落ちぶれた先導者
七夜の処罰が下された後、生徒たちの間に生じた混乱はそこまで大きなものではなかった。
クラスの中に強姦魔が居た事に女子たちは驚き、そして無事に捕まえられた事に安堵した。
その空気感に引き連られるかのように、男子たちの大半も七夜が捕まって良かったと思い込んでいた。
目の前で見せられた光景を、ありのまま信じる。
そうしてしまうのは、彼らが中学生だからではなく、人であれば当たり前の思考本能だからなのだろう。
重臣や王侯貴族も、同様の態度を見せていた。
当然だ。
『
彼らは恐らく、七夜が王級秘宝破壊の罪に問われていた段階から、彼をどうにかして『
その矢先。
七夜が新たな罪を犯して、王国最大の大監獄への収容が決定付けられた。
国の権益者からすれば、それは願っても無い事項だったろう。
――つまり。
斯波七夜を陥れたのは、国王に仕える臣下および国を支える貴族の誰かではない。
黒幕は別にいる。
だが、それに気付く者は一人としていない。
一部の者を除き、全ての事件は七夜が起こしたものであると信じているからだ。
だからこそ、王国始まって以来の大罪人が、〝地獄〟とも言われる監獄へ送られた事に歓喜すら覚えている。
それは間違いなく正しい姿。
けれど。
その歓喜は、真実を知る者に歪と狂いすら感じさせる理不尽の塊だ。
声を上げても意味がない。
彼らは――王国は、既に。
斯波七夜という一人の人間に、大罪人という烙印を刻み込んでしまっているのだから。
*
一人の人間が消えたというのに、翌日からいつも通り座学と戦闘訓練を行う王国の人間に……そしていつも通り座学と戦闘訓練を受けるクラスメイトに、光聖は嫌気がさしていた。
――否。
嫌気というよりは、嫌悪と言った方が正しいか。
誰もが、七夜にまつわる一件などなかったかのように振る舞っている。
絶対に口には出さない。
まるでそれが、暗黙の禁句であるかの如く。
七夜の性格を良く考えてみれば、些細であれ違和感を覚えただろう。斯波七夜は決してそのような行為に及ぶ人間ではないと。
しかし誰も思い至らなかった。
そんな余裕など無かったのだ。
精神的に成熟していないまま異世界に放り出され、そうして過ごしてきた二週間は、彼等の精神を圧迫させるには充分だったという事だろう。
それでも。
九条光聖だけは、首を横に振り続けた。
本当は違うのに。
七夜は嵌められただけで、本当の犯人は別にいるのに。
その思いだけが巡り続け――だからこそ、光聖の思考は停止していた。
斯波七夜がディアメルク王立刑務所へ送られて、既に三日が経過している。
その間、光聖は宿舎の自室にずっと引き籠っていた。
三日間、何も口にしていない。水すら飲んでいなかった。喉の渇きや空腹を覚えれば、無意識に自身へ回復魔法をかけていた。
それで何が解決するわけでもないが、少なくとも栄養失調や脱水症状で倒れる事はない。
ただひたすらに寝台の上で、毛布を頭から被り、体育座りでじっと塞ぎ込んでいた。――その様子は奇しくも、王級秘宝破壊の罪で投獄された初日の七夜の姿と酷似していた。
彼の取り巻きを始めとする多くの生徒が光聖の部屋まで訊ねてきたが、部屋の主である光聖が許可をしない限り、扉が開く事はない。
結局、三日の間で何度も訪れてくれたクラスメイトを、総じて門前払いするかのような形になってしまっていた。
しかし。
仕方がなかった。
(……斯波くんが投獄されて、もう三日……連れて行かれたのは、国の中でも最悪で地獄みたいな場所だってみんな言ってた……そんなところに斯波くんが……ちゃんと生きてるのかな? 酷い目に遭ったりしてないかな? いや、絶対にしてる……どうしよう、斯波くんが死んでしまったりしたら……今の俺じゃ助けてあげられない、どうしようも出来ない……どうしよう、痛い思いをしてたら、酷い目に遭ったりしてたらっ……ど、どうしよう、俺じゃ助け……どうしよう、どうしよう……助けてあげたいのに、どうし……どうしよう、どうしよう! どうしようッ!!)
巡る思考の中で、光聖は全身に嫌な痒みを感じた。
三日間、風呂にも入っていなかったから当然だろう。
のそりと身を蠢かせ、おおよそ三日ぶりにベッドから降りる。
そうして服を着たまま、半ば無意識に浴室へと入り、冷水を浴びた。
浴び続けるだけだった。
全身が冷えていく事も厭わず、時間にして十分以上、シャワーから放出される水を浴びた。
やがて、緩慢な動作で浴室から出る。
シャワーの水は止めないまま、水浸しの全身も拭かないまま、再びベッドの上へ戻ろうとする。
――しかし。
浴槽や脱衣所のある個室からリビングへ戻ったその瞬間、光聖は足を止めざるを得なかった。
部屋の一角、テーブルとセットで置かれた豪奢な椅子に、一人の女子生徒が座っていたから。
「……酷い有り様。でも、きっとあなたの親衛隊が見たら、こんなんでもカッコいいって思うんだろうね」
全身からぽたぽたと水滴を垂らす光聖を呆れたように見据えながら、その少女――蘇芳奏は無機質な声でそう言った。
彼女の姿を見止めた光聖の目が、少しだけ見開かれる。
その瞳に浮かんだ疑問に答えるように、奏はポケットから一つの鍵を取り出した。
「私の固有技能は『錬成』。この世界の鍵くらい、何でも簡単に開けられる」
奏がひょいと掲げたそれは、光聖の持つ部屋の鍵と全く同じものであった。
唖然として固まりはしたものの、別段驚きの表情を見せる事もなく、光聖はその場に立ったまま言葉を続けた。
「……どうしたの? 俺に何か用?」
「別に。少し様子を見に来ただけ。誰が来ても無視して引き籠ってるって聞いたから」
そう言って奏は両膝を抱え込み、小さく丸まる姿勢を取った。
「……こんな夜中に、女の子が男子の部屋に来ちゃダメだよ……変な誤解される前に、早く帰るといい」
その場に立ち尽くしたまま、半ば無意識に光聖はそう言った。
そんな彼にいつもの茫洋とした視線を差し向け、そして奏はあっさりとした溜息を吐いた。
「こんな時でもそんな事言えるなんて、さすがは王子さま。もっと腐り切ってると思ってたけど、けっこー元気なんだね」
奏にそう言われて、光聖の目が微かに見開かれる。
いつもの爽やかさなど欠片も無い酷い顔を持ち上げ、奏を睨み付けるように見据える。
「元気そうに見えるかい? 今の俺が? 誰にも見せられないくらい、こんな情けない姿をしてるのに……?」
「私に見られてるけど」
「……蘇芳さんはいいよ、別に……他の子とは違うんだし……別に見られてもいいし……」
「そう言って特別視されても、あなたに惚れるなんて万に一つも無いから安心してね」
無感情な声で言った後、奏はテーブルの上に置いてあったタオルを無造作に放った。上質そうな白い布が光聖の頭にパサリと掛かる。
「とりあえず拭いて。別にあなたが風邪引いても何とも思わないけど、いつまでもびしょ濡れだったら、話が出来ないし」
行動とは裏腹にどこまでも無関心なその物言いに、光聖は薄い苦笑を零す。
その無関心さが、今の彼にとってはありがたかった。
身体を拭き、三日ぶりに服を着替えた。
城から支給された寝着を着た光聖がリビングへ戻り、奏と向かい合う形で椅子に座ると、彼女は変わらず両膝を抱え込んだ姿勢のまま、口を開いた。
「それで?」
端的な言葉が発される。
「いつまでそうやって情けない姿でいるつもり? あなたがいないから、みんな勉強や訓練に身が入ってない。あなたは私たちのリーダーなんだから、いつまでも塞ぎ込んでないで役目を果たして」
責めているような圧は込められていない、平淡な声だった。
平淡だからこそ、光聖は尚の事、奏の言葉が自分を責めているものだと感じた。
慰めの言葉を貰えるとは思っていなかった。
予想はしていても、いざその〝予想通り〟を突き付けられて苦笑で流せるほど、今の光聖の精神状態は良いものではなかった。
「……勝手な事、言わないでくれ」
ぽつりと、零れたものがあった。
「何で俺がやらなくちゃいけないんだ……? 俺がいなくたって、みんなで勝手に頑張ってればいいじゃないか……何で俺が先頭に立たされなきゃいけないんだよ。斯波くんを犯罪者扱いして、地獄に送りつけたクソったれみたいな奴らのために、何で俺が頑張らなきゃいけないんだよ……」
光聖の瞳は虚ろだった。
今までずっとクラスメイトの中心に立ち、みんなの人望と求心力を得続けてきた九条光聖の、あの真っ直ぐな意志に満ちた目など、どこにも無かった。
「……何で、誰も信じてくれないんだよ……斯波くんはそんな事する人間じゃないだろ……? それくらい分かるだろ普通……? なぁ、蘇芳さんだって分かってるだろう? なのに誰も信じちゃくれないんだよ……考えろよ、考えてくれよ……ちょっと考えたら分かるだろ、色んな事がおかしいって事くらい! なのに何でみんな当たり前に思って疑わないんだよッ!?」
ぐしゃぐしゃと頭を抱え込み、大きく上体を折って蹲った。
豪奢な装いの絨毯が敷かれた床に向けて、光聖は喚く。
「そんなバカみたいな連中を、何で俺がまとめなきゃいけないんだ……! もう勝手にしてくれ! フィルヴィスさんでも蘇芳さんでも、俺の代わりにみんなを先導できる人間は他にもいるだろ! 俺じゃなくたっていいだろ!!」
強い圧の込められた声。
しかし次第に震え始める。濡れた感情を伴って。
「……斯波くんは何もやってないのに、それでも彼は今、牢獄で酷い目にあってるかも知れない……その〝地獄〟を与えたのは、俺たちの周りにいる奴ら全員の仕業だ。みんなが斯波くんを信じてあげなかったから、彼は地獄へ送られる羽目になった……許せるはずないだろ……?」
「……だったらどうするの。信じて貰えるまで訴え続ける? それとも安易に報復とか?」
奏の言葉に対し、光聖は暫しの沈黙を置いてから応じた。
「今さら何か言っても、絶対に信じちゃくれないさ……三日前、俺はみんなが見てる前で暴れた。だからきっと、王宮内で俺の信用度みたいなのは下がってるんだろう……? クラスのみんなは変わってないみたいだけど……」
「それは当たり前。騎士団や魔導師団の人たちはともかく、貴族の人たちは裏であなたを危ない人認定してる。ほんの一部だけど、勇者軍の組織すら見直そうって声もあるみたい」
召喚されてからおよそ二週間。
訓練や座学を経て光聖の人となりを知っている騎士や魔導師の者は別として、それ以外の……国王に仕える重臣や王侯貴族は、その限りではないという事だ。
「だったら、今の俺が何を言ったって何の力もないだろ……それに報復も有り得ないさ」
震えながらも、どこか冷静さを伴った声で彼は言う。
「俺が暴れて、それで斯波くんが戻って来るならいいよ……でも、そうじゃないだろう? それに、今の俺には王国に楯突けるくらいの大きな力はない。王様に歯向かった犯罪者だって言って、斯波くんみたいに牢屋に入れられるのがオチだよ」
「……そこまで考えられる頭があるのに、何でずっと燻ってるの。ずっと引き籠ってたって、何もならない事も分かってるでしょ」
「ッ」
あくまで淡々とした物腰で返され、さすがの光聖も思わず歯噛みをした。
床を見下ろした姿勢のまま、絞り出すように言う。
「何で……蘇芳さんはそんなに割り切れてるんだよ……君だって約束してたんだろう、斯波くんと!? 何があっても彼を守るって! それを守れなくて、斯波くんはあっさり連れて行かれちゃって……! なのに何でそんな平然としてられるんだよ、おかしいだろ……ッ!!」
ガバッ! と。
光聖が勢いよく頭を持ち上げた。
うっすらと涙を浮かべた少年の目が、対面に座る少女のそれとぶつかる。
光を失った光聖の双眸と、元より茫洋とした奏の双眸。
――何だかんだと。
彼はその時、蘇芳奏という少女の瞳を、初めてはっきりと見た気がした。
クラスの女子たちは時おり、蘇芳奏の目を、何を考えているか分からない不気味な目と言っていた。
今まで彼女とあまり話した事のなかった光聖も、少しだけ、確かにそうかもしれないと思ってはいた。
けれど。
違った。
こうして正面から見据えた蘇芳奏の瞳は、何を考えているのか理解し辛い色を宿していて、しかしだからこそ、その奥に揺らぐ意志を鮮明に見て取る事が出来た。
「……割り切ってるように、見える?」
――平然となど、していなかった。
「一回目は守れなかった……だから次、何かあったら絶対に守るって決めた……でも、また守れなかった。どうにかなりそうなんだよ、ほんとは……今すぐにでも自分で自分を撃ち殺したいくらいには」
淡白な口調は、しかしそれが紛れもない本心であると証明していた。
「でも、そうしたって何の意味もない。自分の衝動に従えば色んな事が解決する……そんな事を考えるほど、馬鹿でも子供でもないし。だから私は、自分を殺さない。立ち止まったって何にもならない事も、とっくに分かってるから」
「っ……」
遠回しにお前は子供だと言われているようで、光聖は顔を歪める。
俯いている彼の顔は、奏の位置からでは見る事が出来ない。
それでも今の光聖がどんな表情を浮かべているのか、正しく理解している彼女は、抱えていた脚を床に下ろし、真正面から向かい合いながら続けた。
「――もしも」
その言葉に、光聖の顔が持ち上げられる。
「もしもあなたが、斯波くんのために王国を敵にするって決めたなら、その時は力を貸してあげる」
「……え?」
「でも今はその時じゃない。今の私たちには、『
奏がおもむろに立ち上がり、テーブルを回り込んで光聖の許へと歩み寄る。
例え光聖が椅子に座っていようと、平均よりも低い身長の奏が相手であれば、立っている彼女と目線の高さはそう大差ない。
ほんの少しだけ見上げてくる光聖の目を、奏は無感情な瞳で以て見下ろす。
「もしあなたが、それでも報復なんてしないって言っても……何にせよ、力と信頼を持っておく事は必要だと思う」
「……なんで」
「三年後、斯波くんが戻って来た時、今度こそちゃんと彼を守るために」
その言葉に。
光聖はハッと目を見開いた。
「三年後……?」
「そう。別に斯波くんは死ぬわけじゃない。三年後、必ず彼は釈放されて戻って来る。なら、その時のために、私たちは強くなっておかなくちゃいけないの」
頭から抜け落ちていた。
もう一生、七夜は戻ってこないと勝手に錯覚していた。
それは誤りだった。七夜は帰って来る。時間は掛かっても、絶対に。必ず。
そんな勝手な勘違いを自覚させられて、けれど光聖は、ずっと自分の内側に揺蕩っていた泥濘のような
「……強く、なる……」
少しずつ、光聖の瞳に光が戻り始める。
半ば血の気を失っていた顔もまた、血色を取り戻す。
「俺が強くなったら、それが斯波くんのためになる……?」
「少なくとも、ずっと部屋に引き籠って燻ってるよりは、何百倍もね」
奏の言葉に、光聖は反射的に立ち上がった。
ガタン、と派手な音が鳴り、椅子が床に転がってしまう。
それには構わず、奏に一歩歩み寄った光聖は、表情に決然とした色を込めて言った。
「わかった……分かった、俺は強くなる……今度こそ斯波くんの力になれるように、強くなるよ……どんな時でも、誰にも文句を言わせないくらい、誰よりも……!」
ぐっと拳を握り込んで宣言をする光聖に――しかし、奏は呆れたような目を向けた。
彼を立ち直らせるために、まだ少し言葉を重ねなければと思っていたからだ。これしきの〝発破〟で精神が立ち直るのなら、どうしてあれほど腐りかけていたのかと苦言を呈したくなる。
だが、これが九条光聖という少年なのだろうと、奏も理解した。
光聖から日頃の相談を受ける過程で、七夜ひとりだけが、実は彼が人一倍臆病で色々な物事に思い悩む性格だという事を知っていた。
この時、光聖の本当の人間性を知る者が、七夜以外にまた一人増えたのだ。
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