〝勇者〟の概念
「……今、何て言った?」
告げられた内容が理解できなくて訊ね返した七夜に、リィリスが微笑みを浮かべたままに言う。
「もう一度言うわね。ナナヤくんが色々な理不尽を被って今ここにいるのは、全部、貴方が勇者だから……私は今、そう言ったのよ」
妖艶な笑みを湛える女は、適当な事を言っているようには見えない。
リィリスの言葉を理解するのに、七夜は相応の時間を要した。
五秒以上もの間を置いた後、ハッと我に返った彼は、その貌から鋭さや怒りの感情を消し、代わりに困惑と怪訝の色を乗せる。
「俺が……勇者、だと? 何の冗談だ。突拍子もないでたらめを言えば、俺を言いくるめられるとでも思ったのか」
「そんなんじゃないわよ」
リィリスがまたも腕を組み、豊かな胸を下から持ち上げるような姿勢を取る。
男を誘うような笑みは変わらず。
けれどその奥に潜む泰然とした物腰は、自らの言葉を真実と疑っていない自身が窺えた。
「もちろん私なら、嘘で固めた言葉を本物のように思わせて、そうしてナナヤくんを騙し通していく事は出来るわ。もしそうするなら、もう少し信憑性のある嘘をつくけれど。でも私は、ナナヤくん曰く『突拍子もないでたらめ』に聞こえる答えを口にした。今こうして、自分の言葉が荒唐無稽な虚言だってナナヤくんに疑われる事が分かっていたにも関わらず、ね」
彼女の話す内容を、七夜は疑心に溢れた瞳で見据える。
「それでも
「……、」
そこまで言われても尚、七夜の瞳から相手を見定めるような光が消える事はない。
斯波七夜は基本的に、他人が口にした言葉の真偽を深く疑うような性格ではない。相手を疑うという行為に僅かながらの罪悪感を覚え、その末に相手に嘘をつかれたのであれば、それは仕方がなかったと割り切るタイプの人間だ。
その姿勢は、地獄を経験して心の在り様が変質した今でも変わらない。
但し、かつての七夜が他者の言葉をひとまず全て受け入れていたのに対し、今の七夜は、己に向けられた言葉の全てを片端から拒絶する。
七夜はリィリスの吐いた言葉の悉くを、全て偽りのそれであると判じていた。
しかし彼の中に根付く善性の心根が、またもリィリスに
「……当たり前だが」
「ん?」
「どうしてあんたがその答えを口にするに至ったか、その理由を話してもらえるんだろうな?」
「もちろんよ。きちんとナナヤくんに納得してもらうために、言葉は惜しまないつもりだもの」
――この状況に至った時点で。
既にリィリスは、自身が七夜からの信用を半ば勝ち得たと確信していた。
思っていた以上に、彼が絆されやすい性格だという事に、驚いてさえいた。
しかしそれは決して表情には出さない。
艶冶な笑みを浮かべたまま、少年を見定め続ける。
自らに注がれる女の視線に理由の分からぬ裁定の意が込められている事を、当然、七夜は知る由もなかった。
重さのない動きで地面を軽く跳ねたリィリスが、そのまま寝台へと腰を下ろす。
深いスリットの入ったドレスの隙間から、すらりと長い脚を惜し気もなく晒しながら、彼女は静かに口を開いた。
「私がどうしてナナヤくんを勇者と断定したのか……その理由は大まかに二つあるわ。まず一つは、ナナヤくんがこの世界の生物じゃあり得ない量の魔力を持っているからよ」
その言葉に、七夜が僅かに目を見開く。
同時に記憶が蘇る。この世界にやって来てすぐ、クラスメイト全員に対して能力検査が行われた際のそれが。
七夜にとっては嫌な記憶の一つだ。何故なら、あの時を発端に、自分は無能の烙印を刻まれる事になったのだから。
反射的に顔を顰めてしまったのを悟られたくなくて、少年はわざと吐き捨てるように言った。
「俺でも忘れていた事を知ってるなんて……あんたいつから俺の事を見てたんだ。こんなストーカー女にずっと監視されていたかと思うと、寒気がするな」
「あら。こんなに綺麗で素敵なお姉さんに監視されるなんて、寧ろご褒美なんじゃないかしら? いっそ咽び泣きながら感謝してほしいくらいなのだけれど」
適当な軽口を叩き合う。
しかし七夜の取り繕いすらも見抜いているらしいリィリスは、それ以上余計なやり取りを挟む事なく、すぐ後に本筋へ話を戻した。
「この世界に生きている生物の平均的な魔力量は、だいたい〝1500〟といったところね。生活魔法しか使えない一般市民は多くても〝1200〟、戦闘能力に長けた騎士や魔導師でも〝3000〟を上回る事はほぼあり得ないと言っていいわ。……そんな中で、ナナヤくん。貴方、自分の保有魔力量を覚えているかしら?」
問われ、七夜は思い出す。
今の今まで忘れたと思っていた記憶は、思ったよりもすんなりと浮上してきた。
「……〝6400〟、だったな」
「そう。その数値がどれだけ桁外れなものなのか、私の分かりやすい説明で嫌でも理解したのではなくて? 自分がどれだけ異質な存在だって事もね」
「そうは言われてもな」
自慢げな笑みを向けて来るリィリスに、七夜は不満を込めた表情で返す。
「俺はこの世界に来てから一度も魔法を使った事が無いんだ。だから自分にどれだけ馬鹿げた魔力量があるのか説明されても、全くとして実感が湧かない。その〝凄さ〟を目で見て実感出来れば手っ取り早いんだけどな」
「……数字だけじゃ判断基準にはならないという事?」
「そういう事だ」
あからさまな溜息を吐いて、七夜は肩を竦める。
だがリィリスもリィリスで、これしきの事で彼の納得を得られるとは到底思っていなかったのか、苦笑を浮かべて同じように肩を揺らした。
「なら、全ての話が終わった後でもいいわ。ナナヤくんに移植された『
「……あぁ」
「なら、次は二つ目ね」
リィリスが堂々と見せつけるように足を組み替える。
それでも視線を外す事無くまっすぐに自分を見据えてくる七夜に薄い笑みを向けると、何故だか考え込むような仕草を見せた。
「こっちの理由は……うーん、最初から話すとなると、何だかすっごく複雑で説明し辛いのだけれど……」
白魚の如き細い指を顎に当て、リィリスはぶつぶつと一人で言う。
七夜が尚のこと訝るような視線を差し向ければ――
「ごめんなさい、やっぱりナシで」
「……は?」
「色々考えて、分かりやすくナナヤくんに説明出来ないか考えてみたけれど、無理そうなの。最初から順序立てて話そうとすればすっごく時間がかかっちゃうし、その手間を考えたらちょーっと面倒だなーって思っちゃってね。だからごめんなさい、理由は二つあるって言ったけれど、一つだけで勘弁してくれないかしら?」
コテンと首を傾いでお茶目を装うような表情を見せるリィリス。
ペロッと舌を出してそんな事を言ってくる彼女に、七夜は暫し唖然として沈黙を置いた後、その目に警戒の色を幾重にも上乗せして睨み付けた。
「ふざけるなよ。馬鹿にするのも大概にしろ」
移植された『
「あんたは俺から信用を得たいんじゃなかったのか? なら隠し事は不利益にしか繋がらないはずだ。あんたさっき、自分でも言ってただろ。俺が納得するために言葉は惜しまないって。――つまり、契約は不成立って事でいいのか?」
「まぁ待ちなさいな。そこまで結論を急がなくてもいいでしょうに」
剣呑な雰囲気を醸す七夜に、けれどリィリスは相も変わらず余裕のある表情を湛えたままであった。
「別に言えないって訳じゃないのよ。ただ、本当に説明するのが大変なだけ。もしナナヤくんが私に協力してくれるって言うなら、二人だけの時間があるときにゆっくりたっぷり話してあげるわ。今は単に、そんな悠長に説明している暇がないというだけの話なのよ」
「……、」
未だ鋭い少年の双眸が相手を射抜く。
数秒、リィリスは七夜と正面から見つめ合っていたが、やがて少しだけ視線を彷徨わせると、おもむろに小さな息を吐いた。
「もう、分かったわよ。だったら一つだけ……今はこれ以上の説明は出来ないけれど、一つだけ、話す事にするわね」
そう言って彼女は軽快な動作で寝台から立ち上がると、音のない足取りで七夜の前へとやって来た。
そうして再び目線を合わせるようにしゃがみ込む。黒ドレスの裾と長い黒髪が動きにつられて柔らかく舞い上がった。
リィリスが、七夜の瞳を覗き込むように顔を近付けて来る。
光の一切を吸い込み閉じ込めんとする、無窮を思わす二つの黒眼。
七夜はそれに呑み込まれる感覚を微かに味わった。
「教えられたのよ。ある人から、ナナヤくんが勇者だって事を」
「……教えられた?」
「そう。より正確に言えば、勇者の力を持つ『シバナナヤ』という人間が、この世界にやって来るって事をかしら」
少年の目と鼻の先で、リィリスがその端麗な顔に微笑みを浮かべる。
その笑みは、彼女の美貌と相まって燦然としたものに見えたが、七夜はどこか、違和感のようなものを覚えた。
まるで――何か思い出したくない記憶に思いを馳せているかのような、
「だから言ってしまうとね、一つ目の理由は後付けでしかないの。貴方が桁外れの魔力を持っていると知る前から、貴方が勇者としての力を持っていると知っていた。だから私は、ナナヤくんがこの世界にやって来たその瞬間から、貴方の事を監視していたのよ」
「……あんたが、一体どこのどいつに教えられたのかってのは」
「まだ言えないわね。ここから先を話し始めると、いよいよ長くなっちゃうもの」
やり取りを終えた二人の間には、そうして沈黙が降りた。
七夜はリィリスに油断のない視線を向け、リィリスは七夜に真摯な意を込めた視線を向けている。
互いの瞳に宿る情は全く異なれど、二人はそれ相応に長い時間、無言で見つめ合った。
自らに差し向けられる相手の目に何を思ったのか、それは当人たち以外には分からない。
やがて、場に満ちた沈黙は破られる。
少年の方が、盛大に溜息を吐いたからだ。
「……分かったよ。後で必ず教えるって言うなら、今はそれを信じるさ」
「えぇ、約束するわ」
「ならその件に関する問答は終わりだ。聞きたい事は他に山ほどあるんだからな」
「いいわよ、答えられる事なら全部、懇切丁寧に教えてあげる」
七夜の目から僅かに剣呑さが取れたのを感じたリィリスは、彼の見せた一種の〝妥協〟とも言えるものが、自分に対して生じつつある信用の欠片によるものだと判じて、ひっそりと満足げな笑みを溢した。
正面に向かい合う七夜は、しかしその微笑に気付かない。
そう大して間を置かずに、「だったら」と、先ほどから気になっていた疑問点を口にする。
「ずっと変に思っていたんだが……あんたがさっきからずっと言ってる『勇者』って、そもそも一体なんなんだ。勇者ってのは魔法や技能みたいな目に見える称号なんかじゃなくて、言うなりゃ力としての資質でしか判別が出来ないって聞かされてるんだが?」
「あら」
七夜の問いに、リィリスが目を眇めて応じる。
「
聞こえようによっては馬鹿にしているとも取れる彼女の言葉に七夜は少しの苛立ちを覚えたが、外面には出さないようにした。
少年のそんな様子さえも面白がるようにくすくすと笑んだ女は、居住まいを正して言葉を続ける。
「あのね、勇者というのはただ優れた能力を持つ者に与えられる、不確定な呼び名なんかじゃないわ。
ピン、と。
白く細い人差し指が、突き立てられた。
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