拭えぬトラウマと契約の成立
自らへ向けられた指先に、七夜は怪訝の目を向けた。
「……勇者が、固有技能? 称号じゃなくてか?」
「そうよ」
七夜の猜疑に満ちた問い掛けに、けれど黒髪の女は平然と応じる。
「考えてもみなさいな。十人の異世界人がいます。最初の一人が前代未聞の能力値を叩き出して、その人が勇者だと言って崇められました。でも二人目の異世界人は、一人目よりも優れた能力を見せました。今度はその人が勇者だって呼ばれるようになりました。けど今度は三人目が、四人目が、五人目が……そんな風に個々人の能力だけを見て誰が勇者かなんて判断してたら、きっと今頃、この世界は勇者と呼ばれる人間で溢れかえっていると思うのだけれど?」
「それは……確かに、そうかもな」
「でしょう? だからナナヤくんの認識は全くの勘違いよ。……まったく、勘違いがバレて誰かから下手に嗤われるより先に、私に教えてもらえて良かったわね。恥ずかしい思いをせずに済んだのよ? さぁ、私に感謝の気持ちを言ってくれたっていいのよっ!」
目を爛々と輝かせて自慢げな笑みを湛えるリィリス。
しかし七夜は彼女の言葉に頷くのがどうしても嫌で、不満げな表情を浮かべて顔を逸らす。
これしきの事ではまだ七夜の信頼を得る事は難しいと分かっていリィリスは、けれど、もういっそ意固地とも言える様子で自分の〝誘い〟を拒否し続ける少年に、少しだけ不服の感情を抱いた。
本気のそれではなく、半ば不貞腐れに近い。
リィリスという女の性格がよく分かるというものだ。
むっと唇を突き出した彼女は、そのまま勢いよく立ち上がると、豊満な双丘を見事なまでに揺らしながら、唐突にこんな事を言い始めた。
「ナナヤくんがそういう態度を取っちゃうなら、お姉さんにだって考えがあるのだけれど。このままじゃナナヤくん、ここから出られてもすぐに野垂れ死ぬ事になるわよ?」
「……どういう意味だよ」
「ナナヤくんがこのままお姉さんに反抗的な態度を取るのなら、私は自分の一存でナナヤくんへのサポートを取りやめると言っているの」
「いや、別に頼んでもいない事を手前勝手に取りやめるとか言われても困るんだがな。別にあんたの助けがなくたって生きていける。簡単に死ぬほど俺はヤワじゃない」
「それはどうかしらねぇ?」
僅かに挑発的な表情を向けてくるリィリスに、七夜は訝りの視線を返す。
「貴方はこの世界に来てからひと月もしない内にこの監獄に収容されたわ。そして今に至るまで、外界との接触は完全にシャットアウトされている。言うなれば今のナナヤくんはね、多少考える頭を持っているだけの無力な赤ん坊と同レベルなのよ。そんな子が突然外の世界に放り出されて、たった一人で生きていける筈がないでしょう」
「……生きていけるに決まってるだろう。あまり舐めるな。確かに俺は異世界人だが、魔法がある以外に二つの世界は何が違う? 別に大きな違いは何もないと俺は思うけどな。そりゃ人殺しなんかが当たり前に白昼堂々と起きるんなら、あんたの言う通り気を付けなきゃ――」
「起きるから忠告しているのよ」
「は?」
「人殺し」
その言葉に。
七夜は反射的に口を噤んだ。
何の思いも抱いていない様子で、何の気なしに、リィリスは言う。
「ナナヤくんのいた世界がどんなものなのか私は知らないけれど、元々の貴方や他の異世界人なんかを見る限り、すごく平和で争いごとなんかとは無縁のところだったのでしょうね? でも
ただね、と黒ドレスの女は静かな物腰で続ける。
「死んだ人間は、どうしたって後悔する事は出来ないの。一人で勝手に死んだ後に、あのとき私の言葉を聞き入れていれば良かったーだなんて、泣きながら悔やんでも知らないわよ?」
「……、」
「この世界の事を何も知らない。せっかく移植された魔法の使い方だって知らない、だから身の守り方も知らない。右も左も分からない男の子が、殺しと戦争の蔓延する世界の中でどうやって生きていくのかしら? そんな何も持っていない状態で無事に生き延びられるなら、その人はきっと、とびっきりの運の持ち主なのでしょうね? もしもいるなら一度会って幸運を分けて欲しいところだわ」
リィリスの言葉自体は、大袈裟なものにしか……わざと七夜を怯えさせるためだけの誇張にしか、とても聞こえなかった。
それでも自身を見下ろす彼女の顔が、眼が、何とも真に迫ったものであったがゆえに、七夜は半ば無意識に生唾を呑み込む。
そして、これだけ凄惨な数年を経てきたにも関わらず、未だ自分の根本意識が元の世界に準拠したままだったという事に気付かされ、自らの頬をぶん殴りたくなった。
――言うなればそれは。
異世界に来てから一度として魔法というものを使った事が無い、無能力者ゆえの弊害なのかも知れなかった。
自分を惨めに思う気持ちが膨れ上がる。
同時に、召喚されてから今に至るまでの時間が、まるで無為なものでしかなかったと思いかけた。
自分はまだ過去に縛られている。
その感覚は、七夜に恐怖をもたらした。
もう昔には戻りたくないという感情により、引き起こされる恐怖。
同じように召喚されたクラスメイト達は、もうこの世界の条理に染まっているのだろう。
自分だけが、〝あの時〟を分岐点として一人置き去りにされてしまっているのだという認識もまた、七夜の恐れを助長させる。
――そんな彼の様子を、リィリスは細めた目付きで見下ろしていた。
彼女が口にしたのは冗談半分の言葉だったが、それを発端としてか、七夜の身体から漏れ出ていた刃物の如き鋭利な威が、途端に薄まったのだ。
あれしきの事でここまで彼の精神が乱れるとは、思ってもいなかった。リィリスは即座に、己の七夜に対する認識に補正をかける。
(……自分の弱さというものに、過敏に反応している……? いいえ、この様子じゃ、トラウマが強く影響しているのかしら……この子の中ではまだ、〝あの時〟の事が強く根付いているのでしょうね……)
あの時。
七夜がこの世界に召喚された直後から彼の動向を観察していたリィリスは、気紛れに思い出す。
目の前で蹲っている少年が、周囲の者達から見放され、謂れのない罪をなすり付けられて地獄へ落とされるに至った、かつての出来事を。
そう簡単に乗り越えられるものではないとは、彼女も思う。七夜を地獄に突き落とした不特定多数の者たちに対し、思う事がない訳でもない。
それでも、とリィリスは微かに眉を顰める。
この程度のトラウマで心を揺さぶられるのであれば、彼女にとっては期待外れだ。
そう思った直後に、しかし、その判断は現状においては早計でしかないと考えを改める。
自分は
しかし未だ、この少年はリィリスの望みを果たせるほどの器ではない。
(……それなら)
それなら、そこに至る手助けをすればいいだけの話だ。
そう判じて、リィリスは自身の瞳から、秘密裏の思惑を込めた色をひっそりと消した。
黙って俯き続けている七夜に、柔らかな声をかける。
「大丈夫よ。私が魔法の使い方を教えてあげるって、さっき言ったでしょう? この世界での生き方だって教えるわ。ナナヤくんが死んでしまわないように、ナナヤくんが強くなれるように、私が最大限の助力をしてあげる。だから、そんな風に自己嫌悪に浸らないで。私を信じて?」
少しだけ、七夜の顔が持ち上がる。
「まだ私の事が信じられないっていうなら、今は無条件でナナヤくんの力になるわ。その中で少しずつ、私が信用に足る存在なのか判断してくれればいいから。少なくとも、ナナヤくんの不利益になるような事は絶対にしないと、ここで約束をするわ」
言い聞かせるように、そして真摯な意思を込めるように、リィリスはゆっくりと言う。
彼女はそこで口を閉ざした。
数秒の間を置き、今度は七夜が口を開く。
「何で……俺にそこまでする? そこまでして、あんたに何かメリットがあるのか」
「あるに決まっているから、こうして交渉しているのよ。私だって、何の見返りもなしに、命を懸けてまで他人に自分の技能をあげたりはしないわ」
「……見返りってのはいったい何なんだ? 俺はあんたに、何をすればいい?」
「その話はまたどこかでね。でも安心して? 別に四肢や内臓、命を差し出せなんて無茶な対価を叩き付けるつもりはまったくないから。というかきっと、ナナヤくんがこの世界で普通に生きていたら、勝手に達成できちゃうような事だから」
微笑みを絶やさないままに言うリィリスに、七夜が感情の読めない瞳を向ける。
数秒の、間があった。
やがてリィリスの見下ろす先で、少年が深呼吸をする。
何度も、何度も、呼吸を繰り返す。
そうして、全ての後に七夜の口から零れたのは、無気力を孕んだ謝罪の言葉だった。
「……悪い。会ったばかりなのに、変に気を遣わせた」
その言葉に、リィリスは軽く瞠目する。
七夜の発した台詞が、表面的なものではなく、罪悪感に満ちたそれであると感じたがゆえに。
「気にしないで」
何という事のないように、平然とした物腰で応じる。
「ナナヤくんの力になるっていう約束、撤回するつもりはないわ。だから取り敢えずは、その言葉だけを信用してくれればいい。私の方から貴方を切り捨てるつもりは全くないけれど、私のサポートがナナヤくんの意にそぐわなければ、その時点でナナヤくんの方から〝契約〟を打ち切ってくれて構わないから」
「……随分簡単に言うんだな。あんたの中で、俺はどうしても必要な存在なんじゃないのか?」
七夜の問いに、リィリスは肩を竦めながらも、その貌に自信ありげな微笑みを覗かせて答える。
「どうしても必要よ。だから私はナナヤくんのために助力を惜しまない。少しでも早く、貴方の信頼を得たいもの。そして私の有能さをナナヤくんがきちんと理解する事が出来たのなら、間違っても私から離れようとは思わないはず……その自信の表れとでも思ってくれればいいわ」
思慮深い七夜は、更に疑問を重ねる。
「俺に技能を移植させて、わざわざ面倒な工程を踏んでまで俺の信頼を得ようとして……そんなコスパの悪いやり方をしてまで俺にやらせようとしている〝何か〟は、あんた自身じゃ出来ない事なのか? 正直、俺程度の人間に出来る事なら、あんたにだって出来るような気がしてならないんだが」
「ナナヤくんにしか出来ない事よ。貴方は、この王国が命運を賭してまで召喚してみせた勇者なのだから。その存在価値を、きちんと理解してちょうだい」
「……つまりリィリス、あんたが欲してるのは、俺の持つ勇者の力って事なんだな」
「まぁ、大まかに言えばそうなるわね」
曖昧な言い方が少しだけ気にかかったが、七夜はその違和感を聞き流した。
リィリスから視線を外し、思案に没する。
自分が勇者だと言う彼女の言葉を、完全に信じた訳ではない。寧ろ疑いは未だ持ち続けている。
とは言え、信じる根拠もなければ、疑う根拠も実のところ無い。
リィリスが何もかも嘘を口にしているとして、そうして騙し通せた斯波七夜という人間に、何の利用価値があるというのか。
今の七夜には、力も知識もない。
そんな人間に交渉事を持ちかけるなど、真っ当な者ではないだろう。
だが、真っ当ではないからこそ、信じられる事もある。
自分はもう、何も持っていない。それはつまり、失うものが何もないという事だ。
なればこそ、何も憂慮する必要はない――
その瞬間。
斯波七夜は、覚悟を決めた。
「分かった」
再び鋭い光を灯した双眸を、リィリスへと向ける。
「それなら俺は、遠慮なくあんたを利用させてもらう。
「構わないわ。すぐに私の有用性に気付くだろうから。……お姉さんがいないと生きていけない身体にしてあげるから、ナナヤくんの方こそ、今の内から覚悟しておく事ね」
鋭利な眼差しと蠱惑的な笑みが、静かにぶつかり合った。
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