地獄が及ぼす変容


 ――後にこの一ヶ月を思い返した七夜は、それまで最悪と思い込んできた監獄での二年半を、お遊びの地獄だったと称した。


 そして、正体も分からぬ謎の女に理由も分からず死ぬような思いをさせられた、たったひと月の期間がこそ、本物の地獄であったとも。


 それほどに、七夜を襲う激痛は凄まじいものであった。

 ほんの一瞬感じただけでも悲鳴を上げて泣いてしまいかねないありったけの苦痛が、常に、絶え間なく、四六時中。


 あまりの苦しみに檻の中をあちこち転がり回る彼の身体には、小さな切り傷や打撲痕が幾つも刻まれていった。

 だが、その度に七夜には回復魔法がかけられる。

 痛みから解放されるのは刹那の時間。そのひと時を喰らい潰すかのように、変わらぬ激痛が怒濤となって襲い掛かって来る。


 その繰り返しは、まさしく地獄だった。

 肉体への負荷以上に精神への負荷が積み重なり、只でさえボロボロになっていた七夜の〝内側〟を更に破壊し侵食してゆく。


 ――因みに。


 この日以降、七夜が懲罰を受ける事はなくなった。

 何故ならば、リィリスが魔法を用いて七夜の幻影を生み出し、その幻影が代わりとなって懲罰を受けるようになったからだ。


 この世界に存在する幻術系統の魔法は、文字通り、基本的には実体を持たない幻を生み出す事しか出来ない。

 だが彼女によって生み出された幻影は、込められた魔力量が相当膨大なのか、それともそういう魔法なのか、他者が触れてもしっかりとその感触を返してくる。


 しかも、予め魔法式を組み込んでおけば、望んだ動きを自らこなしてくれるらしい。

 その幻影に毎日の懲罰を受けて貰い、その上でリィリスが隠蔽の魔法によって七夜自身の姿を隠してくれたお陰で、彼は魔法技能の定着に専念する事が出来た。


 それが良い事であったのかどうかは、さておき。


 一日中、決して収まる事のない痛みと苦しみが、彼の精神を苛み蝕む。

 それは最早、投獄されて間もなかった頃の焼き直しでしかなかった。端から削られてゆく心を守る為に、当時の七夜は自ら心を捨て、自衛の手段とした。


 今回も、無意識にそうなりかけた。

 だが、そうはならなかった。

 生傷が治癒される過程で、彼の精神もまた、その都度回復させられていたからだ。


 二年以上もの心神喪失状態から立ち直らせた、リィリスの精神干渉魔法。

 精神汚染を浄化する魔法と、精神強度を引き上げる魔法。

 この二つもまた一定の間隔で七夜に対し行使されていたため、かつてのように、彼が心を喪う事にはならなかったのである。


 女が言うには、『ちゃんと意識を保ったままじゃないと、魔法定着にもっと時間がかかっちゃうわよー?』との事だった。


 七夜にしてみれば、これ以上ないほどの地獄だった。

 常に意識が明瞭な状態で、耐え難いほどの凄まじい激痛を感じ続けなければならなかったのだ。

 逃げ場などない。

 自らへ襲い来る極大の苦痛を、ありのまま受け止めなければならない状況は――少しずつ、彼の精神を鋭利なものへと変貌させていった。


 叫び声を上げ、床を転がり続けたのは、最初の一週間だけだった。


 ほんの少しだけ痛みに慣れ始めた二週間目は、寝台の上で赤子のように丸まり、ジクジクと神経の末端が炙られるかのような痛みをじっと感受し続けた。

 始終歯を食い縛っているからか、常に呼吸は荒かった。


 時おり唐突に痛みが増す度、ボロボロのシーツを強く握り締める。

 長く伸びた爪が何度も手の平の皮膚を破るせいで、薄汚れていた布はあっという間に赤黒く染まってしまった。


 三週間目は、辛うじて苦痛に耐える事が出来つつあった。


 何度も深い呼吸を繰り返し、感受する痛みの度合いを最低限度に落とし込む。錯覚かも知れなかった。けれど深呼吸をすれば、それだけ神経を冒す激痛が和らぐように思えた。


 痛みに慣れ、精神にほんの僅かな余裕が生まれた七夜の思考は、少しずつ本来の働きを取り戻してゆく。


 だが。

 この状況、この状態で正常な思考が働くのは、寧ろ悪手だった。


 決して消える事のない苦しみが、七夜の精神に黒い感情を形成し始める。


(……なんで……どうして、僕がこんな目に……)


 それは、かつて抱いたものと全く同じ自問。

 二年前は、この問いに答えを出す事無く、自ら心を閉ざして救済を選んだ。

 しかし今は逃げ場などなかった。

 いつまで経っても鮮明な意識は、いつまで経っても鮮明に痛みと苦しみを感じ続ける。


 それが、言うなれば〝分岐点〟となった。


(得体の知れない女が僕になにかしたから、こんな目に遭ってる……でも、何でこんな地獄みたいな場所で、もっと辛い思いしなきゃいけないんだ……そもそも何で、僕はここにいる? ここは監獄……ディアメルク王立刑務所……僕は罪人として捕らえられたからここにいる……ここで僕は、いったい何をされた……殴られた、蹴られた、鞭で打たれた、爪を剥がされた、骨を折られた、皮膚を焼かれた、男に犯された、短剣で刺された、毒を飲まされた……何で、何でこんな目に遭わなきゃいけない……どうして? 僕が、罪を犯したからか? 違う、僕はやってない、違う、違う……僕はただ罪を着せられただけ、僕はやってない……なら、何で、罪を着せられた? そんなの知らない、知らない、知らない……誰かが、僕を、陥れた……誰だ、誰が僕をこんな目に……誰がこんな理不尽を僕に与えた……ふざけるな、本当なら〝そいつ〟が受けるべきだろ、この理不尽は……地獄みたいな苦しみも、死んだ方が楽に思える痛みも、全部、全部、全部、全部、全部……)


 七夜の心は、少しずつ、泥沼の如き感情に支配されていった。

 黒く、昏い、ドロリと粘つく闇を伴った悪感情。

 自分も知らないどす黒い情念が心の底から湧き出て来る感覚に、七夜は少しの困惑を覚えつつも、その情動に身を任せるしかなかった。


 ――これは七夜の知らない事だが。


 本来、彼の中には他者を憎むという感情は存在しなかった。

 誰かに対して憤り、不満を抱く事はあれど。

 苛烈な憎悪とも言うべき爛れた情念を自分ではない誰かに向ける事は、斯波七夜という人間の性格上、決してあり得なかった。


 しかしこの時、確かに七夜は自分が被った理不尽の原因全てを、自分ではない誰かに求めていた。

 それは人間であれば当然の心理かもしれない。だが、このような状況でさえ、本来の七夜であれば他者に原因の矛先を向ける事などしない筈であった。


 ならば何故か。

 この時、七夜の精神を支配していた悪感情の原因は、彼に定着しつつある技能にあった。


 女が七夜に植え付けた固有技能は、保有者の悪的な情念を極限まで増大させる副作用をもっていた。それが七夜の精神を、言うなれば〝汚染〟し、本来の彼が抱く筈もない感情で満たし尽くしたのだ。


 ――四週間目。


 既に七夜の中から、激痛は消えていた。

 否、全身の神経を蝕む痛みは未だ継続して彼の身を襲っている。だが、とうに慣れてしまった。心の裡を支配する悪感情が、そしてその情動に引きずられて巡り続ける思考が、七夜を襲う痛みなどどこかへ消し去ってしまっていた。


(……ふざけるな……ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな……何で僕がこんな目に遭わなきゃいけない……ふざけるな、許さない……僕を陥れて罪を着せた誰かも……僕を罪人だと決めつけて見捨てた奴らも、この二年半、散々僕を痛めつけてきた奴も……絶対に許さない……死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね……僕が受けてきた痛みと苦しみを全部思い知ってから死ね……泣き喚いても殴ってやる、泣き喚いても蹴ってやる、泣き喚いても鞭で打ってやる、泣き喚いても爪を剥がしてやる、泣き喚いても全身の骨を折り続けてやる、泣き喚いても全身を焼いてやる、泣き喚いても犯し続けてやる、泣き喚いても剣で刺し続けてやる、泣き喚いても毒を飲ませ続けてやる……どれだけ惨めに泣き叫ばれても知るものか……僕を理不尽な痛みと苦しみを与えたんだ、今度は、僕が……)


 七夜の心は、憎悪の感情で埋め尽くされていた。

 長い白髪の隙間から覗く双眸は、ギラリと刃物を思わす光を宿し、ただひたすらに虚空を見据えている。


(……が、理不尽な恐怖と苦痛で蹂躙してやる……)


 牢獄の隅で、膝を抱えて蹲るその姿はこれまでと何ら変わらない。

 それでも、心に抱く感情の悉くが、変じていた。


 恐怖に慄く事も無い。痛みに喚く事も無い。自分の惨めさに嘆く事もない。

 ただ、憎んだ。

 自分を今の状況へ至らしめた、何者かを。

 そして、自分を犯罪者だと断じて侮蔑と厭悪の視線を注いできたクラスメイトさえも。


 必ず守ると約束してくれた、二人の友人が居た事を思い出せる余地など。

 今の七夜に、微塵として存在しなかった。




 本当の地獄を経験した彼の心は、荒み、泥濘の闇を孕んで変質してしまった。

 その異変は、精神汚染浄化の魔法でさえも治らなかった。絶望と恐怖と苦痛で形成されたどす黒い情念が、完全な代物として七夜の精神に根付いてしまったからだ。


 ――そして。

 それは図らずも、七夜に植え付けられた技能が定着するタイミングと、全く同時であった。


 その瞬間、七夜は自身の体内で〝何か〟が蠢く感覚を味わった。

 痛みが少しだけ和らいだ。しかし今度は、まるで自分が違う何かに変えられているかの如き不快感が、全身を襲い始めた。


 それは、言うなれば、全身の血管を夥しい数の虫が這いずり回る感覚。

 気を抜けば精神が発狂してしまいかねない悍ましい感覚に、七夜はじっと耐えた。耐えられるだけの精神力を、既に彼は得てしまっていた。

 自らの身体を抱え込むような姿勢で、意識を暗闇に落とす。


 そんな折の事だった。


「――無事に移植が済みそうで、何よりだわ」


 この一週間ほど、何故か七夜の前から姿を消し、言葉すら発さなかったリィリスが、唐突に現れ話しかけてきた。

 ずっと俯けられていた七夜の顔が微かに動く。


 しかし声は出さなかった。少しでも気を抜けば、自身の心に渦巻く悪感情の群れに任せて、激情を迸らせてしまいそうだったから。


 その代わりに、長く伸びた白髪の隙間から、鋭い双眸をただ虚空へと差し向ける。

 ほんのひと月前とは明らかに異なる眼光に、リィリスは柔らかな声をかけた。


「ごめんなさいね? この技能には、所有者の負の面を大きくしてしまう副作用があるの。私も最初に〝それ〟を発現させたときは、自分を見失いそうになって大変だったわ。だからナナヤくんも、出来るだけ心を強く持って。もう少しだから」


 優し気に、慈愛に満ちた物腰で話す女は、そうして再び七夜に回復魔法を行使した。

 色彩豊かな光が七夜の身体を覆い、彼の中を満たしていた不快感と異物感が少しだけ和らぐ。

 暫くして、おもむろに零れる声があった。


「……リィリス……」


「なぁに?」


「あんたは……俺の敵なのか?」


 短い問いかけ。

 だがその質問に込められた意を察して、リィリスは僅かに目を見開いた。


「俺は……あんたの事を、だと思えばいい……?」


 七夜は抑揚のない口調で、言葉を重ねる。


「俺に理不尽な地獄を見せてくれた憎悪の対象なのか……これから俺の事を助けてくれる命の恩人なのか。前者なら、この先、どんな手段を使ってでも、俺はあんたに俺の受けた痛みと苦しみの悉くをそのまま返す事になる……後者なら、まぁ……助けてもらった後に礼の一つでも言う事にするさ。なぁ、どっちなんだ? あんたは俺の敵か……それとも味方か?」


 物腰は恐ろしいくらいに穏やかでありながら、言葉の裏に悍ましいほどの威が潜められている事を、リィリスは当然のように見抜いていた。

 答えの選択肢を誤れば、冗談抜きに殺しにすら及びかねないほどの、刃物の如き危うさ。


 七夜に対して説明した通り、生身の肉体を持たないリィリスは――しかし、ここで彼の敵愾心を自分に向けるのだけは避けねばならないと、強く確信していた。


 目の前の、一見すればか弱く非力でしかないボロボロの少年から発せられる、確かな威を直に感じながら、彼女は無意識に喉を鳴らして生唾を呑み込んでいた。


 そう。

 彼の敵意を自分に向けるのだけは、避けなくては。

 全ては心に抱く望みのために――


 だからこそリィリスは慎重を期して、そしてそれを表に出さないよう努めて、七夜の質問に答えた。


「ナナヤくんがその二択しか私に選択肢をくれないって言うのなら、答えるのはもうちょっと待ってほしいわね」


「……どういう意味だ」


「私は別に、ナナヤくんに苦しい思いをさせたかったわけじゃない。でも、だからってナナヤくんを助けたくてこうして接触したわけでもないの。私がやってるのはあくまでお節介。ナナヤくんを助けるのは、ナナヤくん自身にしか出来ないのよ」


 リィリスの言葉が理解出来なくて、七夜は鋭い双眸の中に怪訝の色を浮かべた。

 自らの行為をお節介と称したリィリスが、声の調子を変えて問うてくる。


「ねぇ、ナナヤくんは何の技能も持ってなくて、何の魔法を使えないんでしょ?」


「……何で知ってる」


「ふふっ、お姉さんはナナヤくんの事なら何でも知ってるのよ?」


 自慢げな様子で胸を張り、見事な双丘を強調しながら、リィリスは笑った。


「だからまぁ、これは私からナナヤくんへのプレゼントみたいなものね。何の技能も魔法も発現しなくたって、誰かから貰えばそれはその人のものになっちゃうんだから」


 あっけらかんと言うものの、それが如何に尋常から外れた行為か、七夜は理解していた。

 遠い昔の記憶。

 王宮の図書館で読んだ書物の一冊に書かれていた。

 個々人が固有の代物として持つ技能を第三者に譲渡する魔法は、確かに存在する。


 しかしその魔法を行使出来る者は、大陸全土を見渡しても数えられる程度しかいないとされている。現時点でその類いの魔法を行使出来る者のリストも、頭に入っていた。


 しかしその中に、『リィリス』という名前は無かった筈だ。


「……なら、あんたが俺に移植した技能ってのはいったい何なんだ。わざわざ俺みたいな人間に寄越してくれるんだ。さぞかし使い道のないゴミのような技能なんだろうが……」


「あら、ナナヤくんってば随分な物言いをするのね。そんな酷いコト言うなら、今からまた私に返してほしいのだけれど。せっかく色んな覚悟を決めてナナヤくんに託したのに」


 リィリスが憤慨の意を露わにする。

 そうほいほいと何度も受け渡しが可能な芸当なのかと、七夜は疑問を呈したくなった。

 だが七夜が口を開くより早く、言葉が重ねられる。


「〝それ〟をゴミだなんて言ったら、世界中の魔導師から目の敵にされちゃうわよ? いくらナナヤくんが異世界人だからって、無知は災いと不幸しか呼ばないんだから。これ、お姉さんからのアドバイスねっ」


 相変わらずおどけたような調子でリィリスがそう言った――直後。


 ゾゾゾゾゾゾゾッ、と。

 体内の血管を何かが這いずり回る感覚が、途端に強まった。


 全身を巡る果てしない長さの血管、その全てを一匹の長大な虫がウゾウゾと蠢いているかの如き不快感。脳天から足のつま先までを埋め尽くす怖気や嫌悪……いいや、そんな言葉が陳腐に思えてしまうほどの、文字通り虫唾が走る感覚に七夜は襲われた。


 完全に気を抜いていたせいで、心神が発狂しかける。

 叫び声を迸らせ、全身を掻き毟りながら床を転げまわりたくなる衝動に駆られた。


 だが。


「ッッッ……!!」


 辛うじて、耐えた。

 ぎゅっと腕に力を込め、一層強く膝を抱え込む。

 狂いかけた精神を自力で、それも一瞬で抑えられたのは、今までの二年半やこのひと月で培った精神力の高さのお陰か。


 深い呼吸を繰り返して意識を平時に保とうとする七夜の目が、自分の腕を捉える。

 体内で激しい脈動が繰り返され、ドクンッ、ドクンッという音がうるさいほど聞こえている影響か、彼の腕には幾筋もの血管がはっきりと浮き彫りになっていた。


 腕だけではない。

 この瞬間、七夜の全身に同様の現象が起きていた。

 管の中を本当に虫が這いずり回っているかの如く、小刻みな痙攣すら生じている。


 ……恐らくこれが、技能の移植による本当の弊害なのだと、七夜は意識の何処か片隅で自然と認識していた。

 自らが作り変えられる感覚。何かに侵食される感覚。


「ねぇ、ナナヤくん」


 悍ましい不快感に全身を蝕まれながらも――何故か鮮明に、自分へ語り掛けて来るリィリスの声を聞く事が出来た。


「ナナヤくんは、この世界に『原初の色ブラッド』って魔法体系がある事を知っているかしら?」


 当然、知っている。

 かつて、共に召喚されたクラスメイトの一人が、その技能を発現していた。


 彼の名前は――何だっただろう?


 ふとした疑問が浮かんだ七夜に構わず、リィリスは言った。


「貴方に移植したのはその中の一つ……『ノード』っていう技能よ」


 次の瞬間。

 七夜の全身から、漆黒の粒子が立ち昇った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る