はじめてのあどばいす


 窓が一つとして無く、そもそも地下深くに設けられている場所であるからして、七夜のいる牢屋に昼夜の概念などない。


 毎日必ず決まった時間に懲罰が行われていたとはいえ、それで一日の時間全てを把握できるかと言われれば、難しい話である。


 ゆえにこの二年半、七夜の睡眠時間が定まる事はなかった。

 この日は久々に十時間近くも眠りについた後、静かに目を覚ました。寝台の上で丸まっていた彼は眠りの過程で寝返りを何度か繰り返し、結局、眠りに就いた時点とは反対側を向いた状態での覚醒を迎えた。


「ん……、」


 つまり、リィリスが横たわっていた方を向いて、七夜は目を覚ました。


「おはよう。よく眠れたかしら?」


 至近の距離に、女の耽美な顔があった。

 この世のものとは思えない完成された美貌を湛えるリィリスは、変わらず七夜の傍らで添い寝をした姿勢のまま、艶冶な微笑みを浮かべていた。


 ……否、一つだけ変化があった。

 微笑むリィリスの肢体には、何の衣服も纏われていなかった。

 つい昨日にも見たばかりの均整の取れた彫像の如き裸体が、それがさも当然であるかのように、寝台に横たえられている。


 魔法によって投影されている幻だとは信じられないほど、精巧に造られているその〝肉体〟が、色々なところをふるりと震わせながら、七夜へと擦り寄って来る。


「ナナヤくん、寝てる時は案外かわいい顔してるのね。思わず見惚れちゃったわ」


「……何してる、リィリス」


 声音に最大限の胡乱さを混ぜて、彼は言った。


「何って、ナナヤくんが少しでも安眠できるように、添い寝してあげていただけよ? 実体がないのが残念ねぇ……本当なら、寝てるナナヤくんをぎゅーって抱き締めてあげたかったのに」


「違う。俺が聞いてるのは、何で全裸なのかって事だ。昨日までは普通に服着てただろ」


「それはあれよ。ナナヤくんが少しでも気持ちのいい朝を迎えられるように、文字通り、お姉さんがひと肌脱いであげようと思って」


「今すぐ服を着ろ。目が覚めて目の前に全裸の女がいて、気分がすっきりする奴がどこにいる」


 そう言って七夜は勢いをつけて上体を起こした。

 その背中に女の不満げな声がかかる。


「ナナヤくんは今、とても大きな幸せを逃し続けている最中なのよ? こんな美人で可憐なお姉さんが全裸で朝の目覚めを提供してあげたというのに、それを享受しないだなんて。男の子の夢と希望をドブに捨てているようなものね」


「俺に何を期待してるんだ、あんたは」


 辟易とした表情を浮かべながら、上体を起こす。

 寝台に腰掛け一つ息を吐いた七夜は、身体の内側に意識を向け、自身の現状を確認した。


 技能移植による痛みと不快感は、未だ彼を蝕んでいる。

 とうに慣れ、平然とした顔をしているものの、まるで自身の精神が末端から徐々に削られてゆく感覚は、変わらず七夜の中にあった。


「……なぁ、リィリス。ずっと俺の中にあるこの違和感は、いつになったら消えるんだ」


 その問いに、渋々といった様子で黒のドレスを出現させたリィリスが、七夜の隣に腰掛けながら答えた。


「最初に言ったでしょう? 全部の工程が終わるのに少なくとも半年はかかるって。今は単に技能が簡易的に定着しただけで、そこから身体に浸透して馴染むのにはまだまだ時間が必要なの」


「ならあと数ヶ月は、ずっとこの気持ち悪さと付き合わなきゃいけないのか?」


「定着そのものは済んでいるから、正確には五ヶ月くらいかしらね。大丈夫よ、時間に経過に合わせて痛みも気持ち悪さも和らいでいくから。今の時点で平気な顔が出来てるんだし、どうって事ないでしょう?」


「これでも精一杯我慢してるんだよ」


 そう言って七夜は、自身の右手を見下ろす。


「でも、そうか。馴染むのに暫く時間がかかるって事は、俺はまだ何も魔法が使えないままなんだな……」


「そうだけれど、それがどうかした?」


 微かに目を細めた七夜へ、リィリスが横合いから覗き込むような姿勢で訊ねる。


「あ、もしかして魔法が使えるなら派手に脱獄してやろうとか考えてたの?」


「違う」


「止めておいた方がいいわよー。私でさえ『ノード』の魔法はたくさん訓練しなきゃ使えなかったんだから。確かに私がサポートすればある程度はいけるだろうけれど、それでも今のナナヤくんなら、あっという間に捕まって拷問されて、刑期延長されるのがオチね」


「だから違うって言ってるだろ。俺の話を聞け」


 溜息を吐き、そこから七夜は唐突に黙り込んだ。

 脱獄などという行為を画策してはいないが、可能であれば、七夜は今すぐにでも魔法を使ってみたいと思っていた。


 好奇心から来る軽薄な願望などでは決してない。

 ――無能力者。

 その単語が、七夜の中に未だ強く根付いているがゆえだった。


 無能と呼ばれ、蔑まれていたかつての記憶を思い起こす度、過去に対する恐怖が七夜の身を震わせる。

 それはもううんざりだと思った。


 このトラウマを一刻も早く克服するには、無能であるという自己のイメージを覆す事が……つまり、実際に魔法を行使し、自分は無能力者ではないという事実を認識する事が必要であると、七夜は判じたのだ。


 だが、『ノード』の魔法を使うには、更なる期間を要するのだと言う。

 いつまでも惨めな気持ちを抱いていなくなくて、一抹の望みをかけてリィリスに訊ねてみたものの、そういう事ならばどうしようもない。


 技能が身体に馴染むまで、この牢獄から出られるまで大人しく待つしかないと思い、七夜は勢いよく後ろへ上体を倒した。

 ドン、という固い音と共に薄っぺらなシーツから埃が舞い上がる。


 ――そんな七夜の様子を、リィリスは終始、観察していた。


「ねぇ、ナナヤくん」


 少年の身体に覆い被さるような姿勢で、リィリスが七夜を見下ろす。

 ちょうど目と鼻の先に彼女の豊満な双丘が来るような位置関係がそこにはあった。


 その体勢に少しだけ悪意を覚えた七夜は、しかし反応する方が負けだと思い、至近にふるりと揺れる二つの膨らみの存在を感じつつも何という事はないように応じる。


「何だ」


「いくら移植にまだ時間がかかるって言っても、そのあいだ何もしないのは流石に勿体ないわ。ナナヤくんに色々な啖呵たんかを切っちゃった手前、少しでもナナヤくんに信用してもらう為に色々とサポートをしたいのだけれど、いいかしら?」


 リィリスの黒髪がさらりと流れ、こめかみから零れ落ちた絹の如きそれがひと房、七夜の頬に落ちる。


「それは寧ろありがたいが……サポートって言っても具体的に何をするんだ? 俺はまだ魔法が使えない上に、この場所が場所だ。出来る事なんて何もないと思うんだけどな」


「あら、それは考えが浅いと言わざるを得ないわね」


 不敵な笑みを浮かべ、黒ドレスの女は言う。


「私が契約に盛り込んだ〝サポート〟って言うのは、本当に色々な事よ。後々、私の望む事をナナヤくんが確実に達成できるように、ナナヤくんを強くする……この世界についてナナヤくんが知らない事を教えたり、ナナヤくんがもっと強くなれるような最適解を教えたり……簡単に言えばね、私は最短距離を示してあげたいのよ」


「最短距離?」


「そ。ナナヤくんが、この世界の誰よりも強くなれるまでの、最短距離」


 その言葉を。

 束の間、七夜は理解出来なくて言葉を詰まらせた。


「……この世界の、誰よりも……?」


「えぇ。少なくともそれくらいじゃなきゃ、私の望みは果たせないもの。もちろん簡単に叶えられる事じゃないっていうのは分かっているわ。だから私は、私の為にナナヤくんを最大限にサポートする。その内容がどんなものであれ、ね?」


 言いながら、リィリスは七夜の頬へ落ちていた自身の黒髪を、その白く細い指で優しく払い除けた。七夜へ覆い被さるような姿勢から、元の体勢に戻る。


「あんたは最終的に、どんな無理難題を俺に吹っ掛けるつもりなんだ……」


「だから、そんなに難しい事を言うつもりはないって言ったでしょうに。私の言葉に従って、私の言う通りにしていれば、私の望みを簡単に叶えられるくらいナナヤくんは強くなれるから。だから下手な心配はこれっぽっちもいらないわ」


 訝りの視線を投げる七夜に対し、リィリスはあくまでも薄やかな微笑みを貫き続ける。

 非常に艶冶な笑みだが、その奥に何を考えているか分からない不気味な色が揺らめいている。


「……、」


 己に向けて定めた覚悟を思い出す。

 もう失うものがないからと彼女の言葉に乗り、〝契約〟を交わした。


 惨めな弱者――今のその立場から脱する事が出来るなら。

 そう思いリィリスとの関係を受け入れたが、この得体の知れない女の理由も分からない言葉を信じたのは早計ではなかったのかと、不意にどうしても疑いたくなる。


 その揺れかける心を払拭すべく、七夜は勢いをつけて上体を起こした。


「分かった。リィリスに力を借りるっていうのはもう決めた事だ。あんたの言う事には何でも従うさ」


「素晴らしい心がけね。それくらい素直だと、お姉さんも嬉しいわ」


 言いながら、リィリスが七夜の膝上に乗ってくる。お互い向かい合う姿勢になったかと思えば、妖艶な肢体に黒ドレスを纏わせる女は、七夜の首に両腕を回してきた。


 女が男に甘える時のような体勢。しかし魔法による幻影である以上、重さもぬくもりも、香りすら伝わってこない。

 ゆえに自身の鼻先数センチの距離に彼女の美しく整った顔が迫ろうと、七夜は表情一つ変えなかった。


「あとは、出来ればもう少し私の一挙一動にドギマギしてくれると何も言う事はないのだけれど」


「それで俺が強くなれるなら、喜んでするんだけどな」


 少年の根も葉もない返答にリィリスは浅い溜息を吐き、けれど体勢は変えないまま、言葉を続けた。


「なら最初のサポートよ。とは言っても、今のナナヤくんはまだ技能を使えないから、出来ることは限られているけれど。だからこれは、サポートって言うよりもアドバイスね」


「?」


「ナナヤくんが今後、この世界でちゃんと生きていけるようにするための、最初のアドバイス」


 そうして彼女は、何故か自らの背を振り返った。

 リィリスの背後――七夜の正面には、ただ牢獄の壁があるだけだ。

 

 そちらに視線を投げた彼女の意図が分からず、七夜が怪訝な表情を浮かべていると、くるりとこちらに向き直ったリィリスが言った。


「ナナヤくん、今からお姉さんとをしましょうか」


「……は?」


 唐突な言葉に、七夜は顔を顰めた。






【第一章第一節  了】

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