封印を施した者


 七夜がリィリスとの間に暫定的な契約関係を結んだ、すぐ後の事であった。

 彼の身体を唐突な倦怠感と疲労感が襲った。


「ッ……?」


 視界が霞み、決して無視できないレベルの眩暈が生じる。

 床に座り、背を壁に預ける姿勢を取っていたにも関わらず、不意の身体異常に上体がぐらりと傾いてしまう。


 咄嗟に手を地に付けて転倒だけは防いだものの、今度は吐き気までもが湧き上がってきて、七夜は思わず顔を青褪めさせた。


「なん……これ、リィリス……急に身体がおかしく……これも、技能を移植し、た……副作用なのかっ……?」


 七夜が懸命に意識を保たせながら訊ねると、寝台の上で妖艶な居住まいで足を組んでいる黒ドレスの女は、何という事はないように答えた。


「違うわよ。それは単なる過労。いい加減に体力が限界なんでしょうね」


「か、過労……?」


「考えてみれば当然よね。いくら私が逐一回復魔法をかけてあげているとは言え、ナナヤくんはそもそもが不健康極まりなかったもの」


 リィリスがパチンと指を鳴らせば、何度見たかもう覚えていない複数色のパーティクルが七夜の全身を覆う。

 倦怠感だけは微かに和らいだものの、吐き気や眩暈、四肢に纏わりつく重みのようなものは一切消えなかった。


「この二年半、真面まともな食事は与えてもらえず、こんな場所だから満足に眠る事だって出来なくて、常に心には負荷がかかっている状態だった。その挙句に、技能移植によって地獄みたいな苦痛を一ヶ月間も味わったんだもの。寧ろ、今まで平気な顔していられた事を褒めてあげたいくらいだわ」


「……なら、の半分、は……あんたのせいに、なるんだが……」


「まぁそうと言えなくもないわね。とりあえず横になって休みなさい。お詫びも兼ねてお姉さんが添い寝してあげるからっ」


「やめてくれ……」


 七夜の抵抗も虚しく、リィリスは彼の身体を魔法で浮かせて、強制的に寝台へ寝かせた。

 言葉通り、彼女の豊満で柔らかな肢体が、すぐさま七夜の横に滑り込んでくる。


「本当に寝る奴があるか……」


「美人なお姉さんに添い寝されれば、早く回復するかもでしょう?」


 そんな風に冗談交じりな事を言うリィリスは――しかし。

 直後に表情を改めると、その端正な貌に一抹の申し訳なさのようなものを覗かせ、静かな声で続けた。


「ごめんなさいね。身体の異常を丸ごと消せる魔法もあるにはあるのだけれど、私には使えないの。だからせめて、これくらいはさせて?」


 聞く者を包み込むかのような優し気な声音に、七夜は内心で戸惑う。


 ――だ。


 時おりリィリスは、まるで人が変わったかのように別の一面を見せる事がある。それが人格的な面からしてあまりにも異なっているものだから、その都度、七夜の気は削がれてしまう。


 開きかけた口をやんわりと閉ざし、釈然としない思いを抱きながらも、全身を犯す疲労感に任せて瞼を閉じる。

 たったそれだけで、気持ちが安らぐような気がした。


 身体の内側から疲労の源とも言える何かが漏れ出し、ボロボロの寝台に吸い込まれてゆくような感覚を味わいながら、瞼の裏の暗闇に身を預ける。

 実体はない筈であるのに、すぐ傍らに寝そべるリィリスから、人肌のぬくもりが伝わって来るようでもあった。


 安らぎを覚えながらも、眠気を覚える事はない。

 鮮明な意識の中で意識を暗闇に委ねていると、それはそれで、至近で同じように横たわっているであろう女の存在を嫌に感じる。


 それから逃れたくて、七夜はせめて、リィリスに背を向ける形で寝返りを打った。


「ねぇ、ナナヤくん」


 そんな折。

 不意にリィリスは話しかけてきた。


「……何だ」


「眠れない?」


「……あぁ」


「なら、〝お勉強〟の続きをしましょう。まだナナヤくんには、聞きたい事が沢山あるでしょう? お姉さんは子守唄も寝物語の童話も知らないから、ナナヤくんが眠れるまでの間、ナナヤくんの知りたい事に答えてあげる」


 背後で、衣擦れの音がした。

 恐らく自分の方を向いているのだろうと検討を付けた七夜は、始終リィリスから視線を注がれているという事に若干の居心地の悪さを覚えながらも、思考を巡らせる。


 自身の知りたい事、そしてリィリスと交わした一連のやり取りを最初の時点から脳裏に思い起こした七夜は――やがて眉根を顰め、口を開く。


 少年の声が、牢獄の中に低く響く。


「……あんたの話で、勇者ってのが技能の一つだって事は、理解した」


 七夜がリィリスに背を向けたまま。

 視線が決して交わらないまま、言葉が続く。


「なら、それを踏まえてに戻るんだが……仮に俺が本当の勇者だったとして……その事実と、俺が無能力者だって事が、どうして繋がるんだ。俺にはその二つが、何をどう考えても無関係にしか思えない」


 七夜は問うた。どうして自分には何の力も発現しなかったのかと。

 リィリスは答えた。全ては貴方が勇者だからと。


 一見辻褄の合っていない無関係な問答を思い返し、七夜は言及した。


 返ってきたのは、微笑みを伴った声だった、


「安心しなさいな。きちんと関係しているから」


 訝しむように疑う七夜にリィリスは軽い調子で言う。

 気負いのない様子で。

 そして、眠りに落ちるまでのゆるやかな時間に紡ぐ、他愛ない雑談のような調子で。


「答えは簡単よ……貴方が勇者だという事実を知られたくない人物が、貴方の傍にはいた……その誰かが貴方に封印魔法を施した。だから貴方には、何の力も生まれなかったのよ」


「……封印、魔法……?」


 オウム返しに訊ねる七夜。

 彼の背後で、リィリスが少年の小さな背中を眺めながら、穏やかな声色で言葉を連ね始める。


「一つ補足しておくとね、この世界に生きている限り、技能はともかくとして一つも魔法が発現しないってのはまずあり得ないの。赤ん坊の頃は無能力者でも、年齢を重ねて、人として成長すれば誰だって魔法を扱えるようになる。産声を上げれば、掴まり立ちが出来れば、言葉を覚えれば、数字の計算を覚えれば、友達が出来れば、その友達と喧嘩をすれば、誰かに恋心のようなものを抱けば、失恋を経験すれば……そういった人として些細な成長であっても、それがその人にとっての『試練』となり得るのであれば、魔法の発現に必要なファクターになるの。だから、この世に生きている者は誰であろうと、魔法を扱える。それは異世界から召喚されて、この世界にやって来たナナヤくんも例外ではないわ」


 しかし七夜は、異世界からの召喚者であれば必ず発現するという希少技能どころか、この世界の人間であれば必ず発現するという一般魔法すら持ち得ていない。


 それはおかしいとリィリスは言う。


 どれだけ努力を重ねても成果としての結果が伴わず、ただ周囲から無能と嘲られていたかつての記憶を思い起こし、七夜は無意識に身体を丸めて己の身を掻き抱いた。


「ねぇ。ナナヤくんは私に教えられるまで、勇者っていうのは資質以外に判別する方法がないって思ってたのよね?」


「……あぁ。この世界に召喚されたその日に、そう教えられたからな」


「ならその〝嘘〟をついた人間が、貴方から勇者の技能を奪って、何があっても魔法が使えない体質にした張本人よ」


 そう言われて。


 七夜は瞠目した。同時に息を呑む。

 リィリスの発した言葉を理解するのに数秒。そこから言葉の意味を嚥下するのに、また数秒。


 最後に、七夜たち異世界人に召喚直後から親身な態度を取ってくれた美形の男性の顔を思い出す。

 ――自然と、泥濘の如き昏い感情が湧出してきた。


 タイミングを同じくして、リィリスが〝その者〟の名を口にする。


「フィルヴィス・レアン・オルベラード……この王国の魔導師を束ねる組織のトップだったかしら? 確かにあのレベルの魔導師なら、誰にも気付かれずに、ほんの一瞬で、最高位の封印魔法を行使できるでしょうね」


 強く、シーツを握り締める。七夜の胸中を、怒りだけではない何かの感情がとぐろを巻くように延々と渦巻いた。


 フィルヴィスの薄やかで温柔な微笑みが脳裏に蘇る。

 彼は七夜が無能力者と判定された後も、変わらぬ態度で接してくれた者の一人だ。言ってしまえば何を考えているのか分からないとも思える薄笑いに、何か自分たちには話していない内情の一つや二つはあるのだろうと予想はしていたが――。


 あの青年の、人の良さそうな中性的な笑みが、途端に能面のような作り物に思えて仕方がなかった。

 嫌悪感が募り、吐き気さえ催しそうになった。


 七夜の意識外で、彼の身体から漆黒の粒子が滲み出る。

 未だ魔力操作の基本すら知らない七夜に代わり、リィリスが絶えず魔力の漏出を抑え込んでいたのだが、そんな彼女の抑圧すらも跳ねのける力が、一瞬とは言え彼から発せられた。


「……どうして、あいつは、俺にそんな事をした……?」


「さぁ、どうしてかしら。私はこの国の王女さまとは違って、人の心までは見通せないもの。そればっかりは本人に聞くしかないわね」


「……そうか」


 いっそ恐ろしいほどに淡々とした少年の声に変わらぬ調子で応じながら、リィリスは微かに目を細めた。

 それまではまるで残り火のように小さく燻った状態にあった七夜の〝殺意〟が、急激な速度で膨れ上がり始めたからだ。


 リィリスの知るの威にさえ匹敵するほどの、濃密な圧。

 数年前まで平和な世界で生き、今の今まで命の危険を感じる事無く生きてきた斯波七夜という名の人間が、決して発せられないはずの巨大な殺意だった。


 多くの者から見捨てられ、絶望した挙句にどす黒い感情を抱くその理由は理解出来る。

 しかし、である。

 この二年半で経験した地獄が彼の心を変質させていたとしても、これほどに〝本物〟の殺意を生み出す事は出来るのだろうか?


 そう自身に疑問を呈し――リィリスは、思わず微笑んだ。

 七夜にはまだ、自分の知らない一面が沢山ある。自身の掲げる望みのためには、斯波七夜という少年の全てを知る必要がある。


 彼に対する理解がまた一つ及んだ事に、リィリスは微笑みを浮かべたのだ。


 七夜の怒りを鎮めるために、そして七夜から漏出する魔力粒子を抑え込むために、リィリスは彼の背中に優しく手を触れた。

 同時に、精神安定の魔法を行使する。

 彼の体内から放出されている禍々しい殺意が収束し、七夜の全身を縛り付けていた強張りがゆっくりと解けていった。


 それでも七夜は何も言わない。

 胸中の感情を持て余すかのように緩慢な呼吸を何度も繰り返していた。


 ゆえにリィリスも、別段七夜の様子を案じるような配慮はせず、会話の続きとしての言葉を口にした。


「そのフィルヴィスっていう魔導師、よっぽど優秀なのねぇ……少なくとも今の私じゃ、ナナヤくんにかけられた封印魔法を解除する事は出来ないわ。もういっそ呪いよ、これ」


 七夜の背を、リィリスの実体なき指がゆっくりと滑る。

 それと同時、彼女の眼が七夜の体内――身体の奥を見据えるかのように、再び細められた。


「私が視る限り、ナナヤくんの中には確かに勇者としての魔法が潜在しているわ。けれど、施された魔法式が難解すぎて、全く付け込める隙がない……出来ない事はないけれど、綺麗さっぱり取っ払うには、最低でも一年は欲しいわねぇ」


「……そんなになのか」


 そう言う七夜の声色は、けれど落胆の色を潜めてはいなかった。

 表面上を取り繕っているだけなのか、それとも最初から期待はしていなかったのか――。


 勝手に後者だと判じて勝手に不満を抱く彼女へと、声が掛けられる。


「なぁ、リィリス」


「何かしら?」


「その封印魔法をすぐにでも解除する方法は、他に何かないのか」


 告げられた言葉に、リィリスは暫しの沈黙を置いた。

 ほんの一瞬だけ答えに迷う。正直に言っていいものか思索を巡らせる。


 だが即座に構わないと判じた。

 リィリスが最も危惧し、避けなければと思っているのは、迂闊に口にした言葉によって七夜の奥底に潜む濃密な殺意が自分へ向けられる事だけだからだ。


 それを思えば、この〝回答〟は危惧の範疇からは外れている。

 ゆえにリィリスは淡泊な口調で言った。


「あるわよ。その魔導師を殺せばいいの」


「そうか」


 と。

 返ってきたのは、拍子抜けするほどあっさりとした納得の言葉だけだった。


「……ナナヤくんはどうしたい? 勇者の力を取り戻すかどうかはともかくとして、全ての発端を生み出したその男を何が何でも殺したい? それなら私は喜んで協力するけれど?」


「別に」


 七夜がリィリスの疑問に否を唱える。


「絶対に殺したいとは思ってない。ただせめて、どうして俺がこんな目に遭わなきゃいけなかったのか、その答えを聞く。そしてどんな答えだったとしても、俺が受けてきた苦しみと同じだけの地獄を味わわせる。それだけだ」


 あと、と言葉が続く。


「勇者の力なんてものにも興味はない……今さらそんなもの持ったところでどうにもならないしな。わざわざ殺す労力が必要なら尚更だ。俺は人殺しになんてなりたくない」


「……本当に? 本当に殺す気はないの?」


「ないって言ってるだろ」


 七夜の声に気疎い色が混ざる。


「この世界が人殺しの横行するところだったとしても、俺はその条理に染まるつもりはない。俺はただ、自分にされた事をそのまま返してやりたいだけだ。だから、俺があの男を殺すとしたら、俺があの男に殺されたその時だけだ」


 明らかに矛盾した答えを口にする七夜。

 だがその口調も、声色も、至って正常そのものだった。


 彼の後姿を見つめるリィリスはおもむろに口を噤む。斯波七夜という人間が持ってしまった破綻した精神性を、その華奢な背中に改めて見た。


 寝台に横たわったまま、七夜がもぞりと身を動かす。

 背中を丸めて膝を抱え込んだその姿勢は、本格的な眠りに就く時のそれだった。


 ようやく現れつつある睡魔に抗う事無く、意識を暗闇に落とし始めた七夜は、視界が閉ざされる直前、背後の女に言葉を投げた。


「そこにいるのは構わないが、俺の眠りだけは妨げないでくれ……俺の唯一の安息時間なんだ……」


「分かったわ。気が済むまで、ゆっくり休みなさい」


「言われなくても……そうす、る……」


 声から急速に力が抜けてゆくのを感じて、リィリスは思わず苦笑を零した。

 少なくとも彼の安眠を妨害する行為は、彼からの害意を誘引するものでしかないという認識を、新たに付け加える。


 付け加えながら、再び七夜の背中にそっと手を触れる。

 そうして微量の魔力を流し込む。七夜が少しでも良い夢を見られるようにと、一抹の願いを込めて。


 七夜の背中が規則正しい動きを繰り返すようになるまで、そう時間はかからなかった。

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