太陽系レモン号航空日誌(仮)

獅子狩 和音

第1話

ランドジーク星系エインベウス第一八番ゲートから出航した一般旅客機HARー360(ハルモニア-サンロクマル)は、ドゥモルタル銀河を経由し、DVー3769(ドックヴェースーサンナナロクキュウ)星系カスケード第2ゲートに向かう航路についていた。

HARー360は大型三層構造の宇宙船で、楕円が寝ころんだような丸いフォルムに、短い尾翼、そして大口のジェットエンジンを備えている。目に眩しい黄色の塗装が目立つため、宇宙空港の関係者や宇宙船マニアからは、「太陽系レモン号」と呼ばれていた。

 ロビーで老人にトイレの場所を聞かれた女は、「手洗い場は向こうだ」と通路を指し示す。女性は色褪せた鼠色のツナギを着ており、腰には簡素な作業用の腰袋が下がっていた。白い項には、明るい橙色のポニーテールがかかっている。トイレに消えていく老人の背中を見ていた彼女に、別の声がかかった。

「すまない、食堂の場所を知りたいのだが……あっ」

 ツナギ姿の彼女に声をかけたのは、軽装に背負い袋を背負った青年だった。短い金髪に、ややくすみを感じる碧眼。小さめの鼻は高く、少し青白い肌の色をしている。整った顔立ちの青年は、声をかけた相手が振り返ると、僅かに眉をひくつかせた。

「食堂はこの階ではなく、一つ上だ。三階には大きな案内板があったはずだから、上がったらそれを見ると良い」

 何だ、どうかしたか。

 まごついた様子の青年を少し見上げ、彼女は首を捻る。彼はその下がった眉尻と同様に、ついと頭を下げた。

「その、申し訳ない。この船の整備士だと、誤解した」

 女は、社員証をしていなかった。この船に乗船している従業員は、運転士から清掃用ロボットまで、濃い青色の社員証を目立つ位置に装備している。それがないということは、彼女は青年と同じ宇宙船の乗客か、あるいはこの宇宙船の職員であっても休憩中の者だ。女は彼の誤解をさして気にしている様子はなく、金髪の頭を手早く元の位置に戻させた。

「確かに私はただの乗船客だが、別に場所を尋ねる相手として間違っているわけでもない。些末なことだ」

 それよりも、お前顔色が少し――。

 彼女が言葉の続きを口にするより先に、金髪の頭部は不意に安定を失い、低く唸るような音と共にぽすんと女の胸ポケットの側に着地した。


「あぁ、目を覚ましたか。適当に頼んでおいたぞ」

 清潔感のある白いテーブルに突っ伏していた青年は、向かいから漂う湯気と卵の匂いにはっと上体を起こす。目の前に差し出された出来立ての料理は、彼が向かおうとしていた食堂の料理だ。青年が沈黙したまま動かずにいるのを見て、女は「おや、好みではなかったか?」と顎に手をやった。

「随分な腹の音と一緒に気を失ったものだから、食事が必要かと思ったのだが。それとも、この形状ではなかったか?」

 腹に効率化食咥こうりつかしょくこう――元は口から食料を摂取出来なくなった者のための技術として開発された、胃袋直通の小ハッチのことだ。ハッチ専用の食品であれば短時間で効率よく摂取できるため、一定数の好評を得ている――も見当たらなかったからと言いつつ、彼女は暗い茶色のマーマイトが塗られた円形のパンをひと齧りする。固いパンの縁が齧り取られるのを目の当たりにし、青年の喉仏がぐっと上下した。その様子は、餌の前で躾られている星団小犬せいだんこいぬのそれである。端的に言って哀れだ。ややあって、彼はぼそぼそとテーブルに言葉を落とした。

「俺には、持ち合わせが……あまり、ないのだが」

 日陰の苔のような陰りを見せた碧眼に、彼女は穏やかに表情を崩し、束ねた橙の髪を揺らす。そして、冷めないうちに食べるといいと答えた。

「私は先週、過密した仕事を軒並み片づけて、ボーナスと連休を上司に賜ったところでな。あまりに虫の居所が良いので、手前の飯のついでに他人の飯まで買ってしまったというわけだ。お前が食べたければ、好きにすると良いぞ」

 青年が拍子抜けするほど、彼女は朗らかな女だった。愉快気に笑ったツナギの女に、青年はテーブルに額を打ちつけそうな勢いの礼を言った。案の定額に赤い跡をこしらえた青年は、ものの数分で食事を食べきってしまう。慣れた手つきで手早く食事をすませた男の両目は、先程より幾分明るい色をしていた。

 危機的状況を脱して落ち着いた青年に、彼女は何故あんなにも空腹状態だったのかと理由を尋ねる。彼は少し俯いて黙ったのち、自らを宇宙忍者スペースニンジャであると告げた。

「宇宙忍者? 何だその珍妙な単語は」

 忍者と言えば、太古の昔に太陽系地球内において活躍した、重力環境下に適応した戦士の一種である。それは割にポピュラーな単語であった。問題は、頭につけられた「宇宙」の単語である。

「俺の故郷は、バロウズ星系内のヒスタニアという星なんだが。ヒスタニアにはどういうわけか、大昔に太陽系の地球から移住してきた忍者たちの集落がある。そこから出来上がったのが宇宙忍者だ」

 元々の忍者に伝えられていた重力圏内での戦闘技能だけでなく、無重力空間でも遜色なく戦えるようにと作り上げた戦い方を体得した者たちが、その宇宙忍者なのだと青年は説明する。遅れてパンを食べ終えた彼女は、ふむ、と頷いた。

「物珍しい響きだと思ったが、特殊な兵隊……いや、傭兵のような戦闘職ということか。理解した。それで、その宇宙忍者は何故、飢えて倒れるほど切羽詰まっているのだ」

「宇宙忍者の修行の中で、一つだけ……俺にはどうしてもこなせない課題があった。あまりにずっとこなせずにいたせいで、俺はとうとう集落を追い出されてしまった。だから、今は仕事を探してあちこちの星系を渡り歩いている。だが、その……」

 淡々と語られていた青年の言葉が、急に尻すぼみになって途切れてしまう。その言葉の続きを、女は急かさずに待機する。やがて出された回答は、女の黒い眼差しを憐憫で満たすには充分過ぎるものだった。

 宇宙忍者という肩書きがあまりに知名度が低く、誰も知らない為まともに雇ってくれるところがない。それどころか、古の忍者のパチモン扱いを受け、ふざけるのも大概にしろと激怒されるか笑い者にされるばかり。いくら違う星に行っても状況は変わらず、そうこうしているうちに身銭もほぼ底をつき、ここ数日は固形物の一つも口にできず、よく知らないエインベウス星の河川を前に喉の乾きに耐えきれず水を飲んで体調を崩し、半ば自棄になって目についた一般旅客機HARー360に不法侵入し、そして……今に至る。

 金髪碧眼の宇宙忍者はすっかり肩を落とし、自らの境遇のどうしようもなさに恥入っていた。俯いた彼の頬が、先程打ちつけた額のようにほんのり赤くなっている。それを、彼女は触れずにそっとしておくことにした。

「異邦人たるお前が知らなかったのも無理はないが、エインベウスの川には寄生虫や汚れが多く、そのまま飲める代物ではないのだ。寧ろそんな体調で、よく密航などやってのけたな」

 エインベウス空港の警備は、他の星と同様に厳しい。一般旅客機に乗るためには、ロボットが監視する無人ゲートだけでなく有人のゲートもいくつか通らねばならない。更に、空港内では鼻の利く特殊な訓練を受けた星団小犬や、武器を所持した警備隊が警戒に当たっている。あの警備をかいくぐるのは、いくら古の忍者の亜種だからといって容易ではないだろうと、彼女は思考を巡らせた。

「しかしそうなると、それだけでは足りんだろう。ほかにも、追加の飯を頼むか?」

 えっ、と零れた短い男の声に、腹の音が重なる。彼が言葉を発しようとした瞬間、船内が大きく揺れた。食堂を利用していた数名の客が悲鳴を上げたり、転倒し床に転がったりしている。素早く近くのはめ込み窓に駆け寄った彼女は、眉間に深い皺を寄せた。

「アグリスか、厄介だな」

 HARー360の機体に、機体より少し小さい、赤黒い体色の生命がめり込んでいる。それは食用の海老を平たく伸ばしたような形状をしており、脚の代わりに体側に襞のようなものが備わっていた。

「あれは、何だ……?」

「正式な名はアノマロカリス・アグリス。今、この船がいるドゥモルタル銀河の原生生物だ。あまり目が見えていないらしくてな、時折こうして宇宙船と激突してしまうのだ」

 食堂に、小さな子供の泣き声が響く。それに連なり、落ち着いた女性のアナウンスが現状を乗客に説明し始め――。

「見つけたッ! 随分探したんだぞ、この魔女め!」

 どたどたと走り込んできた足音と、低い声色。走り寄ってきたツナギの中年男がその勢いのまま、よく似た服装の女めがけて掴みかからんばかりに両手を振りかざした。それに警戒の色を示した翡翠の双眼が、さっと彼女を自分の後ろに引き下げる。中年男は、深緑のツナギの胸ポケットに青い社員証をつけていた。

「この人に、何か用か」

「なんだ、お前さんは。魔女の男か? 悪いが、今はお前さんに構ってる時間はねぇんだ。おいアムブロジア、状況はわかってるだろ。手ェ貸してくれ!」

 青年を睨みつつ、ツナギの男は声を張り上げる。彼の後ろから姿を見せたアムブロジアは、自らを庇った青年に「案ずるな、仕事絡みの知人だ」と口角を僅かに上げた。

「さて。それが人にものを頼む態度か、ハース?」

「言ってる場合か。このままじゃ、俺たちはドゥモルタル銀河の宇宙ゴミだぞ」

 早く来いと言いながら、ハースはさっさと食堂の出口に向かっていく。彼女は数歩踏み出した後、さっと窓辺を振り返った。

「すまないが、お前も来てくれないか。人手が必要かも知れん」


 現場に向かう道すがら、彼女はハースに現状を尋ねる。従業員専用通路を足早に通り抜ける最中、最後尾の宇宙忍者は内部の様子を物珍しげに眺めていた。

 聞けばHARー360の一階部分、乗客や業者からの荷物を預かる場所の一部に穴が空き、ジェットエンジンも損傷してしまっているということだった。

「多分、アグリスの野郎の尻尾がエンジンの一個にぶち当たっちまったんだ。幸い全損じゃないから動かない訳じゃないが、直さずに稼働させりゃあ、最悪エンジンが完全に死ぬ。倉庫の大穴も直さにゃならん。作業に必要な対ビーム反射板は、予算削減で五メートルが一枚しかない」

「反射板は最低でも三枚は詰めと、メンテナンスの報告書に赤字で書いておいただろう。必要備品の削減は愚策そのものだ」

 アムブロジアが眉間に皺を寄せると、ハースは「お前の職場のお偉いさんから、空港ウチの重役共に言って聞かせてやってくれ」とため息をついた。

 ハース一行が一階の搬入口前室に辿り着くと、そこには既に三人の宇宙船整備士が待機していた。上司であるハースを視界に捉え、彼らはさっと口を噤んで神妙な顔を用意する。しかし青年には微かに、部屋の入り口を開ける音と共にそれが聞こえていた。

――、宇宙船工房の魔女を呼んでくるんだと。乗客名簿に名前があったらしい。

 ――、あのとんでもない整備士をか?

 何やらややこしい単語で話し合う眼前の人々を、金髪の青年はぽつりと後ろから眺める。この場において、宇宙船整備士でないのは彼だけだ。一応じっと会話に耳を傾けてはいるものの、専門用語の多い会話を把握することは難しかった。この人は何者なんだろうと、彼は一飯の恩人を視界に捉える。青年が知りうるこの人物の情報は、非常に少ないのだ。

 搬入口前室内には、船外作業用の宇宙服が数着、壁際に沿って並んでいる。そのほか乱雑に散らばったケーブルの束や、走り書きの文字が並ぶ電子掲示ボードなどを、彼は興味深く観察した。

「……巻き込んですまないが、お前も手伝ってはくれないだろうか」

 不意に、高く結われたオレンジ髪が翻った。彼ははっとして、手伝えることであれば手伝うと返事をする。だが、いまいち話を理解できていないらしい頼りなげな表情に、ハースが険しい表情をした。

「そっちの兄さんにも手伝わせるのか? 見たところ、整備士じゃなさそうだが。大丈夫か?」

「確かに整備士ではない。彼は秘境の地の宇宙忍者らしいのでな」

 ピン、と張りつまった空気が、搬入口前室に広まった。次いで訪れたのは、青年がこれまで何度も聞いてきた笑いのこもった声だった。

「忍者だって!? あの、レトロ映画によく出てくる地味な服の戦士か?」

「それも宇宙? なんでそんな取り合わせになったんだ」

「魔女! この緊急時にそんなふざけた話を――」

 笑い出した三人の整備士たちと、眉尻をぐっとつり上げたハース。しゅん、と俯いた大人しい忍者の傍らで、女の白腕がえげつない音ともに壁をぶん殴った。べこん、と拳一つ分にへこんだ鉄の壁に、暗く鋭さに満ちた夜の眼差し。傷一つない白い拳は、魔女の鉄槌と呼ぶに相応しい異様さがあった。

 再び静まりかえった整備士たちに、彼女はふっとため息をつく。そして幾分鋭さを控えた両目で、真っ青になったツナギの男たちを見渡した。

「聞き慣れない珍妙な単語だからと言って、冗談と取るのは余りに早計だぞ。正直、私も子細はわからん。だが少なくとも、この男はこの船に密航できるレベルの手練れだ。熟練の傭兵と同等にとって差し支えない実力だろう」

 インポッシブルワーク、ニンジャ……とぼやいた整備士の頭部を、ハースがピシャリと打ち据える。そして密航について詳しく尋ねかけたハースを遮るように、彼女は忍者に話しかけた。

「すまない、不愉快な思いをさせたな。それで、お前に手伝ってほしいことなのだが――」

 私がエンジンを修復する間、アグリスの尾がエンジンにぶつからないようにしてほしい。ちなみに、あの尾からは時折光圧縮プラズマ砲が射出される。修復中の箇所に当たれば、この船は保たんだろう。

 アグリスの全長は、約二〇〇メートル。懸念される尾の部分だけを相手取るとして、その長さは約五〇メートル。対して、この青年の体格は一八〇センチメートルがせいぜいだ。とんだ一寸法師物語である。

 いや無理でしょ、この魔女は何言ってんだ。

 そんな顔になった整備士の一人は、口を開きかけて、しかしはっとして固く口を噤んだ。ハースにきつく睨まれたのだ。

「装備は、何かあるのか」

「先程話していた対ビーム反射板……アグリスのビームを防ぐ為の物だが。あれは大穴修復を行うハースたちの方にあてがうので使えん。よって、お前に渡せるのは両手持ち用の中型反射板と、作業用の宇宙服だけだ」

 いけるか?

 最善は尽くしてみると、彼は頷いた。

 ツナギや普段着の上に宇宙服を重ね着する男たちと、修理道具を調えるアムブロジア。彼女は彼らが宇宙服を装備し終えたのを確認すると、「では行くか」と軽装のまま搬入口を開けた。ヘルメットごしでもよくわかるほどに、青年の両目が丸くなる。彼女は、生身のまま宇宙空間に出て行ったのだ。

「あぁ、兄さんあれを見るのは初めてだったのか? あれが、あの整備士が『魔女』と呼ばれる所以だ」

 青年が被ったヘルメットの内側に、ややノイズ混じりのハースの声が届いた。

 人間の肉体は、宇宙空間に生身で出られる構造をしていない。酸素と重力環境下に適応しているその肉体は、宇宙に出ればたちまち膨張して破裂してしまう。はずだった。

「あの人は、どうして無事でいる?」

 そう尋ねられたハースは「俺たちはあの魔女がおっかなくてな。何がどうなってるのかなんて、聞いたこともねぇんだ」と青年の肩を宇宙服越しに叩く。搬入口の縁を蹴り、宇宙服の腰についたジェットを操作し、青年は宇宙船の外装づたいに生身の整備士を追いかけた。修復作戦、開始である。


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太陽系レモン号航空日誌(仮) 獅子狩 和音 @shishikariwaon

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