part02:Empress(スズカ√)

Chapter01:Hello/エンプレス(上)

 一日の始まり、私は世界の全てを知る。

 それは僅かに、ノート一冊分の情報。

 一日の終わり。私は世界の全てを記す。

 それは僅かに、ノート一ページ分の情報。

 私の世界は、それで全て。

 私の世界は、それで十分。



 ゆっくりと瞼を開き、深く息を吸う。朝の空気が肺を満たし、頭は次第に冴えていく。


 その日は、いつもより冷たい朝だった気がする。


 まだ起きたくない、とせがむ身体を押して、私はベッドから抜け出した。


 時計を見ると、きっかり七時。目が覚めてからの私の生活は、まるで機械の様に変わらない。


 ひんやりと冷たいカーペットに足をつけ、クッションに腰を降ろし、机に置かれた一冊の大学ノートへと、私は手を伸ばした。


「…………」


 April、とマジックで表紙に書かれたノートを開き、書かれた内容に目を通していく。


 それほど綺麗ではない私の字で、その日あった事や出会った人の名前と特徴、そして会話の内容が記されていた。


「葛木ミオ……天花寺てんげじカレン……牧野まきのカリナ……」


 一人一人、ノートの中に登場する人物の名前を呼んでみる。


 昨日までの私が過ごした筈の日々。今日ではないいつかの私が体験した筈の、平坦極まりない物語の数々。この人はこういう人である、こういう約束がある、という但し書きを付けたそれらを、私は一息に読み進めていく。


 毎日読んでいるものだから、読み終わるまでにはそう時間は掛からない。昨日の分まで読了し、私はノートを閉じた。


 ほう、と息をついた私の口から、言葉が一つ零れて落ちる。


「誰だっけ……?」


 その時確かに、私はそう言った。


 何と言う事は無い。ノートに書いてある筈の、私が出会った筈の人物達。その全てに私はてんで覚えが無かった、というだけのことだ。


 私こと、織原スズカという人間について一つだけただし書きを加えるならば。私は別に記憶喪失という訳でも、タイムスリップしてきたという訳でも無い。


 ……ただ、そう、少しだけ。ほんの少しだけ、他人に関して物覚えが悪いというだけだ。


 だから他のものにその日あった事を記録して、毎朝確認する。そうして何でもない振りを装って生活する事を、私はかれこれ五年ほど続けていた。


「ちょっとスズカー? 今日はちょっと遅いけど、学校は大丈夫なの?」


「んー、今行く」


 下から呼ぶ声がして、私は立ち上がった。ノートをカバンへと仕舞い、制服へと着替え、階段を降りていく。


 一通りの準備を負えて食卓の方へと行くと、赤いエプロンをかけた私の姉……織原アキホの姿がそこにあった。私よりも少し垂れた一重瞼ひとえまぶたの目が、私の方を見つめている。


「おはよう、スズカ」


「ん、おはようお姉ちゃん」


「早く朝ごはん食べちゃいなさい。全く、月曜ならまだしも木曜に寝坊するなんて……」


 ――別に、寝坊した訳ではないんだけどな……。


 二人分の味噌汁をよそいながらぶつぶつ小言を呟くお姉ちゃんに、内心毒づいてみせる。各々の分が乗ったお盆を持ち、卓袱台ちゃぶだいへと運ぶのが我が家の食事のしきたりである。


 今日の献立は、ご飯・焼き鮭・卵焼き・豆腐と長ネギの味噌汁・ほうれん草のおひたし・漬物だった。……正確には、『今日の献立も』だが。


 ほかほかと湯気を立てる料理たちを、私はぼんやりと見つめてみる。少し焦げた焼き鮭の香ばしい匂いが、微かに鼻をくすぐった。


「お姉ちゃん、三日連続で同じ献立なのはどうなの」


「文句があるなら食べない。

 全く、人の顔や名前はてんで覚えない癖に、料理の事だけは機械みたいに覚えてんだから……」


 殆ど同じタイミングで二つの盆が卓袱台ちゃぶだいに置かれ、私達は座布団にお尻を降ろす。


 一昨日から、織原家の朝食は寸分違わず同じ献立のままだ。


 理由は単純で、お姉ちゃんがまとめ買いと作り置きで一週間の料理を賄おうとするからである。それ自体が悪いことではないのだが、もう少し工夫をする余地があるのでは、と思わなくもない。


 もっとも私は台所に絶対立たせて貰えないので、思う事しかできないのだが。


「いただきます」


「……いただきます」


 私が味噌汁をひと口すするのを見て、お姉ちゃんがたくあんに箸を伸ばす。


 最初に漬物から食べるのは行儀が悪いといつもお母さんから言われていたが、私と一緒に実家を出るまでついぞこの癖が直る事は無かった。


 煮詰まって少し香りの飛んだ味噌汁の熱さが、じわりと身体の芯に沁みていく。


「お姉ちゃん、味付けがしょっぱい」


「朝はこのくらいの濃さがいいのよ」


 お姉ちゃんの腕が私の方に伸びて、手前にある醤油の瓶を取る。ご飯の上に落とされた生卵にさっと醤油を掛けて、瓶は再び私の手前へと戻ってきた。


「あんた最近学校はどうなの? エスカレーター式の女子校に飛び入りなんて、意外にロックなことしてるから心配だけど」


「……ん、まあまあ」


「まあまあって……。まあ、あんたに限っては何も問題ないんだろうけど……」


 食べる、と言うよりも呑む、と言った具合で、お姉ちゃんがざくざくと卵かけごはんを掻き込む。


「問題が無さ過ぎる、というのもまた問題なのよね……」


「…………」


 何かモヤっとした気持ちが湧いてきたので、残っていた卵焼きを口に放り込んでお茶で流し込む。卵焼きはいつも通り砂糖が利きすぎて甘かった。


「御馳走様。それじゃあ、行ってくるね」


「ん、行ってらっしゃい。ミオちゃんのこと、待たせちゃいけないわよ」


「はいはい」


 口の中に何か入ったままのもごもごしたお姉ちゃんの声を背中に、私は家を出た。



 春とはいえ、四月の朝はまだ寒い。桜はまだ五分咲き、と言ったところだろうか。


 いつもより遅く出た所為か、周りにはいつもより人が多い。私と同じ制服を着ている女子も、そこここにちらほらと見受けられた。


 私の通う私立白羽しらはね女学園は、中高一貫型のエスカレーター式女子学校である。制服がちょっと可愛いことで知られている、とお姉ちゃんから聞いた事がある。


 大抵の生徒は中学から通っているが、時々私の様に編入して来る生徒もいる。特待生、という枠もあるらしいが、今のところ殆ど見た事は無かった。


「ミオ、まだ待ってくれてるといいんだけど……」


 白羽の制服を着た女子達の歩く道を一本外れ、それほど人気のない道へと私の足は向かっていく。


 学校をサボろうと思った、という訳ではない。王子様が今か今かと私を待っているからだ。


 葛木ミオ。白羽の王子様、という身体の奥が痒くなりそうなあだ名で呼ばれている私の友人は、そういう名前であるらしい。毎日この王子様と公園で待ち合わせをして一緒に登校することが、私の日課となっていた。


 ミオの家自体はこの公園から少し離れたところにあり、私の家に来る方が近い。何故ここに来るのかと訊いたら、ここには自分の取り巻きがこないからと言っていたみたいだが……。


「……あれ」


 公園に行くまであと少し、というところで、私の足は止まった。


 道路いっぱいに広がる様な形で、そこそこの人だかりができている。見れば全員が白羽の制服を着ていて、何やら一点を見つめているようだった。


 ――猫でもいるのかな。それとも事故?


 いずれにしても、私には関係無い事である。例え地球一悲惨な事故が起きていたとしても、世界で一番可愛い猫がいたとしても、私が遅刻していい理由にはならないだろう。


「ちょっとすみません、通して下さい」


 立ち並ぶ人の林を掻き分けすり抜け、なるべく足早に出られるよう進んでいく。


 どうもここにいる人たちの視線は、中央にいる一人の人物に注がれている様だった。


 日本人離れした金の髪に、燃ゆる様なガーネットの双眸。身長は一七〇はあるだろうか。私の身長は一五五センチだから、丁度見上げる様な形になる。まるでハリウッド映画の主演女優が田舎にやって来た様な不似合いさが、この空間にはあった。


 ――なるほど、人だかりの正体はこれか。


 くだんのハリウッド女優から前方へと視線を移す。人だかりの隙間から公園の中を横目に見ると、もうそこに人の姿は無かった。どうやら王子様はもう行ってしまったらしい。


 ――まあ仕方ないか。今日は一人で行こう。


 小さく嘆息し、もう一度前へ踏み出そうとしたその時、


「ちょっと。待ちなさいなそこの二年生」


 矢で射つ様な凛とした鋭い声が、私の足をぴたりと止めた。


 それまで私のことなど歯牙にもかけていなかった視線の全てが、一斉に私を見つめる。


「……はい」


 振り返ると、燃えるガーネットの瞳がじっとこちらを見つめていた。


 気付けば私の周りは彼女の取り巻き達に囲まれていて、蟻の這い出る隙も無い。まるで私が何か、とんでもない罪科を負ってしまった様な扱いだ。


「何か、言う事があるんじゃないかしら」


「…………いえ、特に何もないですが」


 一歩後ろへ下がろうとした私に、ずいと彼女は一歩近付く。


 逃げ場はどこにも無い。そう思わせられるのは、彼女の顔が一分の隙も無いほど自信に満ちているせいだろうか。


「挨拶くらいはするべきなんじゃないかって、私は言いたかったつもりなのだけど」


「……はぁ、おはようございます。では」


 もう一度彼女から目を逸らし、彼女を避けて進もうとする。多少遠回りになってしまうが仕方ない。ここにいるよりはずっとマシだ。


 しかし三歩ほど順調に進んだ私の身体は、そこでびたりと止まってしまった。誰かが私の肩を、強い力で掴んでいる。


「……痛いんですけど」


 少し不快に感じて、私の肩を掴む手の主を睨む。


 目元にある泣き黒子が目立つ、少し垂れた目が私を睨み返していた。


 見れば二人は、制服の右腕に腕章を巻いていた。金髪の方は会長、垂れ目の方は副会長と書いてある。どうやら二人は生徒会の人間らしかった。道理で偉そうな筈である。


「いいわサヤカ。離しなさい」


「でもリンダ、この二年生は……!」


「いいから。早く離してあげなさいな」


「…………」


 不承不承、といった苦々しい表情で、サヤカと呼ばれた女性が私の肩から手を離した。


 ――リンダ……どこかで聞いた様な、聞かなかった様な。


 喉元に小骨が引っかかった様な気持ちの悪さが、僅かに脳髄の奥底に生じる。


 もしかしたら私の様なぼんやりした人でも知っている、とんでもなく有名な人なのかも知れない。もし本当にハリウッド女優ならばサインの一つでも貰っておくべきだろうか。


 そんな私の心中を知ってか知らずか、リンダと呼ばれた金髪の彼女は自信たっぷりな笑みを浮かべて私の顔を覗き込んできた。


 香水とはまた違う甘い香りが、ふわりと私の鼻孔をくすぐった。


「貴女そのタイ、二年生でしょう」


 リンダなにがしにそう指摘されて、私は自分の襟に巻いたタイを見てみる。私のタイは青で、例の二人は赤だった。


 白羽では、学年によってタイの色が指定されている。一年は緑、二年は青、三年は赤である。


 学年が変わるとそれまでのタイは全く使わなくなるので、一部の生徒の間では下級生に上級生がタイを贈るという習わしもあるらしい。私自身は渡した経験も渡された事もないが。


「私にそういう態度を取る人は、三年だけだと思っていたのだけれど。結構骨のある二年生がまだいたのね」


「はぁ、そうは言われましても。私は貴女がどなたか存じませんので」


「……へ?」


 間の抜けたリンダ某の声が聞こえ、どこか居心地の悪い沈黙が辺りに満ちる。


 ずる、と音を立てて彼女の鞄が半分ずり落ちるのが、やたらスローモーションに映った。


「あの、何か」


「……本当に、私が誰か……存じなくって?」


「知りませんよ、全然知りません。前世の恋人か何かですか?」


「そう……そう来るのね……嘘や強がりを言ってる訳ではなさそうだし、でも……」


 ぴたりと自分の鼻へと指を当てながら、リンダ某はぶつぶつと独り言を呟いている。


 ――それにしても、一体誰なんだろう。本当に心当たりが無い……。


 前世の恋人ですかと言ってはいそうですと返されても困るが、冗談だと正しく受け止められて考え込まれるのもそれはそれで困る。


 いたたまれなくなって腕時計を見ようとした私の視界に、荒い足音を立てながらローファーの爪先が映った。


「どなたか存じないって……自分の学校の生徒会長を知らない筈がないでしょう! 失礼だとは思わないのですか!」


「そう言われましても、知らないものは知りませんので」


「……っ」


 まるで人に噛みつく五秒前みたいな顔をして、サヤカと呼ばれていた副会長が私を睨む。


 水面みなもに石を投げ込むと波紋がさざめく様に、副会長をさきがけとしてざわざわと取り巻き達が騒ぎ始めるのが分かった。


「ちょっと、黙って聞いていれば西宮先輩に何て口利いてるのよ!」


「西宮先輩、この子A組の織原ですよ。ちょっと電波で変わってる事で有名で……」


「二年の織原、一年のルーシーってやつよね。白羽の電波って言われてる」


「先輩! こんな変な人相手にしなくていいですよ! 早く行かないと生徒会のお仕事が……」


 ――随分嫌われてるんだなぁ、私。


 白羽の電波と呼ばれている事は露ほども知らなかった。まあ、学園の王子様と毎日いるのだから、面と向かって言える人もいるまい。


「静粛に!」


 きんと張りのある、瑞々しい一喝が朝の乾いた空気に響き渡る。


 辺りは水を打った様に静かになり、会長と私の周りから少しずつ人がはけていく。


「皆さん、この件は手出し無用に願いますわ。事情はどうであれ、二年に私のことを知らない人がまだいるのは私の落ち度。私が解決しなければならない問題ですの」


 ――いったい何者なんだろう、この人。


 自分が世界の中心であると信じて疑わないその出で立ちは、なるほど遍く人々に知られていてもおかしくはないのかもしれない。


 一挙手一投足が人の気分を良くする為にある様な、そういう人なのだろう。


「それに、こういう手合いを相手にする方が面白いですわ。私、白地図を塗り潰すのは結構好きですの」


 ざっ、とローファーの靴底が地面を擦り、リンダが胸に手を当ててしんと背筋を伸ばした。


 見得を切る、という所作は恐らくこういうのを言うのだろう。遠くで黄色い歓声が上がるのが聞こえた。


「いいこと? 私は必ず、貴女が二度と私を無視できない様にしてみせるわ!」


「……さいですか」


 ――知らない間に、知らない人から宣戦布告をされてしまった。


 何だか色々と生きにくそうな人である。もしかして世界中の人間全員を夢中にさせないと済まない性分なのだろうか。


「それでは、今朝はこれにて失礼させて頂きますわ。また会いましょうね」


 会長は私に小さく手を振ってから、また何事も無かった様に歩き始めた。取り巻き達もそれにつられる様にして、私の傍を通り過ぎていく。


 私だけ時間がそこで止まってしまった様に、私以外の全てが急速に動き出す。


「…………」


 ふと気付くと、副会長が私の方をじっと覗き込んでいた。険しい表情ですんすんと鼻を動かしている。


 ひとしきり鼻を動かしながら何かの匂いを嗅ぐ仕草をした後、副会長は思いっきりしかめっ面をして舌打ちをした。


「嫌なやつよね、貴女」


 そう吐き捨てると、副会長はふいと顔を背けて、会長の消えた方へと早足に駆けていってしまった。


 今までの出来事は全て夢だったのではないか、と思える静寂だけが、私の隣に残った。


「……何だか、台風が過ぎたみたい」


 時計を見ると、遅刻になるまでそうかからない時刻を針は示していた。


 ――やれやれ、今日は散々な目に遭った。


 大きく一つため息をついて、私は小走りに学校へと向かった。



 この世界は、一本の映画の様なものだと思う。


 色が無くて、実感がなくて、皆何かの役の様だと、ずっと感じてきた。


 全ては私の毎朝読むノートの様に、何かの脚本の通りにしか進まない。


 私の見てきた世界の全ては、今までずっとそうだった。


 けれど私の世界は、この日を境に少しずつ変わり始めるのだという微かな予感が、その時確かに私の胸にあった。


 この日、私は一人の女王と出会った。

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