Y-01

囚人番号『449』番

 ブラッドルフ王国東邦領、アートハイド。

 領都から外れて南へ大きく下ったところに、巨大な峡谷が横たわっていた。


 幅五〇メートル、長さにすれば数十キロはある谷底の最奥には、物々しい威容を呈する建物が存在している。


 名をディアメルク王立刑務所。

 国内で罪を犯した者の中でも特に重罪人と言われる者ばかりが集められている、言うなれば咎人たちの流刑地。


 その最下層にある牢獄で、一人の少年が膝を抱えて蹲っていた。


 何かがえたような異臭が漂い、一切の外光すら差し込まない深い暗闇の中、その少年は何も言わず、微かな呼吸音だけを洩らしながら牢獄の隅に座り込んでいる。


 明らかに栄養不足と思しき細い躰には、見ただけで嫌悪を抱くような生傷が無数に刻まれている。火傷のような爛れ、黒く変質した痣、刃で斬り裂かれたかの如き裂傷、鞭で打たれた跡らしき生々しい擦過痕。


 その全てが無理矢理に治されたかのように、歪な形を成して少年の全身を埋め尽くしていた。


 肩よりも長く伸びた髪は酷く痛み、ストレスによってか白く変わり果てている。

 あまりにも凄惨なその姿は、しかし、この王国最大の監獄においては何よりも相応しかった。


 そんな、濃密な暗闇と異臭しか存在しない牢獄の扉が、唐突に開かれた。

 現れたのは甲冑姿の男だ。手にランタンを持っており、橙色の光によって照らし出された鎧は無骨な灰色に染まっている。


「よう、今日も来たぜ。まだ生きてるか?」


 男は精悍な顔に気さくな笑みを浮かべて、檻の中の暗がりにそう言葉を向けた。

 返事はない。変わらず一定の間隔で微かな呼吸音が繰り返されるだけだ。


 しかしその事に男は表情を変える事無く、鉄柵に歩み寄った。

 そうして鎧の内側から、柔らかそうなパンの入った袋と、清潔な水が注がれた瓶を取り出す。


「ほれ。今日の分だ。少し遅れて悪かったな」


 そう言って、パンと水瓶を檻の手前に置き、自分はその場にドサリと腰を下ろした。

 自らの纏う甲冑が汚れる事を、微塵も気にしていない様子である。


「『今日の懲罰』までまだ時間があるだろ。それまでに食って、少しでも体力回復させとけ」


 その言葉の後、暫くして暗闇の向こうで動きがあった。

 無言で蹲ったままの少年が緩慢な動作で立ち上がり、男の許までやってくる。

 その足取りに力はない。染み付いただけの動きを、ただ事務的に繰り返しているかのような、そんな無気力な足取りだった。


 パンと水瓶を受け取った少年は、そのままゆっくりと元の位置へと戻ってゆく。

 再び暗闇の奥に消え、しかし袋からパンを取り出すような音が聞こえ始めると、男は満足したように頷いた。


 ――本来であれば、少年に食料や水が与えられるのは、一週間に二度もあれば多い方だった。


 過去に看守の人間が彼に何の食べ物も水も与えず、かなりの日数放置してしまった事があった。看守自身はうっかり忘れていただけと言っていたが、本当かどうかは分からない。


 以降、この男は少年が餓死しないよう、隙を見て彼に食料と水を届けるようになったのである。


 檻の傍にランタンを置き、自らは檻に背を預ける形で座り直す。

 ちらりと牢獄の中を見れば、灯りに照らされて少しだけ少年の姿が見て取れた。

 暗がりの中で大事そうにパンを齧るその姿に、甲冑の男は心を痛めるかのように目を細める。そして遠い過去の出来事を思い出すように、視線を中空へと向けた。


「……お前がここに来て、もうちょっとで三年か。そんだけの時間が、もう経っちまったんだな」


 男の脳裏に、少年がこの牢獄に収容されてまだ間もなかった頃の様子が思い起こされる。


 当時、少年は毎日のように泣き喚いていた。

 自身の無実を訴え、けれど容赦なく与えられる痛みと孤独に苦しみながら、みっともなく泣き続けていたのだ。


 男の覚えでは、少年は今年で十八歳になる。

 彼が収容されたのは三年前。つまり、まだ十五歳だった。


 本当なら、同世代の子供と学び舎で触れ合い、周囲の迷惑も考えずに駆け回り、好きな異性の一挙一動に振り回される年齢の筈だ。

 その大切な三年間を、この少年は、地獄のような環境と共に過ごした。


 彼がこのような仕打ちを受ける謂われはないにも関わらず、である。


「まー、でもあれだな! もうすぐお前もこんな場所から解放されるんだ。シャバに出た時に何するか、今の内から考えとけよー」


 沈みかけた気持ちを吹き飛ばすように、男は明るい声でそう言った。


「最初にする事っつったら、やっぱ美味い飯を食う事だろ! ここの飯は残飯みてぇで不味いったらありゃしねぇからな。てか、お前もうすぐ十八になるんなら酒が飲めるな! よっしゃ! 今度俺が肉と酒の美味い店を教えてやっからな。約束だ、忘れんじゃねぇぞー!」


 ニヤリと笑顔を浮かべながら、記憶の中からおすすめの店を幾つか列挙していた、そんな時だった。

 不意に、牢獄の外から足音が聞こえた。


 まっすぐこちらへ向かってきている。そう判じた男は素早い動作で立ち上がると、さっと檻の中へ視線を巡らせた。

 そして少年の傍らに置いてある空の瓶を、右手に魔力を集束させて即座に引き寄せ、鎧の内側へと仕舞い込む。

 ランタンを掴み上げ、騎士としての略式の姿勢を取っていると、案の定、牢獄の扉が重質な音共に開かれた。


「……相変わらず仕事熱心なようだな、グラスド。こんなゴミ溜めの底でよくもそこまで働けるものだ」


 現れたのは、金色の瀟洒な装いに身を包んだ男だった。

 煌めく金髪を丁寧に撫でつけて整えているが、恰幅の良すぎる体型と、顔全面に出来た面皰にきびが、全てを台無しにしてしまっている。

 重量感のある足取りでやって来た金髪の男に、グラスドと呼ばれた甲冑姿の男はあくまでも恭しい姿勢で応じた。


「それはもう、国王さまから直々に頂戴したお役職ですから。万が一居眠りでもしてしまい、囚人が逃げてしまっては私を含めて一族郎党打ち首になるでしょう。それを思えば当然の事ですよ」


「ふん。誇りもプライドも力も、何もかもを持たぬ無能騎士め。ろくに槍も使えず、騎士団のお荷物になるしかなかったから、国王さまもお前にこの深層七階級の獄卒を命じたのだろうが。立場を弁えろ。王国騎士団の汚点のくせに、少しは情けないとは思わんのか?」


「いいえ。アイゼバッハ公爵さまが仰られるのであれば、全て事実であると私も思いますので」


 厭らしい笑みを浮かべて嘲ったにも関わらず、相手が平静のままであることに、金髪の男――アイゼバッハはつまらないと言った様子で鼻を鳴らした。

 そしてすぐに標的を変え、牢獄に溜まる暗闇へと向き直った。


「おい、『449』番。聞こえているか? どうだ、今からでもお前が自分の罪を認めるのであれば、残りの刑期も少しは短くなるかもしれんぞ? こんな所から早く出たいだろう。あまり無理をせず、いい加減素直になれ。……まぁ、もしも罪を認めたならばその時は、私の手で即刻お前を処刑してやるがな」


「……アイゼバッハさまは、罪人に対する死刑執行の権利までは持っていない筈では?」


「阿呆。私はこのアートハイド領を治める公爵だぞ? 国王さまに進言すればその程度の権利、どうとでもなるに決まっているだろう」


 声を割り込ませてきたグラスドに歪んだ視線を向けつつ、嘲笑の色を混ぜてアイゼバッハはそう言い放った。

 聞く者が聞けば、国王の権威を軽視する言葉と捉えられかねない。

 しかしそんな事を少しも考えていない公爵は、憮然とした面持ちのままにグラスドをめ付ける。

 傲然とした物腰と台詞に、グラスドは呆れを隠して首を横に振った。

 

「そのような訳にはいかないでしょう。彼は我々王国が救済を望んだ結果、異世界より喚び寄せた『神の遣いレガリア』の一人。だからこそ国王さまもこの少年を死刑にはなさらず、最大限の譲歩の末に三年もの禁錮刑を言い渡したのですから」


「いつまで勘違いをしているのだ、グラスドよ」


 豚っ鼻をひくつかせて、アイゼバッハは牢獄の少年を嗤うように見下ろす。


「こいつは召喚直後の能力判定において、何の技能も見出せなかった無能だぞ? どれだけ修業をしても簡単な生活魔法すら会得出来なかったと聞く。そんな奴を神聖視しようものなら、本物の『神の遣いレガリア』である勇者の一行に申し訳が立たんと思わぬか?」


「……何にせよ、この少年は異世界からの召喚者であり、例え罪人であれど王国は最低限の礼儀を尽くさねばならない者です。あまり尊大な振る舞いを控えて頂きますよう」


「ふん。その礼儀を尽くすべき相手に三年もの懲罰刑を与えたのだとしたら、王もなかなかどうして人が悪いな」


 そう言ってアイゼバッハは腰のベルトに取り付けていた鍵を外し、グラスドへと放り投げた。


「一日一度、その罪人に懲罰を課す。それが国王さまから私に与えられためいだ。……先に行っているぞ。お前はいつものように、そのドブネズミを懲罰部屋へと連れて来い」


「本日はどちらへ」


 グラスドの問い掛けに、牢獄から出ようとしていたアイゼバッハははたと足を止めた。

 そして何かを思案するように暫し沈黙した後、面皰にきびの多い顔面に歪んだ笑みを張り付けて、こちらを振り向いた。


「そうだな。ここしばらくは鞭打ちばかりで味気なかった。今日から数日は少し趣向を変える事にしよう。三番棟へ連れて来い。魔道具の用意も済ませておけよ」


「……かしこまりました」


 高らかな笑い声を上げながら部屋を出て行く公爵に、グラスドは最後まで忠実な姿勢を貫き続けた。


 鋼鉄の扉が閉ざされ、静寂が場に満ちる。

 やがてグラスドは折っていた腰を元に戻し、牢獄の中で無言を保つ少年に正面から向き直った。


 その顔に沈痛な面持ちを浮かべて。

 本来なら言いたくもない言葉を、自らに課せられた職務を全うする為だけに、心痛を堪えてゆっくりと口にした。


「――囚人番号『449』番。牢屋を出ろ。これより、国王さまから言い渡された厳命に基づき、貴様に懲罰を受けて貰う」


 アイゼバッハから渡された鍵を用いて、檻を開け放つ。

 少しして、暗がりの向こうから少年が緩慢な足取りで歩み出てきた。


 白く長い髪に、無数の傷が刻まれた痩躯。

 この三年間、日に日にやつれ、人間としての尊厳を失っていった彼の姿を見続けてきたグラスドは、どこまでも凄惨なその有り様に、思わず目を眇める。


 彼の前で、少年が何も言わず両の手首を差し出した。

 グラスドが手枷を持ち出すより早く、少年が自らこうするようになったのは、いつの頃からだったろうか――。


「……、」


 最早、男の方も言葉を発しない。

 無言のまま、少年の手首に仰々しい手枷を装着する。


 そうしてグラスドは獄卒の一人として、囚人である彼を率いて牢屋を出た。

 これから少年に、謂れのない罪の贖いとして、懲罰を受けて貰う為に。

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