Chapter02:王子と姫の距離/Great distance(上)
「あのっ……葛木先輩!」
少し潤んだ双眸が、ボクを見つめている。
タイの色は緑。その少しおっとりした声色には覚えがあった。昨日の朝に告白した一年生だろう。
――参ったな、まさか
本気でボクのことが好きという人は、実はそれほどいない。
できれば相手の気持ちが収まるまで受け流して、やんわり断るのがいつもの手だが、どうもこの子はそういかないらしかった。
「あたし、本気で先輩の事が好きなんです! 中学の時からずっと、先輩のこと見ていて……それでっ!」
小さい手が伸びて、思わずボクの身体は強張る。
ぎらぎらとした目に射すくめられて、ボクは思わず自分の手を引っ込めてしまった。
「――――っ」
はっ、と息を呑んで、彼女は今にも泣き出しそうな顔をした。
二人の距離が埋まる事は、この先決して無い。
その事実を感じ取って、けれど受け入れたくない、といった様子で、酸欠になった様にして喘ぎ喘ぎ彼女が言葉を継ぎ足していく。
「それでっ、あたし、先輩のこと、近くで支えたくてっ! 私なんかが先輩の隣にいたいなんて、おこがましいかもしれませんけどっ!」
「……そんな事は、無いよ」
少しだけ、涙と欲に光る目から視線を逸らす。
とても、今の彼女を直視することなどできなかった。
「…………」
静かに一度深呼吸をして、言葉を紡ぎ始める。
「君の気持ちは嬉しい。中学校の時からずっと想ってくれてる事も、勿論ありがたいと思ってるよ」
でも、とボクは言葉を続ける。
「君のことは、どうしてもそういう目で見られないんだ。だから――」
だから、と、一度ボクは言葉を切る。
――いつも辛いな。この瞬間だけは。
その先の言葉は、多分言わずとも伝わっているだろう
けれど、言わずとも伝わる言葉であっても、伝えなくてはならない言葉はきっとある。きっとある……と、ボクは思っている。
彼女の様に、想いは伝えなければ、きっと形になる事はない。
「だから、君とは付き合えない」
彼女の目から涙が零れる瞬間だけは、やけにゆっくりと映った。
昨日ボクは、一人の自称宇宙人と出会った。
ルーシー・チトセ・リーリエと名乗った一年生の女の子。
彼女は一貫して、自分を異星のプリンセスだと言っていた。ビッグブラザー星といったか。
それが嘘か本当かは、ボクには割とどうでもいい。
彼女が虚言癖のおかしな子であったとしても、仮に本当の宇宙人であったとしても、ボクが彼女に興味を持たない理由にはなり得ないからだ。
――あの子に触られても、全然嫌じゃなかった……。
小さくて白い、一輪の花の様な彼女の手。彼女の手は、他の子と違う。
それが何故なのか。どうしてボクは彼女に触れても大丈夫なのか……それを知りたいという思いが、彼女とボクを繋いでいる。
硬いコンクリートの地面を一歩一歩踏みしめる様にして、私は約束した公園への道のりを歩く。
今朝は昨日に輪をかけて早く出たので、私を知っている人は殆ど見かけない。時々遠くから声をかけてくる子たちへ軽く手を振りながら、私はゆっくりと足を運ぶ。
時々遠くを通り過ぎる車の排気音だけが、懐かしい音楽の様に私の鼓膜を震わせた。
――遠い音楽、か……。
ぼんやりと思い出したメロディが、唇から零れる。
一フレーズ目を口笛で奏で終わるか終わらないかの頃、公園の中がちらりと見えて……口笛はぴたりと止まった。
緑のタイを結んだ紺のブレザー、さらさらとした長い髪、小柄で華奢な体躯、そして大きな澄んだ瞳。
ベンチに腰掛けて音楽を聴いている一人の小さな少女が、昨日会った自称宇宙人のプリンセスであるという事はすぐに分かった。
「おはよう、お姫様」
「うひゃあ!?」
ぽん、と肩を叩くと、彼女の肩がびくんと魚の様に跳ねた。
取り落としそうになったテープレコーダーを慌てて掴んで引き寄せて、彼女はほうと息をついた。どうやら余程大事なものらしい。
「今時カセットテープなんて珍しいね。何聴いてたの?」
「み、みみみっ、ミオ! 突然
「…………それは、そうだね。申し訳ありませんでしたお姫様」
深々と一礼すると、彼女は取り敢えず落ち着いたようでふんと鼻を鳴らした。
イヤホンを纏めてテープレコーダーをポケットにねじ込むと、いつぞやと同じようにふんぞり返った偉そうなポーズを彼女は取った。
「さあさあ、遠からん者は音に聞き、近くば寄ってしかと見なさい! 私こそが
「ふふっ、
「主を待たせるなんて不敬も甚だしいけれど、まあそれも寛大な心で許してあげるわ。だって私はプリンセスだもの!」
――これでも、昨日よりは随分早く来たつもりなんだけど。
時計はまだ七時半を少し回ったところで、学校が始まるまでには随分と時間がある。彼女がいつからここで待っていたのかは知るべくも無いが、冷たい風の中でどれほどの間待っていたかを想像してみると、それはぞっとしない話だと思った。
「……それで、何を聴いていたのか聞いてもいいかな? 今時テープで音楽を聴いているなんて珍しくてさ」
「あ、ええと……」
ボクがそう尋ねると、彼女は少しだけ黙った。
顎や唇を軽く触りながら、ボクから逃れる様にして絶えず目を泳がせている。明らかに答えにくい、または答えにくいことに対する反応だった。人の仕草や目線から考えを読むのは、それなりに得意な方だ。
「…………いや、変な事を訊いてしまったね。すまない」
「ううん、いいわ。私こそいらない心配をかけたわね」
はし、と彼女がボクの手を掴む。依然として、彼女の手には他の人達から感じられる汚らしさは感じられなかった。
「さあ、学校行きましょうよミオ。今日もやりたい事が沢山あるわ」
彼女に手を引かれ、まるで水の流れへ引き込まれる様にしてボクは公園から通学路へと出た。
昨日も感じたが、彼女の小さな身体の中には何か逆らえない大きなエネルギーの様なものがある。ボクはどうやら今のところ、その力に翻弄されるしかないみたいだった。
「ねえミオ、昨日はよく眠れた?」
「いいや、あんまり寝つきは良くなかったかな。それほど快眠とはいかなかったよ」
「ふふん、私の家来になれて嬉しかったんでしょう。遠足の前日に眠れない小学生みたいで可愛いわねミオ。でも睡眠はちゃんととらないとダメよ、地球の人にとって睡眠は美容の大敵なんだから!」
「おや、ビッグブラザー星にも遠足や小学校があるんだね。それは知らなかったな」
「学校は当然存在するわ。人的リソースの知識や技能を保証することは国家の繁栄において何より必要な事だもの。
そして教育を促進する為にレクリエーションの類を設けてやる事は、とても効率的だと聞いているわ。私は専属の家庭教師がいたから、公立の学校に通ったことは一度も無かったけれどね」
「専属の家庭教師?」
「何でもその先生から教わったわ。ビッグブラザー星のこと、地球という星のこと、音楽のことや遊びのこと……」
「……なるほど、ね」
暫く歩いていると、何やらがやがやとした騒がしさが耳に入ってくる様になってきた。それはボクが普段聞いている音に、とてもよく似たものだった。
――取り巻きの音、かな。ボク以外にそれだけの取り巻きがいるのは……。
近くの女子に声をかけると、人の群れの中にさあっと道ができ、その道の中央に二人の女の子が立っていた。
一人は少し癖のある紺色の髪をショートボブに切った子で、もう一人は見るからに高級な腕時計をはめた、赤茶色の長い髪を風に
結論から言うと、ボクの予想は当たっていた。
「おはようスズカ。今日はリンダと一緒なんだね」
「……おはよう、ミオ」
「あら、ご機嫌よう葛木さん。そちらの方は?」
切れ長の目が彼女の方を捉えて、凛とした声がボクに尋ねる。スズカと言えば別段興味も無さげに、人込みを鬱陶しそうに見つめていた。
「おはよう会長。あー、この子は一年で、その……」
――さて、このプリンセスをどう説明したものかな……。
着物の上から柔らかく刺す様な視線を受け止めながら、暫し逡巡する。
モデルの様な容姿をしており、成績優秀である事から他の生徒からの人気は群を抜いて高い。高々ちょっとしたファンクラブがある程度のボクでは人望で遠く及ばない存在だ。
ボクと同じ様な存在でありながら、他人を恐れることなく導ける存在。
頼れる先輩であり、憧れの女性。それがボクにとっての西宮リンダであった。
「
「ええ、知ってますよ。ビッグブラザー星から来たプリンセスです」
「……………………」
「…………スズカに訊いたのが間違いですよ、会長」
笑顔を張り付けたまま固まっているリンダへ、眉間を指で抑えながら、ボクはため息を一つつく。
スズカはボクの事だって記録しなければ覚えていられないし、よしんば思い出したとて相手に気を使った会話をする事もできはしない。会話において、ただ情報を情報として相手に伝える事しかスズカにはできない。
だからビッグブラザー星のプリンセスだと記録していたなら、ビッグブラザー星のプリンセスだと話す事しかできないのだ。
「び、ビッグブラザー星の……プリンセスですって?」
「よくぞ聞いてくれたわそこの地球人! さあさあ皆の衆、遠からん者は音に聞き、近くば寄ってしかと見なさい!
私こそが
「あ、ええと……あはは……」
差し伸べられた彼女の手を握りながら、リンダが苦笑いする。
一方彼女の方はというと、キラキラとした目でリンダの方を見ながらぶんぶんと握った手を上下に振っている。犬みたいだな、と少し思った。
「貴女見たところ地球のプリンセスかしら? ゆくゆくはこの地球で我が臣民と共に暮らす者として、私と友好関係を結んでも良くってよ!」
「…………考えておきますわ。では
冷や汗を垂らしながら、あくまで柔和に穏やかに、リンダが一歩離れて手を振る。彼女はそんなリンダの様子をしばらくじっと見ていたが、やがて何かを悟った様にふいと踵を返してこちらへと戻ってきた。
波が引いていくように、人の群れはさっと動いて遠くなっていく。
「うん? もういいのかい?」
「ええ、王者は孤独なものだもの。やっぱり入植地で
そう言うと彼女は何でもなさそうにボクの手を取って歩き始めた。……その手は先程握っていた時よりも、少し力が強かったけれど。
「……リンダは決して、君の事が嫌いな訳じゃないと思うよ。
ただその、いきなり積極的に来られると戸惑ってしまうというか、そういう事は奥ゆかしく挨拶するのがこの星のマナーなんだよ」
「そうかしら? ビッグブラザー星では皆同志だったから、この位親しく接した方が良かったのだけど。文化の違いかしら?」
きょとんとした顔で、彼女が振り返ってボクの方を見る。握る力はいつの間にか緩んで、いつも通りの彼女の手になっていた。
「地球の歴史の中でも、入植者と現地人とで争いが起きるという事はしばしばあったみたいだからね。相手の事を知るのも大事なんじゃないかな」
「相手のことを……ね。なるほど、確かに共生していく上で相互理解は大切よね。流石は私の一の家臣、地球人のことにも明るいわ!」
「……そりゃ、生まれも育ちも地球なもので」
「ねぇミオ、そのリンダって人はどこに行けば会えるのかしら?」
「普段は三年生の教室にいると思うけど、放課後なら必ず生徒会室に行けば会えるんじゃないかな。……ただまあ、お姫様は生徒会には行ったら行ったでまた色々と……」
「分かった、生徒会室ね! 早速今日行くわよミオ!」
「いや、だから生徒会には……」
「楽しみだわ、地球人とのコミュニケーションは愉しいもの。リンダと友好関係を結べれば、これはもう日本を掌握したと言っても過言じゃないわね」
――全然、人の話を聞かない子だなぁ……。
こんな調子でリンダと関わらせていいのか、甚だ心配ではある。
西宮リンダという人間と個人間の付き合いをするのは、ただ囲っているだけの人間が想像している五倍は苦労する。
きっと、いや恐らく、この異星のお姫様とは水と油くらいの親しさが限界だろう。
「あのオリハラスズカ? って地球人にも興味があるわね。また会えるかしら」
「……多分、また会えると思うよ。きっとスズカは、お姫様の事は覚えていないと思うけど」
「あら、それはどうして?」
「どうしてって言われてもね……まあ、そういう人間だからとしか」
「へぇ……そういう人間も、この地球にはいるのね」
「いやどうだろう……宇宙人みたいと言えば宇宙人なのかも……」
――あ、しまった。
言ってはいけない言葉というのは、どうして言ってしまった後に気が付くのだろう。特に取り返しがつかない類のものは。
きらきらとした目で彼女がボクの方を見つめる。その目はボクを見ているというよりも、むしろボクを透かして遠くへ行ってしまったスズカの事を見つめているように見えた。
「それなら是が非でも膝を交えて話がしてみたいわね! 今日一緒に行きましょうミオ! いやぁ、今日は予定が沢山あって楽しいわね!」
彼女はそう言いながら、学校への道を大股で上機嫌に進んでいく。
これはもうどうにもならないな、と内心嘆息しながら、ボクは彼女の後を追った。
「そういやスズカ、今朝の一年生なんだけど――」
「うん、ビッグブラザー星のプリンセスだよね」
飛んできたサーブを打ち返しながら、スズカがボクの言葉に応える。打たれたテニスボールはボクの少し前で跳ね、再びボクはボールを返す。
「どうしてあの子が、昨日ボクが話した子だって分かったんだい?」
「……別に。何となくそう思っただけ」
スズカがついと視線を逸らしながら、少し強めにラケットを振る。高く上がったボールは、しかしボクの方へやってくることはなく、ラインを少し割ったところで弾んだ。
「…………」
「ふふ、ドンマイドンマイ」
スズカに軽く手を振ってから、転がっていったボールを拾いに行く。
――嘘だ。とても分かりやすい嘘だ。
多分、彼女に嘘を吐いているつもりは毛頭ないのだろう。
織原スズカという人間の心は、他人の思い出を留める事ができない。なので他人とのコミュニケーションを通じて『普通の人間』に振る舞う為には、どうしても外部に記録しておく必要が生じる。
データであれば何でも良い、とスズカは言っていた。アナログでも電子でも、自分が書いたものでも人が書いたものでも構わないとも。
以前、スズカが書いたノートをちらっと見た事がある。書かれてあったのは、その日あったことや考えたこと、これからやる事……しかしその全てが、事実に沿ってのみ記録されているとは限らなかった。
けれどその嘘は誰かを騙すためのものでは無いし、実害も無いのだから気にする必要もないだろう。
――みんな、何かを演じながら生きているのだから。
だからスズカの言葉や行動が、葛木ミオという登場人物の筋書きに何かしらの不具合を起こさない限りは……ボクはその事についてとやかく言うつもりは無かった。
「人生も世界も、映画のようなものなのだから……ね」
「へぇ、ミオって結構詩的なこと言うのね。私が平民なら恋に落ちちゃうかも」
「…………」
今、聞いたことのある声が頭上から降ってきたような気がした。雑草の生い茂るフェンス際で止まったボールを拾おうとしたまま、ボクの手は虚空で固まる。
――……いやいや、ここにいる筈が無いんだけど……。
「ずいぶん変な姿勢でひれ伏すのねミオは。面を上げて良いわよ、主が許可するわ」
「……どうして二年生の授業にいるんだい?」
虚空に止まったままの手を動かしてボールを取り、顔を上げる。フェンス一枚隔てた向こうには、胸を張って小さい身体を誇示している、もはや見慣れつつある姿がそこにあった。
「うんうん、忠孝は臣下の誉れよ。よく従いよく働き、今後もよく私に尽くしなさい!」
「……質問にお答え頂けると大変嬉しいのですが」
「誰も私を縛ることはできないのよ。ルールブックは私なんだから」
――それはつまり、授業をサボってここに来たという事なんじゃないかなぁ……。
「屋上から下々の者どもの営みを眺めていたら、ミオがあの人とテニスしてるのが見えてここまで来てあげたのよ。ミオ結構テニス上手いわね」
「今朝会ったリンダほどではないけどね。あの人は全国大会の常連だし」
「私はミオに言ってるのよ? 主の褒誉は素直に賜るべきよ」
「ボクに……ね」
それは一体、どのボクに言ってるのだろう。中々残酷な言葉を投げかけてくるなぁ、と少し思った。
ボクも彼女も、お互い何も知らない。取り分けボクは彼女の本名すら知らない。……いや、ルーシー・チトセ・リーリエという大層な字面が他ならぬ本名である可能性を全て否定することはできないけれど。
「ねぇ、お姫様の名前は何なんだい?」
「うん? 分かり切ったことを訊くのは珍しいわね。私はルーシー・チトセ・リーリエよ」
「いや、そうじゃなくて本当の名前だよ。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないかな、もう他人という訳でもないんだし……」
「ルーシー・チトセ・リーリエはルーシー・チトセ・リーリエに決まってるでしょうが。葛木ミオが葛木ミオなのと同じよ、私は私なの」
「だから、ボクはちゃんと君の事を……」
「やめてッッッ!!!」
腹の奥から絞り出す様な、絶叫とも取れる大声。
耳なのか脳なのか分からないところがびりびりと震えて、ボクは力なくぺたんと尻餅をついてしまった。身体をじわりと侵食する冷たさが、地面の温度なのかボクの温度なのか、今のボクには分からない。
一方彼女の方はというと、火照った身体を弾ませながら、怒りとも悲しみとも取れる表情でボクを見下ろしていた。
掴んでいたテニスボールがボクの手を離れ、静かに転がっていく。
手を伸ばせばすぐにでも触れられそうなフェンス一枚の距離が、今は途方もない彼方にまで隔てられている様に感じられた。
取り返しのつかない何かが、致命的などこかが壊れそうになっている。
――どうして……どうして、何も言えないんだろう。
彼女から目を離すことができない。何か言わなければいけないのに、ボクの口は何も言葉を紡いでくれない。
いい加減なはぐらかしやお為ごかしでも、優しく傷つけない慰めや別れの言葉も、何度も何度も言った事がある筈なのに。
――早く、早く何か言わないと。何か、何か……!
ボールが転がっていく、微かに砂を擦る音が聞こえる。
あのボールはどこまで転がっていったのだろう。今手を伸ばせばまだボールに届くだろうか。こうしている間にも距離はどんどん開いていく。手を伸ばすこともどんどん難しくなっていく。
――早く、早く、早く、早くいつも通りに……!
そして、微かに聞こえていた砂を噛むような音は唐突に止まった。
「……何やってるの。異星の王子様候補」
まるでプラスチックの様な、無機質で無感動な声。
縋るように、ボクは声のする方へ顔を向ける。
ラケットを持ったままのスズカが、少し呆れた様にも見える顔でこちらを見ていた。ボールはスズカの履いたスニーカーの爪先で止まっている。
永遠にも感じられたあの時間がたった数秒の出来事だと、その時ボクは初めて理解した。
「全然戻ってこないから、てっきりジュール・ヴェルヌの考えそうな地底世界にでも行ってるのかと来てみれば……何、ケンカ?」
「ケンカ……と、いう訳ではないんだけど……」
凍った何かが溶けゆく様に、いつものボクは次第にボクの中へと戻っていく。ゆっくりと、またいつも通りは戻ってくる。
スズカの前でならボクはいつも通りになれるという、甘い安心感を感じながら、ボクはゆっくりと立ち上がった。
「……大丈夫なの? さっき顔、真っ青だったけど」
「ううん、本当に何でも無いんだ。ちょっとお姫様に、おかしな事を言ってしまっただけだから」
「全く、不敬にも程があるわよミオ! 自分の主を試すだなんて……」
「……すまないミオ、ボクは――」
その時ボクは、多分はぐらかす様な何かを言おうとしていたのだろう。
しかし彼女は、私の言葉を最後まで聞いてはくれなかった。ついと視線をスズカの方へと移して、そちらの方向へと少し移動した。
「ねえ、貴女今朝会った人よね! 私はルーシー・チトセ・リーリエ! ミオとはどんな関係なのかしら?」
「織原スズカよ、ミオとはただの友達でクラスメイト。家来でも主でもないから、煮るなり焼くなり好きにすればいいんじゃない?」
スズカはそう言うと、スニーカーの爪先に止まったボールをさっと拾ってボクと彼女に背を向けた。本当に興味なさげに、すたすたとスズカはコートの方へと歩いていく。
「……それじゃあ、ボクもそろそろ戻らないと」
「そうね、精々体力づくりとテニスに励むといいわ。夢は西宮リンダ打倒よミオ!」
「あはは、両方が学校に在校している間に叶うといいね……」
気が付けば、すっかりボクはいつものボクに戻ることができていた。言葉も淀みなく、ボクの口からすらすらと流れてくる。
「――ねえ」
フェンスに手を当てて、彼女の目を真っすぐ見つめる。
彼女はびくんと一瞬身体を震わせて、わずかに半歩後ずさった。怖がらせないように、眉間を開いてなるべく優しい声を心がけながら、慎重に言葉を選ぶ。
――そうだ。ちゃんと話そう。きっと二人の距離を埋める為に必要なのは、この少女について知る為には、ボクが変わることが必要なんだ。
「良かったら、また放課後に会えないかな。話したいことが沢山あるんだ」
その言葉を聞いて、少し強張っていた彼女の顔が緩むのが分かった。嬉しそうに、けれど少し困った様に、零れる様にはにかんでみせた
「…………全く、しょうがないわねミオは。いいわ、必ず行くから待ってなさい。約束よ?」
「うん、約束するよ」
フェンスを隔てて、彼女がボクの手に自分の手を重ねる。
吸いつくように触れた彼女の手は、今朝より少し温かくなっていた様に感じられた。
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