第一章
第一節 黒
二年と半年、地獄の歳月
ディアメルク王立刑務所は、王国の南に位置するアートハイド領に帰属した建造物であるとされている。
しかしそれは、あくまでも『この王国に独立不可侵の領域は一切としてつくらない』という国王の言葉に基づき、名目の上で領地の所有物と認識されているに過ぎない。
王国の東から南にかけてを大きく抉る大峡谷の最奥。
死よりも重い罪を着せられた咎人ならば誰であれ、例外なく連れて来られる、いわゆる罪人の掃き溜め。
囚人が収容される監獄は全七フロアで構成されており、下層に行けば行くほど、そこに囚われている者の罪は重い。
地上からは一切の光が届かない暗闇の牢獄。
血生臭さと腐敗臭が消える事はなく、加えて、粘性を帯びているかの如き暗闇が囚人の精神を容赦なく削り続ける。
どれだけ精神的な強さを持った者であろうと、数週間もいれば心に細波が立ち始め、数ヶ月もいれば心が恐怖に汚染され、一年もいれば半狂乱の状態に陥ってしまうだろう。
ここは、そういうところだった。
王級秘宝『
三年に渡る禁錮。
一日一度、必ず課せられる懲罰。
最初の一ヶ月は、狂ったように喚き続けた。
たった一人、この暗闇で過ごす時間も、毎日決まった時間に獄卒の者から受けさせられる懲罰も。
未だ十五歳の少年でしかない七夜にとっては、何もかもが地獄に等しかった。
それでも、喚いて手間を取らせれば取らせるほど、獄卒から与えられる懲罰の程度が大きくなる事を理解してからは、あまり暴れないようになった。
とは言え、である。
毎日行われる懲罰の内容は、決して生易しいものではない。
むしろ拷問と称した方が正しい。
最初の内は懲罰房に鎖で吊るされ、ひたすら鞭で打たれるだけだったが、少しずつ、その
国王が七夜に懲罰を課したのは、別段、彼に罪の自白を促すためではない。
王国の人々を納得させるためだ。
七夜が犯した罪は、既に王国民全員の知るところとなっている。多くの民は七夜の行いに激怒し、自分の手で七夜を断罪したいとすら考えているだろう。
それほどの重罪人を、あっさり処刑になど出来ない。
斯波七夜が異世界から召喚された『
やはり、大罪を犯した人間には徹底的に地獄を見せるべしというのが、国民の意見であるからだ。
だからこそ、下された判決は即時処刑ではなく、数十年に及ぶ強制労働でもなかった。
王国民を納得させ、暴動を起こさせないために、唯一あった選択肢。それが、三年間もの懲罰刑だったのだ。
その責任を一手に任されたのは、アートハイド領を治める領主であるアイゼバッハ・フォン・アートハイド。
彼はユーグロアに対し、三年の間、自らが七夜の〝管理〟を請け負いたいと申し出た。
表向きは国に従順な姿勢で以て仕える公爵であるからこそ、ユーグロアもまたその申し出を承諾した。
――しかし、それが七夜を更に苦しめる要因となった。
アイゼバッハによって、七夜は更なる地獄を見せられた。
懲罰の内容は過激さを増し、瀕死の状態になるまで回復魔法は掛けず、それまでは定期的に与えていた食事さえも満足に与えないようにしたのだ。
加えて男色の嗜好を持つ配下の下級貴族を連れて来ては、七夜に相手をさせ続けた。
歓楽街でも客として迎えられないような醜男ばかりが宛がわれ、少なくとも一週間に一度は、強制的に身体を重ねなければならなかった。
そうして七夜の全身に生傷が増え、標準的だった体型がガリガリにやせ衰え、ストレスのせいで髪が全て白く染まるまでに、半年も掛からなかった。
(……なんで)
暗闇に怯え、痛みに呻き、空腹に苦しみ、孤独に泣く。
(……なんで僕は、こんな目に遭ってるの。違う。僕は、何も、してないのに)
投獄されてからの半年は、辛うじて、そんな自問自答を繰り返す事も出来た。
しかし、七夜は所詮、数週間前までは争いの無い平和な世界で暮らしていた、ただの中学三年生。
どうにかこの状況から抜け出したいと考え続け、けれど何をどう考えても意味がないと悟り、全てを諦めて思考を放り捨てた。
そんな彼の精神は、やがて投獄後一年が経過した頃合いで、完全に瓦解した。
牢獄の隅で膝を抱え、暗闇の中に意識を落とす。
懲罰の時間が来れば、身体は勝手に動いた。それだけが、彼にとって正しい時間の経過を教えてくれる要素だったからだ。
繰り返し行われる拷問もまた、変わらぬ地獄を彼に刻み続けた。
けれどいつしか、身体が感じる事の出来る痛みの許容量を超えてしまったのだろう。例え意識が気絶してしまうほどの激痛を受けても、泣き喚く事をしなくなった。
精神は崩壊している。
自由意思と呼べるものも、とうに彼の中からは消失している。
ただ、身体に染み付いた動きを、毎日、ひたすらに繰り返すだけ。
それでも自ら死を選ばなかったのは、何故なのだろうか。
舌を噛み切れば、それだけでこの地獄から解放される。それは七夜も理解していただろう。
しかし彼は、生き続けた。
この地獄のような場所で。
地獄のような苦しみを刻み込まれながら。
もしかすれば、それはただの惰性でしかなかったのかも知れない。
死ぬ事すら考えられないくらい、彼の精神が追い詰められ続けていただけなのかも知れない。
だとしても。
だからこそ。
斯波七夜は、長い長い地獄を生き延びる事が出来たのだろう。
彼がディアメルク王立刑務所に投獄されて――そうして既に、二年と半年が経過した。
*
アイゼバッハによる拷問を終え、グラスドによって檻の中へ戻された七夜は、それまでと同じように牢獄の隅で膝を抱えて蹲った。
グラスドが回復魔法をかけたお陰で、火傷で爛れて白煙まで上げていた七夜の身体は、元の姿を取り戻している。
けれど、治されても治されなくとも、彼にはあまり関係なかっただろう。
痛みを感じる神経は半ば死絶している。
全身に刻まれている幾つもの傷跡が、その証明だ。
かつては傷一つなかった肌も、この二年半の歳月で見るも無残なものへと変貌した。
度重なる鞭打ちによる裂傷が皮膚を隆起させ、火傷による爛れが皮膚を黒く変質させ、何かで抉られたかのような跡が皮膚に穴を穿っている。
――いつものように七夜の姿を見届けたグラスドが、沈痛な表情を浮かべて言った。
「……そんじゃ、明日また来るぜ。もう外は夜だ。ちゃんと寝て体力戻しとけよな」
そう言って彼は七夜のいる牢獄から出ていった。
後に残ったのはいつもの静寂。周囲に揺蕩う暗闇から生じているような、身を委ねていれば吸い込まれてしまいかねない粘り気のある静寂だ。
この暗闇に身を震わせる事は、もうない。
恐怖を克服したわけではない。恐怖を感じる心そのものが死んでしまったがゆえだ。
二年以上もの拷問生活によって精神は削りに削られ、発狂していないのが不思議なほど。
七夜の心が未だ辛うじて〝人間の形〟を保っているのは、多くの時間、意識を暗闇に落として虚無の中で過ごしていたからか。
半ば意識を失っている状態が長く続いた事で、彼は狂乱一歩手前のところで踏み留まる事が出来ていた。
だが――それだけだ。
斯波七夜の精神は、二年近く、ずっと停滞している。
何らかの希望を見出し回復する事も、更なる絶望を覚えて狂気のラインを超えてしまう事も、絶対になかった。
それを思えば、七夜の精神状態は薬物依存の廃人よりも酷い。
どれだけ時間をかけようと、洗練された回復魔法をかけようと、七夜の心は暗く閉ざされたままだろう。
この地獄に等しい場所で。
己を守る唯一の手段として、彼は心を喪った。
そうしなければ、一人のちっぽけな少年は、二年以上も生き続ける事が出来なかったから。
死に絶えた意識の中で、七夜はひたすらに時間が過ぎてゆくのを待つ。
自分が何を待っているのか……待って何がどうなるのか、その答えすら既に消えてしまっている。
けれど。
けれど、彼は待っていた。
地獄の隅で膝を抱え、暗闇に意識を没し、泥濘の静寂に身を委ねて。
全ての苦しみから解放される日を。
――そうして
残りの禁錮期間は半年……より正確に言うならば、五ヶ月と二十一日。
この日もいつもと変わらず、次の日の懲罰が行われる時間まで牢獄の暗がりで蹲り、意識を闇へ落とす。
その筈だった。
『―――、』
どこからか、音が響いた。
七夜の収容された檻の中には、彼以外の姿はない。
それでも音は聞こえている。
奇妙だった。
僅かでも不審な物音が生じれば、牢屋のすぐ外に控えている獄卒が即刻姿を現す。
しかし牢獄と外とを隔てる扉は一向に開かない。
それもその筈である。
この〝音〟は、七夜の脳内に直接送り込まれているものだからだ。
『■■■……れ、おか……■■、■…………■、-い、……え、■ー? あ、■ぇとー……』
理解不可能な音の連なりでしかなかったものが、少しずつ、人の発する声へと変化してゆく。
それは女の声だった。
何かを必死に伝えようとしているが、心を閉ざして廃人となっている今の七夜に、その者の声は届かない。
『あ■っ、おか■■わね。人■も理■■……る言■■……ちゃ■と■■替えた……だけど。あっ……そっ■かそっか。人族だけ……異■界■■なんだっ……そりゃ伝■■ない……わね』
原因不明、正体不明の声は、そこで唐突に途切れた。
束の間、七夜の頭に静寂が戻り、十秒程度の間があった後、先ほどの声が再び響いた。
今度は確かな言葉となって。
『あー、あー。ふむ、これでちゃんと聞き取れると思うのだけれど、どうかしら? 異世界人の言語理解プロセスって結構むずかしくて、チューニングするの、かなり大変なのよ? ちゃんと聞こえていたら、心の中で返事するか、適当に合図してくれると助かるのだけれど……』
声の主である女は気さくな物腰でそう言うが、当然、返答も合図もない。
膝を抱えて蹲り、指先一つすら微動だにしていない。
姿も影も見えない〝誰か〟は、そんな七夜の様子を何らかの形で見て取っているのか、おもむろに深い息を吐いた。
『んー……これは完全に心が死んでるわね。それもそうか。こんなとこにずっといたら私だって
そこで、声の主は何かを考えるように黙り込んだ。
『……今の状態でちゃんと使えるか分からないけれど、でも、魂魄維持にあててる魔力をちょっとだけ削れば、ある程度元通りにしてあげられるかしら……?』
その言葉の直後、七夜の全身を最小限の淡い光が包み込んだ。
灰色とも銀色とも取れる、仄めいた薄やかな色合いの燐光だった。ほんの微かな発光だったがゆえ、牢獄の外に光は漏れていない。
『精神汚染を浄化する魔法と、精神強度を引き上げる魔法をありったけ叩き込んであげたわ。完全に元通りにはならなくても、ある程度は回復したと思うのだけれど、どう? 喋れる?』
その問い掛けに――はじめて、応じる挙措があった。
頑なに同じ姿勢を取り続けていた七夜の身体が、僅かに動いたのだ。
膝を抱え込んでいた腕が解かれ、深く俯けられていた顔が徐々に持ち上げられる。
長い拷問生活によって白く染まった長い髪が音もなく揺れる。その隙間から覗いた瞳は、当然と言うべきか一切の光を失っており。
けれど確実に、意思を宿した動きで以て、周囲を巡り見た。
「……あ、あ……ぁー……」
掠れた音が喉から絞り出される。ノイズのように嗄れた声だった。
繰り返し行われてきた懲罰のせいで、彼の喉は何度も潰れてきた。痛みや苦しみに泣いて喚き、一日中叫び続けた事もあった。投獄以前の七夜を知る者達が今の彼の声を聞いても、恐らく彼と判別は出来ないだろう。
「あー……ぁ、あぁ……」
口を何度も開閉させて声を出そうとする七夜に対して、姿の見えない誰かは変わらぬ落ち着いた声音で言った。
『無理して声を出さなくてもいいわ。下手に喋っちゃうと外の人間が気付いちゃうかもだし。念話で平気よ。貴方との間に魔力線を繋いでるから、心の中で話したい事を思い描いてみて』
優し気な口調でそう説明すると、七夜の口はゆっくりと閉ざされた。
暫しの沈黙が置かれる。
やがて――
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