Y-02

斯波七夜という少年

 斯波しば七夜ななやという少年を一言で言い表すとすれば、『秀才』が相応しい。


 授業中は真面目に教師の話を聞き、休憩時間はいつも予習復習に当て、学内試験では必ず一、二位どちらかの座に着いていた。

 ほんの二か月前に中学三年生となったばかりで、周囲のクラスメイトは未だ高校受験の事など考えもせず、適度に勉強して思い切り遊び惚けている。


 十四、五歳の少年少女であれば、おおよそそちらの方が正しいだろう。

 しかし七夜は構わなかった。既に彼の中で、勉強は趣味のようなものになっていたからだ。


 その趣味が祟って、生憎と友人は少ない。片手で数えられる程度だ。

 昼休憩の昼食だって基本的にいつも一人で食べている。

 中学生活最後の一年間も、これまでと同じようにぼっち街道まっしぐらなのだろうなと、七夜はそう自分を決めつけていた。


 だが。

 今年だけは違ったのである。


「――やぁ、斯波くん。今日は何の予習をしてるんだい? 良かったら俺も一緒に隣で勉強してもいいかな?」


 朝のHR前。

 七夜がいつものように自分の席で教科書を広げていると、唐突に爽やかな声が彼の耳朶に触れた。

 その声を聞いて、七夜は少しだけ顔を顰める。

 ちらりと視線だけを動かして声の聞こえた方を見れば、声以上に爽やかな印象をぶつけてくる超絶イケメン男子がそこには立っていた。


「この間のテストでも斯波くんに一位を取られちゃったからね。次こそはって俺も頑張ってるんだけど、ずっと一人で勉強してるのは結構しんどくて……だからいっそ斯波くんと一緒にやれば、もっと捗るんじゃないかと思ってさ!」


 そういって彼はキラリと白い歯を覗かせて微笑みながら、七夜の机までやって来た。洗練された動きにつられて、同じ男子とは思えない程に艶やかな茶髪が華麗に靡く。


 彼の名は九条くじょう光聖こうせい

 七夜のクラスメイトであり、学校一の美男子と噂されるスーパーモテ男である。


 中学生でありながら既に完成された端麗な貌に、すらりと高い身長、そして文武共に高水準の成績を収めているらしい彼は、多くの者達から『天才』やら『完璧超人』といった風に呼ばれている。


 ちなみに彼は転校生であり、中学二年の秋頃にこの学校へ転入してきた。

 それからたったの数ヶ月で学校全体の人気を我が物にしている辺り、この少年の凄さが分かるというものである。


 だが、そんな学内の人気者から積極的に話しかけられる理由など、七夜は思い当たらない。

 だと言うのに、ここ数日、定期的に光聖はこうして七夜の許へ来るなり、女子受け一〇〇パーセントのスマイルを容赦なく向けて来るのだ。正直意味が分からない。


 ……とは言え。

 とは言え、である。

 ここまで相手が好意的に接してくれるのは、七夜としても嬉しい。本来であれば若干戸惑いつつも首を縦に振っているところだ。

 だが――、


「あー、ゴメン、九条くん……僕、基本的に一人で勉強したい人間だから、一緒には出来ないかも。……あの、ほんとゴメン」


「そっかぁ……この間は放課後にオススメの喫茶店に行こうって誘ったけど断られて……勉強だったら斯波くんとも一緒にいられるかなって思ったんだけど、これもダメか」


 あはは、と柔和な笑みを浮かべる光聖に、七夜は気まずい表情を隠すように顔を逸らした。

 ……心苦しい。

 彼は、今まで何度かあった光聖の色々な申し出を、このようにして何とか理由を付けて断っているのだ。


 それは何故なのかと問われれば、


「――ちょっと斯波くん。せっかく光聖くんが頼み事してるのに、それ断るとかどういうつもりなわけ? 調子乗ってんの? あんまり光聖くん困らせるとウチらが黙ってないんだけどー」


(……またきた)


 不意に割り込んできた声に、七夜は思わず溜息を零しそうになった。

 見れば、光聖の後ろには数名の女子生徒が控えていて、その内の一人が七夜に対して鋭い視線を差し向けている。

 クラスの中でも派手めな部類に属する女子だ。正直、七夜の苦手な人種である。


 その少女の言葉を発端として、周りの女子達も次々に七夜へ言葉を飛ばしてきた。


「そうよそうよ! 陰キャぼっちのくせに光聖くん困らせるとか最低ー! 身の程を弁えろって話ー? ちょっと頭が良いからって偉そうにしないでよねー!」


「と言うかこないだのテスト、光聖くんを差し置いて一位になったんでしょ? どんだけ空気読めないんだって話だわ。光聖くんはどんな事でも一番になってなきゃダメなの! 入学以来ずっと一位みたいだけど、あんたみたいな陰キャが一番じゃ何にも盛り上がんないのよ。光聖くんが一番になってこそみんな喜ぶんだから!」


「ねぇねぇもしかしてさぁ、人気者の光聖くんに嫉妬しちゃってるとかぁ? 光聖くんが転校してくる前まで、斯波くんって秀才だから色んな人から頼られてたもんねー? それを全部光聖くんに掻っ攫われちゃって、悔しいから勉強だけは負けないよう頑張っちゃってる感じぃ? きゃはははは! 日陰者の努力とかマジ滑稽でウケるんですけどー!」


「うわーそれヤバすぎでしょー! お前みたいな陰キャで根暗ぼっちが光聖くんと張り合える訳ないっての! もう充分頑張ったでしょ? そろそろ無駄な努力なんてやめて、陰キャは陰キャらしく教室の隅で縮こまってればいいんだよー!」


 好き放題に言ってくれる連中である。

 何の根拠もない事柄を、よくもまぁそこまで立て並べる事が出来るものだ。

 だが、それを口に出して反発するような真似はしない。

 彼女達の罵詈に怯えるような姿を装い、顔を俯けてひたすら無言で言葉の弾丸を受け続ける。


 この女子生徒の集団は、言うなれば光聖の取り巻きだ。

 とは言え光聖自身が好んで囲っているような者達ではなく、彼の容姿や性格に惚れて、いつも勝手に付きまとっている迷惑な連中である。


 しかし、誰に対しても成人君主の如き優しさを見せるのが、九条光聖という男。

 ゆえに彼は、取り巻きの女子達を邪険に扱ったりなどはしていない。温柔な笑顔を見せて、自分の傍にいる事を半ば容認してしまっている。


 だからこそ取り巻きは、自分が光聖に認められた存在であると勘違いして偉ぶり、光聖に近寄って来る人間の中で気に入らない者がいれば容赦なく引きはがしていた。

 最終的には、自分達の事を『王子さま親衛隊』などと吹聴して回る始末だった。


 七夜もまた、その親衛隊に目を付けられた一人という訳だ。

 しかしどうにも自分にだけ当たりが強い事を、七夜は疑問に思っていた。


 集団の一人が七夜の傍へ更に歩み寄ってくる。そしてこちらに侮蔑の視線を注いできたかと思えば、机に強く手を叩きつけてきた。

 その拍子に、広げられていた教科書のページがぐしゃぐしゃになってしまう。


「ねぇ、聞いてんの? 陰キャは陰キャらしく一人で惨めに過ごしてればいいのよ。エロい女の子の絵が描かれた小説でも読んで、一人で興奮してれば?」


「ちょっと明乃あけのー、それ陰キャじゃなくてオタクって言うんじゃねー?」


「え? 陰キャもオタクも同じようなもんでしょ? どうせ学校じゃ真面目気取って勉強してるこいつも、家に帰ったら女の子のフィギュア眺めて『萌え~♪』とか言っちゃってるに決まってんでしょ?」


「あははは! それ言えてるわー! ねぇねぇ斯波ぁ、あんたどんなフィギュア持ってるわけ? 今度学校持ってきて私たちに見せてよ。興奮してるとこ写メ撮ってあげるからさぁ!」


「待ってそれマジでキモイんだけどー!? それってもう完全な犯罪者予備軍なんじゃね? そんな奴と一緒の空間にいるとか無理ー! 見て見て! 一気に鳥肌立ってきた!」

 

 七夜が何も言わないのをいい事に、次から次へと言いたい放題である。

 教室の中にいる他のクラスメイトも、彼女達の言い分を聞いて半数以上の者が嘲笑に近い苦笑いのような声を洩らしていた。


 既に見慣れた教室内の一風景だ。見慣れているからこそ、誰も止めに来ない。

 七夜もまた、まさかその他大勢のクラスメイトが止めに来てくれる等とは、微塵も思っていなかった。


 因みに、七夜は決してオタクではない。それだけは断言したい。

 しかし彼が反論をしない所為で、クラス内には斯波七夜がオタクだと勘違いしている者も少なくない。

 とんだ風評被害である。


 このクラスには、外見からしてもっとオタクらしい人間が複数名いるのに、何故そちらは注目されないのか。今も七夜とは離れた場所で一人、ラノベを読んで鼻息荒くしている奴がいるだろうに。


 七夜よりもよっぽど平和な学校生活を送っているそいつに恨めしい視線を送っていると、唐突に、全てのやり取りを聞いていた光聖が、くるりと身を翻して取り巻き達に向き直った。


「そこまで。皆、あまり大声で騒ぐと周りの迷惑になるよ」


 あくまでも穏やかな声音で、彼はそう言う。

 そのお陰で周囲の喧騒がピタリと止んだ。


 自分達が憧れる光聖から注意をされた少女達は気まずそうな表情を浮かべ、そしてそれは七夜が原因だと言わんばかりに、こちらを睨み付けて来る。

 すると光聖は、柔和な笑顔をはそのままに、声に少しだけ圧を込めて続けた。


「あと、皆は勘違いをしてると思うんだけど、斯波くんが俺に追い付こうとして勉強を頑張ってるとか、そんな事はありえないよ。寧ろ俺の方が彼に並びたくて頑張ってるくらいだ。まぁ、俺と違って斯波くんは地頭が良いから、俺がどんなに努力したって彼には追い付けないのかもしれないんだけどさ」


 言葉の最後に苦笑を交えた光聖に対し、周囲の女子達は「そんな事はない」と反論をしようとして口を開きかけた。

 だがそれよりも早く。


「それとね」


 全員の中心に立つ少年が、少し声の質を変えて言った。


「根拠のない事を憶測だけで決めつけて、勝手に馬鹿にするのはよくないと俺は思うよ。斯波くんは別にオタクなんかじゃない。彼は勉強の合間に時おり本を読んでるけど、それは大抵が学術書。本当にたまにだけ小説を読む事があっても、基本は推理モノばかりだ。その事も、勘違いをしてほしくないな。……まぁ、俺は斯波くんがオタクだったとしても、一向に構わないんだけどね」


 ……え、怖っ。

 七夜は基本的に学校へ持ってきている本にはカバーを掛けているのに、どうしてその内容を光聖が知っているのか。――やめろ、さも「君の事は全部理解しているよ」とでも言いたげな視線を向けて来るな。爽やかすぎて心に悪い。


 取り巻きの者達に向き直った彼は、それまでとは打って変わって、とても優しい声色で全員に語り掛けた。


「俺も斯波くんも皆も、同じクラスの仲間なんだから、その仲間を馬鹿にするような事はやめようね。俺からのお願いだ。皆なら、ちゃんと約束を守ってくれるよね?」


 光聖が爽やかに微笑むと、周囲の女子は一様に頬を赤らめて黄色い歓声を上げた。

 盛り上がるのは大いに結構なのだが、既に七夜は完全に蚊帳の外だ。いったい何を見せられているのだろうかと、うんざりした気持ちになってしまう。


 これで七夜への当たりが軟化してくれれば彼としてもありがたいのだが、そうは問屋が卸さないだろう。七夜は分かっていた。


 よりにもよって何で自分なのだろうかと、今更ながらに考える。


 斯波七夜は男であり、九条光聖もまた男である。

 これでもしも光聖が女だったとすれば、まだ理解出来よう。根暗で陰キャなぼっち野郎と、学校一の美少女が仲良くしているという構図が出来上がるからだ。

 そしてその逆もまた然り。


 しかしもう一度言うが、七夜は男。光聖も男。

 なのに彼女たち親衛隊の七夜に対する嫌悪は並のそれではない。光聖に色目を使って擦り寄って来る女子生徒の方が、まだ優しい扱いを受けているだろう。


 自分が取り巻き達に何かした覚えなどない。

 何も分からない七夜は、周囲の者達を落ち着かせていた光聖をじっと見つめる。

 その視線に気付いた光聖が、不意にこちらを振り返る。

 思わず七夜は訊ねていた。


「……あの。九条くんって、実は女の子だとかそんな訳ないよね?」


「え?」


 唐突な七夜の問い掛けに、光聖はきょとんとした様子で固まった後、聞かれた内容を理解したのか、すぐに破顔して見せた。


「あははっ、斯波くんってたまにおかしな事言うよね。大丈夫、俺はちゃんと男だよ? 去年の冬にあった学習合宿の時、偶然時間が重なって一緒に温泉に入ったの、覚えてない?」


「そ、そういえばそうだったね」


 当時の事を思い出して納得した七夜は、阿呆な質問をしてしまった事が恥ずかしくて少しだけ視線を逸らす。

 そんな彼を見て優しく微笑むと、おもむろに光聖は七夜に身を寄せてきた。

 吐息が頬にかかる程の至近から、耳元で囁くようにして。


「……まぁ、俺が女の子だった方が、斯波くんと仲良くなるのに都合が良かったのかなって……たまに思う時はあるんだけどね」


 なんて事を言い放ってきた光聖は、間近から七夜の瞳を覗き込んで、再び柔らかく笑んだ。

 モデル顔負けの美男子に微笑まれたところで何と言う事はないが、それでも七夜は悪寒のようなものを感じて即座に身を離した。

 このイケメン、相変わらずパーソナルスペースが狭すぎて困る。


 そのタイミングで、予鈴のチャイムが鳴り響いた。

 途端に教室内が騒がしくなる。光聖もまた身を起こして時計を確認すると、少し申し訳なさそうな表情を見せた。


「もうHRか。……ごめんね、斯波くん。俺のせいであまり勉強出来なかったよね?」


「え? あ、いや……」


「今日はもう斯波くんに話しかけるのを控えるから、次の休憩時間からは気にせず勉強してね。それじゃっ」


 ひらりと手を振ってから、光聖は自分の席へと戻っていた。

 当然、彼に続く形で取り巻きの少女達も七夜の周囲から立ち去ってゆく。――去り際、まるで置き土産のように全員から恨みや軽蔑の視線を注がれた。


 これはまた後で面倒な事が待っているなと確信した七夜は、溜息を零しつつも机の上を片すべく、とりあえずノートと教科書を閉じるのであった。



     *



 昼休みになってすぐ、七夜は呼び出しを受けた。

 これで行く先が職員室とかであればまだ彼も気が楽だったのだが、生憎と七夜が向かっているのは屋上へ繋がる階段の踊り場。


 そこには光聖の取り巻きである派手な少女達がいた。


 彼女達は、七夜が光聖と少しでも話そうものなら、こうして人気ひとけのない場所に呼び付けて来る。

 今朝のように光聖が七夜に話しかけてきたのは、今月に入って六回。

 つまり、七夜が取り巻き達に呼び出されるのも、これで六回目である。


 案の定、大人しく自分達の前にやって来た七夜へと、少女達は次々に罵詈雑言や誹謗の言葉を浴びせてきた。七夜を蔑ろにしないという約束を光聖と交わしていた筈だが、あんなものは意味がなかったようだ。

 光聖のいないところであれば問題ない。どうせそんな風に思っているのだろう。


 お前みたいな奴が光聖に関わるな。光聖と気安く話す資格なんてお前には無い。

 最終的には妬み嫉みから派生して人格否定のような事まで言われたが、七夜にとってはもう慣れたものだった。


 これで彼女達が暴力で訴えて来ようものならば、彼としても勘弁願いたいが、いつも受けるのは言葉による口撃だけだ。基本的に実害が無い事には、対処をしなくとも構わないと言うのが七夜のスタンスだった。


 そしてこちらから何か言う事もしない。

 以前に一度だけ、それだけ言うならば光聖自身に言えば良いだろうと反論した事があったが、


「あたしたちから光聖くんにそんな事言ったら、光聖くんに嫌われちゃうかも知れないでしょ! そんな事も分からないとはマジで馬鹿なんじゃないの? ぶっ殺すわよ!」


 と、そんな苛烈な答えが返ってきた。

 以降、七夜は少女達からの集中口撃を、ただ無言で受け流すだけになった。


 結局、今日も昼休憩の時間殆どを使って、口汚く罵られ続けてしまった。

 散々嗤い見下して気が済んだのか、少女たちは七夜にわざとぶつかりながら教室に帰ってゆく。


 後に残ったのは、盛大な気疲れだけだ。

 女子生徒の笑い声が完全に消えてから、七夜は大きな溜息を吐いた。


「……あの人たちも懲りないよなぁ、ほんといつも」


 うんざりした顔を浮かべ、自分も教室に戻ろうとしたタイミングで。

 不意に、階段を上がった先にある屋上への扉が、ゆっくりと開かれた。


 七夜がそちらへ視線を向けると同時。


「うん?」


 現れた人物が、階段の中腹で辟易した表情を浮かべる七夜を見止めて、怪訝そうな声を上げた。しかしすぐに原因を悟ったのか、無感情な容貌を何度も頷かせながら、軽快な足取りで降りて来る。


「何だ、誰かと思ったら斯波くんか。今日も王子さまの親衛隊に捕まってたみたいだね。クラスメイトとしては凄く同情するよ」


 無感情な声音でそう言ったのは、七夜と同じクラスの女子生徒だった。

 肩口で切り揃えられた黒髪に、同年代の女子よりも少し小柄な体型。

 首に提げられたヘッドホンと、サイズの合っていないダボダボなカーディガン、そしてデフォルトで寝惚け眼な容貌が特徴的だ。

 その手にはゲーム機が握られており、七夜と言葉を交わしながらも器用に操作し続けていた。


 彼女の名前は蘇芳すおうかなで

 七夜にとっては友人とも言える相手だが、生憎と会話をした回数はそこまで多くない。

 この少女もまたいつも一人でいるようなタイプであり、休憩時間は決まって教室から姿を消しているからだ。


 七夜の隣まで降りてきて、眠そうな目でこちらを見上げて来る奏。

 そんな彼女に苦笑を向けて七夜は言った。


「同情してくれるなら、せめて昼食をくれないかな? 彼女たちのせいで、今日も僕は昼ご飯を食べ損ねたんだけど」


「それは君の責任だと思うけど。朝に王子さまから話しかけられた時点で、お昼に彼女たちの呼び出しを受けるのは分かってたでしょ。だったら、三時間目の後とかに早弁するとかしてれば、空腹に苦しむ事もなかったのに」


「それは一種の暴論だよ……」


 がっくりと肩を落とす七夜の傍らで、奏はゲームをしながら危なげなく階段を降りる。

 その流れで一緒に教室へ戻りながら歩き始める七夜は、隣から発されるけたたましい発砲音を聞きながら、何とはなしに訊ねた。


「また銃のゲームしてるの? 敵を倒して一番目指すやつだっけ」


「そうだよ。良かったら斯波くんもやってみる?」


「いやぁ、遠慮しとくよ。僕、昔から人や動物を殺すゲームって、野蛮に思えてあまり好きじゃないんだ」


 苦笑いを浮かべる七夜の顔を、ゲームの操作は止めないままに奏がちらりと見上げる。

 どこか茫洋とした瞳が細められるが、すぐに視線は眼前のゲーム画面へと引き戻された。


「残念。私、初めて斯波くんを見た時から、君は絶対に銃の扱いが上手いだろうなって思ってるんだけど」


「……その認識ってどこから来てるの?」


 こうしてたまに言葉を交わすと、大抵彼女は七夜にも理解し辛い事を言ってくる。

 勉強以外の時間は殆どゲームに充てているという奏であるからして、普通とは違う価値観を持っているのだろうなと七夜は思っているが、地味に会話が噛み合わない時があるので、その点については何気に困っていた。


 七夜の問い掛けには答えず、再びこちらを横目で見てきた奏は、感情の読めない瞳を向けたままに言葉を続けた。


「でも……まぁ、確かにそうだよね。もしも一〇〇人の傭兵が集められてたとして、他の九十九人が銃で相手を撃ち殺していく中、斯波くんだけは最後まで和解を求めて来るような優男だもんね。こういうR15指定系とは無縁だって事も分かってるよ」


「えっと……え? どういう意味?」


 やはり会話が噛み合わず、困惑しながらも二人並んで廊下を歩く。

 質問をしても帰って来ない事は分かっている為、これ以上言及はしない。

 それでもただ無言で並び歩くのは気まずかったので、差し障りのない事を問う。


「蘇芳さんって昼休憩になると必ずどこか行っちゃうけど、いつも屋上にいるの? お昼ご飯もそこで食べてるの?」


 その質問に、奏はゲーム画面を注視したまま、おもむろにスカートのポケットへ手を突っ込んだ。

 そして取り出したのは、十秒で栄養をチャージする系のゼリー飲料だった。


「私の昼食はいつもこれ。ご飯食べるくらいならゲームしてたいし。何なら斯波くんもこれにしてみたら? 今日みたいにお昼ご飯食べる時間を潰されても、これなら問題ないでしょ」


「あ、あはは、確かに……一応考えとくよ……」


 七夜は人並み程度に食事を楽しむ心を持っている為、何気に昼休憩で食べる弁当が楽しみなのだ。

 昼食が抜きになるのは確かに嫌だが、それで一日の数少ない楽しみである昼食を疎かに考えてしまうのは気が引ける。

 だが今日のような事がこれからも続くようなら、確かに考えなければなと、そんな事を考えていると、いつの間にか自分達の教室の前へと辿り着いていた。


 そこでゲームがひと段落したらしい奏が、教室内の時計を見て言った。


「まだ五時間目の予鈴まで少し余裕あるよ。お弁当を食べるくらいの時間ならまだあるんじゃない? 秀才の斯波くんが空腹で集中力切らす訳にはいかないでしょ?」


 言われて七夜も時計の針を確認すれば、確かに昼休憩の終わりまであと七分はあった。

 それだけあれば昼食を済ます事が出来るだろう。

 そう思いながら、奏と共に教室へ足と踏み入れた。


 その瞬間、七夜は瞠目した。


 何の前触れもなく、教室の床全体が激しく輝き始めたからだ。

 まるで一面に夜間専用の農業ライトでも埋め込まれていたかの如く、大質量の白光が周囲全ての景色を埋め尽くした。

 七夜だけでなく、隣にいた奏、そして教室内にいた誰もが、謎の光から自身の目を覆うように腕や身体で遮る。


 悲鳴や困惑の声が各所から聞こえる中、七夜は腕の隙間から辛うじて現状を認識しようとして――床一面に、幾何学模様にも梵字にも見える〝何か〟が刻まれているのを、確かに視認した。


 その正体が何であるか、考える暇は無かった。

 突如として更に密度を増した光が、教室全体を覆い尽くし。


 直後、七夜の意識はそこでプツリと途切れてしまったのだから。

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