやって成り立っているの。それも今に始まった事じゃなくて、何年も前からずーっとね。だから私に怒りをぶつけられても困るのだけれど。彼女たちは食料の代わりに自分の身体を差し出す事を、自分で選んだのだから』
「だとしても」
少年の低い声が響く。
「その選択をしなきゃならない環境は、イレィナたちが自分で選んだものじゃないだろ。誰かからその理不尽を与えられたか、最初から理不尽の中で生きる以外の選択肢を与えられていなかった……そしてそこから絶対に抜け出せないから、どんな辛い目に遭い続けていても、ここに留まるしかなくなってるってだけの話だろ。間違ってもイレィナや他の裏町の人間が、あんな下衆野郎どもに弄ばれていい理由には
それは決して怒りなどではない。忌々しいものに対する底なしの厭悪。
少年の目線がリィリスから外れ、床へと落ちる。その脳裏に
「……どうせ見てたんだろ。俺に礼を言ったときの、イレィナの顔を」
あの時の彼女が口にした言葉もまた、純粋な感謝のこもったものではなく。
それが七夜の眉を顰めさせる。
彼女の思うところ、複雑な思いが綯い交ぜになった胸中は、彼でさえ容易に想像できた。
その一方でリィリスが、七夜の考えを、わざとらしく声に声に出して言う。
『あのお猿さんたちに犯されなくて済むのはいいけれど、それじゃあ満足な食料を貰えない。ナナヤくんに助けてもらえてよかったけれど、こんな事が起きれば、今後自分は今までのように満足な食事ができないかもしれない。もっと酷い目に遭わないと、今まで通りの見返りを得られないかもしれない』
滔々と、女の声が少年の脳内に流れる。
『自分の感情と生活……そんな、本当は量らなくてもいいものを天秤にかけて、辛うじて量りが前者に傾いたからこそ、彼女は貴方にお礼を
当然ながら人ごとのように彼女は言う。
分かっていた事をわざわざ言葉にされた七夜が、反射的に舌打ちをしかける。
『何かを得るためには、何かを失わなきゃ、削らなきゃいけない。ここで生きている人たちにはその考えが染みついてしまってるのよ。ナナヤくんだって、今の力を得るために自分の身や命を削るような、死ぬ思いを何百何千と繰り返してきたでしょう? それと同じ。その〝当たり前〟にナナヤくんが嫌悪するのだとしたら、それはまだ貴方の心が、この世界に染まっていないだけよ』
リィリスの唇が、艶を孕んで笑みを描く。
そこいらの男が見れば美しさに酩酊さえしてしまいそうなほどのそれに、けれど七夜は何ら反応を示す事もなく。
自らの胸中に湧く感情を呑み込むかのように、深い息を一つだけ吐いた。
「そんなクソみたいな世界なら……微塵も染まりたくないな。このクソったれな世界も、そこで生きてるクソったれなクソ野郎共も――まとめて消えればいいのにな」
その瞬間。
リィリスは確かに見た。七夜の身体から、
殺しを忌避する七夜が持つ、殺しを求める自覚なき情念。
あくまでも穏やかな表情と声でありながら、確かに潜んでいた苛烈なる殺意。
リィリスの中で、少年に対する〝微調整〟が行われる。
どうすればあの殺意を、七夜に自覚させられるのか。彼の中にある殺しへの忌避を、どうすれば取り払う事ができるのか。
自らの目的のためには、七夜の殺意をコントロールしなければならない。
ゆえに黒を纏いし女は、秘密裏に思考を重ねる。少年に覆い被さった姿勢で、少年を至近から見つめて、少年の奥底を見据えるように双眸を光らせながら。
変わらぬ調子で問いかけた。
『だったら、ひとまずナナヤくんはどうしたいのかしら? あのお猿さんたちは結局、無傷のまま放り捨ててきたんでしょう? そんなに憎いならボッコボコに痛めつけてから捨てちゃえばよかったのに。その方がナナヤくんの理念にも則しているとは思うのだけれど』
「……あいつらはこの裏町にある徒党の一味なんだろ? なら、潰すときはまとめて一気に根本から潰した方が効率的だ」
そう言って七夜は、覆い被さっているリィリスに向けてしっしっとぞんざいに手を振った。
ムッと頬を膨らませながらも大人しく身体を離した彼女に、同じように身を起こしてから、少年は続ける。
「あいつらが俺に個人的な報復を考えてくれればと思ってそのまま見逃したが、その背後にもっとデカい連中がいるなら好都合だ。奴らには都合のいい駒になってもらう。その上で――総てを潰す」
獰猛な眼光を滲ませながら、七夜が宣告する。
厭悪に染まる感情の中、僅かな打算が込められた言葉に、リィリスが目を細める。
ドレスのスリットからすらりと伸びるしなやかな脚を組み、隣の部屋に接する壁の方をおもむろに流し見て。
「
膝に頬杖をついて、のんびりとした口調で女は言った。
ピクリ、と。
七夜の頬が反射的に引き攣る。
『思ったよりも強情なのね、彼女。ナナヤくんが苛立っちゃう気持ち、少しだけ分かったような気がするわ。まぁ、私にしてみればまるで拾われた野良猫を見てるみたいで、とても可愛らしく思えてくるのだけれど』
「……あれが可愛らしい? だったら同じ立場に立ってみてくれよ。俺は冗談でもそうは思えないんだが?」
『私がナナヤくんの代わりになったって、なぁんの意味もないわよ。彼女は貴方だから大人しくついて来ているのだし、貴方の言葉だから大人しく従っているんだもの』
七夜とシェリアの関係性を本当に面白いものと思っているかのように、くすくすと笑みを零すリィリス。
対する七夜は、胡乱気な視線を彼女に返す。
「本当に……本当にシェリアは、俺だからついて来てくれてるのか? 〝もうどうなってもいい〟なんていう諦観や惰性なんかじゃなく、自分自身の意思でそうしているのか?」
ディアメルク王立刑務所からこの街に戻ってきた際にも、七夜はリィリスに似たような疑問を口にしていた。
だが、返ってきた答えはあの時とは異なっていて。
『ん~、そうねぇ』
自らの顎に人差し指を宛がい、唇を突き出しながら、彼女は応じた。
『今のあの子は、ただ貴方の言う事に従うだけのお人形さんかもしれないけれど、唯一、貴方についていく事だけは自分の意思で決めたんじゃないかしら。……というか、それくらいは何も言われなくたって分かってあげるべきだとお姉さんは思うのよね』
「俺がそんな察しのいい人間に見えてるのか? 元の世界じゃ根暗ぼっち極めてたんだぞ。相手があんな無口で無表情だったら、嫌々なのかと思って当たり前で――」
『彼女も迷っているのよ。自分の在り方みたいなものにね』
まるで悩める若人を見守るかのような面持ちで、リィリスはそう口にした。
『そしてナナヤくんはナナヤくんで、あの子の過去も、もっと奥深いところにあるものも知らないから、どう接すればいいか困っているところだものねぇ?』
「ぐ……」
『相手との距離感なんていう、目に見えないものを測る事って、すっごく難しいのよ。本当の意味で心を通わせられないまま、そしてその事を自覚できないまま、関係が進んでいく事もあるのだし。だからナナヤくんは今、好きなだけ時間をかけるといいんじゃないかしら』
リィリスの目が、七夜を正面から捉える。
『貴方は自分で責任を持って彼女を仲間にすると言ったんだもの。最後までちゃんと一人でやってみなさい。私は何もしないから』
少年の意思を尊重すると言った彼女は、そうして優しく微笑む。
相も変わらずこの調子のリィリスに慣れない七夜は、何とも言えない曖昧な表情で、辛うじて頷きを返した。
――と。
そこで不意に、七夜へと注がれていた彼女の視線が、ちらりと横へズレた。
つられて七夜がそちらを向くものの、当然だが部屋の壁が見えるだけ。
しかしリィリスは今までの穏やかな微笑を引っ込めると、今度は何やら別の意が込められた笑みを浮かべる。ニヤニヤという擬音がふさわしい、何らかの思惑を隠すかのような笑みだった。
「なに笑ってるんだ」
『いえいえ、何でもないのよ。ナナヤくんは何も気にしなくていいの。それじゃあ私、用事を思い出したからちょっと出てくるわね。一晩くらい戻らないかもしれないけれど、何も心配しないでちょうだい』
「は? おい、急に何言って……」
捲し立てるように言ってから、おもむろにベッドから立ち上がったリィリスは。
途端にその身体を端から霧散させ始めた。魔法によって作られた幻影があっという間に空間へと溶けてゆく。
にっこりと微笑み、手をひらひらと振りながら。
『それじゃああとは、若いお二人でごゆっくりとね~。この機会にちゃんとお話をして、仲良くなるのよ~』
「おい、ちょっと待てリィリス。どこ行くんだ、急になに――」
言葉は続かなかった。
リィリスが完全に姿を消した、その直後。
ギィ、という軋みが七夜の耳に触れた。反射的に音の方を向けば、部屋の扉がノックもなしにゆっくりと開かれているところであった。
咄嗟に身構え、体内で魔力を練り上げる。先ほどの暴漢かその仲間が、早くも報復に来たのか――。
そんな想定をした七夜は、けれどすぐ後に、警戒心の全てを放り捨てて固まらざるを得なかった。
扉が完全に開け放たれる。
そこにいたのは、薄闇に紛れるような紫紺の長髪を背に流すシェリアであり、相も変わらず無感情な貌を浮かべる彼女は。
――何故か、一糸纏わぬ姿でそこに立っていた。
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