妖艶なる黒き女


 やがて、七夜は言われた通り、心の中で言葉を念じた。


『――だれ、ですか……貴女』


『あら、思った以上にちゃんと回復してるのね。はじめから言葉が通じるとは思わなかったわ』


 大仰な様子で驚きを示す正体不明の誰かに、七夜は怪訝の色を示す。


『何か……やけに頭の中がはっきりしてるんですけど……これ、貴女の仕業ですか?』


『その言い方だと、まるで私が余計な事をしたみたいに聞こえるのだけれど。私が助けてあげなきゃ貴方、この先の人生、ずっと廃人のまま生きてかなきゃいけなかったのよ?』


 あっけらかんとした口調で言われるものだから、声の主が本気で言っているのか冗談で言っているのか、七夜は判別出来なかった。

 しかし、事実として彼の脳は、これ以上ないほどの明瞭さを取り戻している。長い時間、ひたすらに意識と思考を停滞させ続けてきた七夜の状態を思えば、まずありえない事であった。


 困惑と怪訝の念を心裡に浮かべる彼の目が、僅かに持ち上げられる。

 途端、七夜の動きと息が止まった。

 自分以外には誰もいないはずの牢獄内に、いつの間にか一人の女性が佇んでいたからだ。


「ッ……!?」


 虚ろの光を湛える双眸が激しく見開かれる。反射的に後退りをしようとして、しかし部屋の隅に蹲っていたためにそれは叶わなかった。


 前触れなく、音もなく、忽然とその場に姿を現した女性は、こんな地獄のような場所にありながら――否、こんな場所だからこそ、幻想的な美しさを醸しているように思えた。


 その女性が、おもむろに口を開く。


「はじめまして。私の事、ちゃんと見えてるわよね?」


 先ほどまで脳内に聞こえていた声と全く同じだった。

 言葉と同時にひらりと手が振られ、その仕草に合わせて彼女が身に纏う黒いドレスが柔らかく揺れた。


 足元までを覆う豪奢なドレスに溶け込むように、その背中には美しい黒髪が流れている。元の世界にいた時でさえ、これほど美しい艶を持つ髪は見た事がなかった。


 黒の装いとコントラストをなす白い肌は淡い光すら放っているようで、それが彼女の幻想じみた美しさを助長している。

 加えて胸元にはドレスの布をはち切れんばかりに押し上げる二つの膨らみがあり、只でさえ大きな双丘をいっそう強調するかのように、女は胸の下で腕を組んだ姿勢を取っていた。


 呆けたように見上げる七夜を、女は余裕と優しさを備えた表情で以て見下ろしている。

 老若男女問わず見惚れるであろう顔立ちに浮かぶ柔和な印象が、彼女の性格をありのまま映し出しているようであった。


 一度訊ねただけで、それきり女は黙ったままだった。七夜が何か言うのを待っているのか。


 そこから更に数秒の間を置いてようやく、七夜は我に返った。

 しかし下手に動く事はしなかった。ぎゅっと膝を抱え込んだ姿勢のまま、その目に警戒の色だけを注ぎ込み、睨むように女を見上げる。


 その姿に何故か女は微笑むと、ふわりとドレスを揺らしながら、膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。

 二人の目線が同じ高さになる。


「大丈夫。この部屋に防音の結界を張ったから。だから喋っても平気よ」


 見る者を安心させる柔和な微笑み。芸術品と見紛うほどの美貌であるのに、その笑みが彼女に親しさを齎している。

 しかし、それで心を許すほど七夜は甘くなかった。変わらず警戒心剥き出しの瞳を差し向ける。


 しかし黒のドレスを身に纏う謎の女は、そんな七夜の態度を気にしていない様子で、小さく首を横に傾げて問うてきた。


「それで、気分の方はどう? 自分の事は分かる? いま自分がいるのは何処で、自分が誰なのか言える? もしも記憶喪失とかになってたら、さすがの私でも手に負えないのだけれど」


 そう訊ねながら、女はわざとらしい仕草で胸の谷間を強調してくる。

 大きく開いたドレスの胸元からは、確かに豊満な二つの膨らみが見事な谷間を形成しており、こんな状況でありながらも七夜はそれに気を奪われそうになった。


 だが寸でのところで自制し、問いに対する答えを自分の中から引っ張り出す。


「……気分は、怖いくらいに明瞭です……自分が二年以上もこの牢屋に閉じ込められているとは、とても思えないくらいに。……それで、その僕の名前は、七夜……斯波、七夜……です」


 半ば朧気になりつつあった記憶を掘り起こし、ぽつりぽつりと答えれば、黒ドレスの女は満足げに笑んだ。


「うんうん、記憶がすっぽ抜けてたりしたら大変だったけれど、ちゃんと覚えてるみたいで良かった良かった。ほんと、見かけによらず心が強いのね、ナナヤくんって」


「……貴女は、何なんですか……? どうやって、ここに入って来たんですか?」


 怪訝と猜疑の念を露わにしたままにそう訊ね返すと、彼女は暫しの沈黙を挟んだ後、何故か今度は悪戯っぽい笑みをその口許に浮かべた。


 そうして、七夜と目線を合わせるためにしゃがみ込んでいた体勢のまま、地面に手を突いてぐいと前に身を乗り出してきたのだ。


 途端に距離を詰められて咄嗟に七夜は回避行動を取りかけた。

 だが先ほどと同じ結果に終わり、半端な身動みじろぎをする事しか出来なかった。


 そのたった一、二秒であっという間に女は七夜に近付いていた。

 まるでキスをするかのような形で、彼女と七夜の鼻先が触れそうになり。


「やめっ……」


 思わず手を払って彼女の身体を押し戻そうとして――直後、七夜の右手が彼女の身体を

 当然、というべきか、彼女に触れている感触は伝わってこない。女のちょうど胸の位置にめり込んでいる自身の右手を、彼は驚愕と共に見つめた。


 その光景を見下ろした女が、笑い声を洩らす。


「くすくすっ。ナナヤくんってば、そんなにお姉さんのおっぱいが触りたかったの? 見かけによらずえっちなのねー」


「ち、ちがっ……!」


 七夜が咄嗟に手を引っ込め、否定しようと口を開くが、それよりも早く女が次の言葉を発した。


「ごめんごめん、ちょっと揶揄っただけだから。でも、思った以上に元気そうで、お姉さんは安心したわ」


 そう言って身を退き、すらりとした立ち姿に戻った彼女が、落ち着いた物腰で話す。


「今の私はね、ちょっとした事情があって身体と心が離れちゃってる状態なの。今こうしてナナヤくんに見せてる私の姿も、魔法で投影しただけの偽物だから、言葉を交わす事は出来るけど触る事は出来ないのよ」


 そう言って彼女がゆらりと右手を動かせば、その動きに合わせて何やら黒い光の粒が零れるように生じた。


「今みたいに身体を空間に投影してるときは、私の声を〝音〟としてナナヤくんに伝えられるけど、さっきみたいに、いわゆる〝心だけ〟の状態のときは、念話でしか会話が出来ないの。本当なら念話だけの方が魔力の消費は抑えられるのだけど、初めてナナヤくんと話すんだし、そんなときくらいはちゃんとした姿で臨まなきゃって思ったのよ。これ、貴方たちの中の礼儀なんでしょ? だから私も見習ってみたのよね」


 何故か得意げに話す女に、七夜は自分でも気付かぬ内、彼女に対して警戒心の薄い目を向けるようになっていた。

 それが、彼女との会話による警戒心の緩みなどではない事もまた、七夜には知る由もなかった。


 女が居住まいを正して言う。


「じゃあここで改めて。私の名前はリィリス。宜しくね、ナナヤくん」


「……リィ、リス……」


 呈された名前を小さく反芻する。

 その名を。

 何処かで聞いた事があるように思えた七夜は、昔の記憶を思い起こそうとした。


 先ほどよりもより鮮明に、深く、自身の奥底に沈む込んでいた記憶を呼び起こす――その所為、なのかも知れなかった。


 思い出したくない記憶まで、彼の脳裏へ刻み直される事となった。


 それは、この二年半、自分が過ごしてきた地獄のような歳月の記憶だ。


 己の心を守る為に心そのものを閉ざし、それ故にずっと靄がかかっているかのように薄まっていた記憶の細部が、はっきりとした色を伴って彼の脳裏に浮上してきたのだ。


 動悸が、始まる。

 ズキリ、と頭の奥部が痛んだような気がした。


 ゆっくりと息を吐く。そうして頭の中と、心の中を落ち着ける。

 そうしなければ、勝手に巡り続ける思考と記憶が頭を破裂させかねなかったからだ。


 記憶を巡らせる。


 暗闇の中、部屋の隅で蹲る自分の姿が見えた。

 苛烈な拷問を受け、何度も何度も泣き叫ぶ自分の姿が見えた。

 地獄のような環境に少しずつ精神を削られ、少しずつ、確実に、人間らしい心を失っていった自分の姿が見えた。


 記憶を巡らせる。


 罪を着せられ、多くの者から誹謗を受ける自分の姿が見えた。

 何を言っても誰にも信じて貰えず、絶望に浸る自分の姿が見えた。

 曖昧な記憶の中、顔も名前も思い出せない二人の友人と、何かの約束を交わす自分の姿が見えた。


 心が――逆立つ感覚があった。

 謂れの無い罪により、受ける必要のない苦痛を与えられ続けてきた事による、怒り――


 今この瞬間、七夜の胸中を支配していたのは、悲しさや悔しさの類だった。


 ただ当たり前のように理不尽を突き付けられ、多くの者から見放された事による悲しさと、成す術など無く流されるがままに理不尽を被り、今まで極大の恐怖と苦痛を与えられ続けてきた事による悔しさだった。


 悲しむ心が、悔しがる心が未だ自分の中にあった事に、七夜は少しだけ驚いた。

 とうに摩耗しきって、何かに突き動かされる心など捨ててしまったのだと、そう思っていたのに。


 けれど、涙だけはどうしても出てくれない。

 心の裡に大きな穴がぽっかりと空いてしまっているかのような、底なしの空虚が吹き抜けるばかり。


 だからこそ――


「……あ、あら? ちょっとナナヤくん、何でまた蹲っちゃうの? おーい、どうしたのー!」


 リィリスと名乗った女が、慌てたような様子を見せた。

 七夜が緩慢な動作で背中を丸め、再び膝に顔を埋めて動かなくなってしまったからだ。


 二年以上もの地獄を生き延びた。

 不可思議な力によって失っていた筈の心を取り戻した。

 けれど。

 だからと言って、七夜の精神が何倍も強靭になったわけではない。


 身に覚えのない罪を擦り付けられ、多くの者から容赦なく見捨てられた。

 毎日毎日、果てしない痛みを苦しみを刻まれ続けた。


 その経験は、確かに、一人の人間を強くする事もあるだろう。

 しかし、七夜はそれほど逞しい人間ではなかった。


 彼の心は早々に折れ、再起不能なほどに瓦解した。

 精神の隅々までを支配していた、恐怖と絶望、悲しみと悔しさ。

 それらを感じたくなくて、余計な感情に苦しむのが嫌で、七夜は半ば無意識に心を捨てた。


 その〝根っこ〟は、未だ七夜の中に巣食っている。

 それがどうしても、彼の心を立ち直らせてくれなかった。


 ほんの数分前までと同じ、牢獄の隅で暗闇に紛れて蹲った格好の七夜に、声だけの女は悩ましい様子で呻いた。


「んー……やっぱり、ちょっと補強しただけじゃ根本までは治らないかしら……期待以上だったけど、予想通りではあったって感じね……」


 それから暫く、沈黙が続いた。

 七夜は両膝を抱え込んだ姿勢のまま微動だにしない。

 一方でリィリスは、何かを考えているかのように黙り込んでいる。


 やがて、黒ドレスと黒髪を揺らす彼女は覚悟を決めた風な様子で気合の声を上げた。


「よしっ、ならナナヤくんを信じて、私も命を懸ける事にしましょう! ……簡単なデスゲームねっ!」


 突然提示された選択肢としてはあり得ない内容に、しかし七夜は何の反応も見せなかった。

 女の声など一切聞こえていないかのように、変わらず不動の姿勢を取り続ける。


 ……思い返せば。

 ここで少しでも何か反論していれば、七夜の運命は変わっていたのかも知れなかった。


「――■」


 そこで。


「■■■■、■■■」


 またも七夜には理解不能の言語が、滔々と唱えられた。


「■■■、■。■■■■■、■、■■……■■■。■、■■■■■……■■、■、■■■……」


 それは、まるで呪文のようだった。

 要所要所でさえ全くとして理解出来ない、まさしく異次元の言葉。


 一文字として解読する事は出来ない筈なのに――何故か、七夜は自らの心が更に汚染されてゆく感覚を味わった。


 それまで心の裡を満たしていた、悲嘆の感情ではない。

 もっとドロドロとした、粘性のある感情……二年半という歳月を共にしてきた暗闇がそのまま七夜の心へ投影されたかのような、粘り気のある暗い感情だった。


 加えて。


「……があッ!!?」


 唐突に全身を迸った灼熱の如き激痛に、七夜は思わず声を上げてしまった。

 牢獄の中に彼の呻き声が響き渡る。


 しかし、リィリスがこの部屋一帯に防音の結界を張っていたお陰で、外に控えているであろう獄卒にその声が聞かれる事はなかった。


「ぐっ、がぁ、ああ……!? なん、こ、れ……しぬ……やめっ! があぁ、あああああッ!」


 仮に防音の措置が取られていなかったとしても、痛みに耐えて口を噤む事はまず出来なかっただろう。


 叫び声をあげる七夜の全身は今、まるで神経そのものが抉られているかのような尋常ではない激痛に襲われていた。

 どれだけ藻掻こうと決して拭えない、堪え難き激痛だ。


「あぎ、がっ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ……!!?」


 声を荒げずにはいられない余りの苦しみに、何も考えぬまま叫び続ける。

 全身を激痛が蝕む度に床をのた打ち回り、ありったけの絶叫を喉から迸らせる。


 その彼に、女の呑気な声がかかった。


「ほらほら、ちゃんと回復してあげるからそんなに暴れちゃダメよ。男の子なんだし、少しくらい我慢しなさいな」


「むっ、り……! ぎぁ、がぁぁああ!? ……はや、くッ……たす、け……ッ!!」


「まぁ、回復魔法かけても多分痛みは消えないのだけれど。ふふふっ」


 のほほんとした雰囲気の言葉があった後、再び七夜の全身を光が覆う。

 先の懲罰後、グラスドが行使したものとは少しだけ異なる魔法だった。


 何色ものパーティクルが散らばり、幾つもの入り乱れた色を持つ燐光は、やがて七夜の身体に吸収されるかのように消えていった。


 少しだけ、七夜の感じる痛みが和らぐ。

 しかしそれは微々たる変化だった。神経を直接刺激するような激痛は変わらず彼の体内を迸っている。


「がっ……はぁ、はぁ……!! こ、れ……ぼく、に、なに……した……!?」


 呼吸を落ち着かせ、辛うじて真面まともな言葉を発せる状態になった七夜は、必死に激痛を堪えながら問うた。

 血反吐を吐くような姿に対し、けれどリィリスは重さのない動作でふわりと寝台に腰掛けると、緊張感のない声を返してくる。


「何って……私の持ってた技能を、そのままナナヤくんに移植してあげただけなのだけれど? 本当なら、適性の無い魔法を身体に植え付けられたら拒否反応が起きて、内臓から骨からボロボロになるけれど……この私が定期的に回復してあげるから、途中で死んじゃう心配はしなくていいわよ?」


「ぐ、うぅ……ぎ、技能、を……いしょ、く……?」


「そう。まぁ、詳しい事は後々ゆっくり話すから。今は取り敢えず、私があげた技能を身体に馴染ませる事に集中してほしいわ」


「技能って……なに……がぁ、あああッ!? ぐ、ぅ……いつま、で……これ、つづ……くの……!?」


「んー、だいたい一ヶ月くらいかしら? それくらいあれば定着だけはすると思うのだけれど、貴方の身体に魔法が順応するのはまた更に時間がかかるわね。だからまぁ、多く見積もってもはかかるって考えてた方がいいね。あらっ、貴方がここから解放されるまでの時間と一緒ねっ!」


 わざとらしく驚きの意を露わにするリィリス。

 だが七夜はそんな事になど構っていられない。まるで一定の波があるかのように、再び全身の神経を極大の激痛が冒し始めたからだ。


 牢獄の中に絶叫が響き渡る。

 薄汚れた地面を転がり、何とか痛みを紛らわせようと壁や床に何度も身体を打ち付ける。


 だが、それしきの事で全身の激痛は収まらない。

 彼女の言葉通りであれば、この地獄はひと月もの間、七夜を蝕み続ける。


 その時間の長さに絶望する暇さえない。

 少年はひたすら、己を殺さんばかりに襲い来る終わりなき地獄の激痛に、ただ叫び声をあげるしかなかった。

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