Chapter01:ハロー/Princess(下)

「今日はごめんね、厄介なのに絡まれちゃって」


 弁当のプチトマトを箸の先で転がしながら、目の前の少女――織原スズカが無表情にそうぼやく。


「へぇ、一体どんな事があったんだい?」


「変なのに絡まれてさ……何だったっけ、そう……ミオみたいに取り巻きの女の子が沢山いて、高飛車な感じで……」


「もしかして、西宮リンダじゃないかな。ハーフの人だろう?」


「だったと思うんだけど……ごめん、私こういうのは物覚えが良くなくて」


「分かっているよ。スズカがそういう性質たちだっていうのは、ボクが一番よく理解しているさ。ゆっくりでいいから話してくれ」


「……ありがとう、ミオ」


 スズカが僅かに笑って、机の中からノートを一冊取り出す。その間にクラスの女子が二人こちらへ来て、机の上にチョココロネとメロンパンを置いて行った。


 いつから始まったかは分からないが、こうやって一人一つずつ、ボクのところへ各々のパンや菓子を置いて行く風習がある。


 昼休みの間中人に揉まれ続けるのも大変だが、これはこれで食べきれない分の処分が大変なので困る。


「……じゃあ今から、取り敢えず順を追って話していくんだけど……」


 ノートを開いて内容へさっと目を通してから、スズカが話し始める。


 彼女の話は筋道立っていて分かり易かったが、どこか心の籠っていない、予め渡されたものをただ音読しているような嘘臭いところがあった。


 ボクが他人を拒んでいる様に、スズカは他人を覚えることが出来ない。


 他人の事を路傍の石くれと同じ程度にしか認識できなくて、だから彼女の記憶の中には誰にも残らない。


 ある意味で愛や執着、好き嫌いといったものからは最も遠い彼女だからこそ、ボクはスズカとだけは嫌な思いをせずに友達付き合いをする事ができた。


「――という事があって、今朝は大変だったんだよ」


「あはは、それは災難だったねスズカ」


 気難しい顔で弁当の卵焼きをつつくスズカを見て、ボクは笑う。


 彼女は他人に対する関心が限りなく希薄なだけであって、感情が無い人形だという訳ではない。単に少し生きづらいだけの、普通の女の子なのだ。


 だからこそ彼女の事は愛おしいし、親友だと思う。ただ、織原スズカという人間に対して「親友」以上の関係が生まれる事も、それを望む事もないだろう。


 このくらいの関係が、スズカとはちょうど良いのだ。


「ミオのところにはそういう女王様みたいなの寄ってこなさそうだよね。ミオがヒエラルキーの頂点なんだから」


「確かに人間の女王はいないけど、宇宙人のお姫様なら今日会ったよ。ビッグブラザー星とかいうところから来たらしい。


 確か……ルーシー・チトセ・リーリエとか言ったかな、ここの一年生らしいんだが」


「び、ビックブラザー星……」


「ふふっ、今朝のボクと同じリアクションだ。やっぱりスズカとは気が合うね」


「でも、どうしてビッグブラザーなんだろう? 全然王様とかお姫様とは関係ない作品なのに」


「さあ、スズカに分からない事はボクにもよく分かんないよ」


「なるほどね……」


 スズカにそのルーシー某の特徴を訊かれて、ボクはそれに淡々と答えていく。


 彼女はボクから聞いた情報を、かつかつとペン先を鳴らしながら手際よくノートに書いて行った。スズカはボクが全然読むことのできない、独特な文字を書く。速記文字というものらしい。


 彼女の事を話すのは、何故かとても楽しかった。まるで自分の事を語るかの様に、すらすらと言葉が喉の奥から舌先へと滑り出してきた。


 それが何故かをボクは上手く言葉にできなかったけれど、それは恐らく彼女の目によるところが大きかったのだろう。


 あの目は今まで見た事の無い、宝石の様な美しい目だった。


 ちゃんとボクを見てくれるのは、スズカを除いては彼女が初めてだった。そんな彼女の事をスズカに話すのは、とても楽しかった。


「……なるほど。SFが好きなんだろうね、そのルーシーさんは」


「多分また会いに来るだろうね。何となく、そんな気がするんだ」


「……アブダクションされない様にだけ気を付けてね」


「ふふふ、宇宙の旅も悪くは無さそうだけどね。ここではないどこかは」


 ――ここではないどこかは……一体どの様な場所なのだろう。


 うず高く積み上げられたパンや飲み物を抱えて、ボクはサンタクロースよろしくクラス中にそれを配って回る。


 これもいつ始めたかは覚えていないが、どうしても処分しきれない程のパンや飲み物を貰ってしまった時にはこうしてクラスや部活の皆にもう一度配って回るのがボクの習慣だ。


 そうしてパンと飲み物をクラス全員に配り終えた時、まるで待ちわびていたかの様に始業のチャイムが鳴り響いた。




「ねぇミオ! 貴女私の家来にしてあげてもいいわよ!」


 放課後になるや否や、いつぞやのプリンセスが教室へ飛び込んで来た。


 午後の何となくだらけた雰囲気は俄かに緊張し、彼女を避ける様に人混みの中に道が出来る。ボクのところへ集まりかけていた女の子達も、蜘蛛の子を散らす様にしてどこかへ離れていってしまった。


「ちょっと、あの子……」


「一年の宇宙人でしょ? 最近有名だって……」


 ざわざわと、クラスの中で彼女についての声がひとつふたつ聞こえてくる。どうやら一部の中では結構な有名人らしかった。


「……家来、かい?」


 ぽかんとした顔でおうむ返しの様に尋ねると、彼女はうんうんと力強く頷いた。


「そう! 貴女顔が良いし、運動神経も良いらしいし、成績も優秀だから私の右腕にしてあげるわ! きっと私の輝かしい覇業の為に必要な人材よ!」


「まさか、本気で言ってる訳じゃないだろう?」


「いいえ本気よ! さあ、一緒に行きましょう!」


 言うが早いか彼女はボクの手首を掴んで、教室の出口めがけて一目散に駆け出した。


「ちょっ……! 待って待って!」


ボクは彼女に殆ど引きずられる様な形で、廊下を抜けて階段を下っていく。


 それはまるで一陣の風の様で、或いは荒れ狂う怒涛の様で、ボク一人が抗うにはあまりにも大きな力のうねりである様に、その時感じられた。


「最初は会議ね! まずは貴女の事を沢山知りたいわ!」


「どうやってボクの事を調べたんだい!? ボクと君が出会ったのはほんの数時間前だというのに!?」


「貴女、自分が思ってるよりずっと有名人なのよ! 学校中で皆いつも貴女の事を噂しているわ! 学園一の王子様って事でファンクラブもできてるのよ!」


 ――ああ、やっぱりできているんだな。ファンクラブ……。


 ファンクラブが高等部でもできている事は知らなかった。小学校の時も中等部の時もそういった組織はずっと存在していたから、どうせここでもまたできているという事は予想していたが。


 考えてみればここにいるのは中等部から上がってきた生徒ばかりなのだから、二年や三年、または新入生の熱心なファンが作ったというのは自然だろう。


「まあ、ビッグブラザー星の力を使えば貴女の事なんてつむじからつま先までぜーんぶ調べられるんだけどね!

 今は地球にいるから、地道に調べるけど!」

「その、ビッグブラザー星というのは一体どこにあるんだい!?」


「ここではないどこか、としか言えないわね。私はプリンセスだから、大事な事は喋れないよう記憶にプロテクトが掛かっているのよ」


「……ここではないどこか、ね」


 ――それは、ある意味でとても良いところなのかもしれない。


 ここではないどこか。自分ではない自分。今じゃないいつか。


 そういった言葉の一つ一つは、とても甘くボクの耳を打つ。


 ……それはきっと、そんな言葉の数々が、私の手には決して届かない絵空事の様な美しいだけのものだからだろう。


「いつかは、そこに行けるかな」


「え、何て言ったの!? 周りがうるさくて聞こえない!」


「いいや、何でもないよ! そのまま進んで!」


 気付けばボクは、思わずそんな事を口走っていた。


 ボクの言葉を受けて、彼女は走るスピードをぐんと上げていく。風の様に、あるいは風を受けて飛んでいく鳥の様に。


 小さな身体を運ぶ足音はかろく、その口元はほんの少し綻んでいる様な気がした。



「さあ、会議開始よ! まずは自己紹介から始めましょうか!」


 夕焼けの中に、鈴の様な声が響き渡る。


 濁流に呑み込まれる様にして連れてこられた先は、朝に彼女と出会った公園だった。少し先で胸を張ってふんぞり返る彼女をベンチに腰掛けて見ながら、そう言えば部活をすっぽかしてしまったな、と思い出した。


「朝にも言ったけど、私はビッグブラザー星のプリンセス、ルーシー・チトセ・リーリエ! ほら、ミオも自己紹介して!」


「自己紹介……といっても、君はボクの事を割と知っているみたいだし、あまり必要ない気がするんだけど」


 ボクがそう言うと、彼女は少し不機嫌そうに頬を膨らませた。


「いいこと? 私の言葉に答える時にはいつもイエスで答えなさいミオ! ミオは私の家来なんだから、私がしっかり躾けてあげるわ!」


「はいはい、分かりましたよお姫様」


 少しわざとらしく肩をすくめながらそう答えると、彼女はちっちっちと舌を鳴らしながら顔の前で人差し指で振ってみせた。


「こういうのは形が大事なのよ形が。例え知っていても自己紹介はマナーだし、主人がやれと言ったらやるのよ。黒いカラスも私が白だと言えば白になるのよ。分かったかしら?」


「姫様の仰せのままに」


「……もしかして、私の事バカにしてるのかしら」


 じとっとした目で見つめながら、ボクの答え方に対して彼女は不満を示す。


 細い足をしゃかしゃか動かして、肩肘張った様子で彼女はボクの座ったベンチにまで歩いてくる。間もなくボクの隣でぺたんと座る音がした。


 ――少し芝居が過ぎたかな。他の子はこれで喜んでくれるのだけど……。


 芝居をやるのは、正直楽だ。与えられた条件と、求められたニーズに合わせて、あらかじめ用意したテンプレートを並べ立てるだけで、それなりに世界は上手く回っていく。


 ……そういったやり方は、ひどく不誠実なのかもしれない。


 けれどボク以外の人間が本心からボクと向き合っているとは到底思えなかったし、得体の知れない相手に本心を曝け出すより恐ろしい事もない……と、ボクは思う。


 だから彼女がこんな奇天烈きてれつなことを言い出している現状にも、別段軽蔑したり奇妙に思ったりすることは無かった。


 彼女も彼女で、何かの役を演じているのだろう。


「どうなの、ミオ」


 微かに消毒液の様な匂いがしてそちらを見ると、彼女のくりくりとした双眸がこちらをじっと見つめてきている。


「とんでもないです姫様。ちゃんと聞いていますよ」


「ならいいわ。物わかりの良い家来は大好きよ、何といっても優秀だもの。私がビッグブラザー星にいた頃には――」


「…………あ、えっと」


「……ジュースと菓子パンはお嫌いですか、お姫様?」


 ぐぅうううう、と低い音がして、先程まで周りに回っていた彼女の弁舌はぴたりと止まった。病的にまで白かった彼女の顔はみるみるうちに紅潮していき……最高潮に達したところでボクの方から申し訳なさそうに顔を逸らす。


「…………あ、えっと」


 指を組んではほどき、ほどいては組みながら、彼女は時々ちらちらとこちらを見てくる。お腹を空かせた王女様というのもそれはそれで可愛らしいとは思うのだが、本人からすれば格好かっこうが付かないという事だろう。


 そんな君も可愛いよ、と言ったら彼女は怒るだろうか。


 大抵の子は例え心に無くても、ボクがそう言えば黄色い歓声を上げる。彼女たちが望んでいるのは自分の本心でもボク自身ではなく、王子と姫というなのだから。


 だからこうして、奇天烈ながらもボクの事に真っすぐ向き合ってくれる彼女の姿は、ほんの少しだけボクの目にはまばゆく映った。


 ……もっとも、彼女自身はまだひどく胡散臭い印象のままなのだが。何なんだろう、宇宙人って。


 ――そう言えば、お昼の残りがあった筈だけど……。


「あの、私……」


「……ジュースと菓子パンはお嫌いですか、お姫様?」


 カバンの中からオレンジジュースとメロンパンを取り出して、彼女の方へと差し出す。


「ボクは葛木ミオ。貴女の家来になるかは分かりませんが……これを受け取っていただけませんか?」


 花が咲いた様にぱぁっと彼女の表情が明るくなったのは、誰の目から見ても明らかだった。



「中々気が利くじゃないミオ! ゆくゆくは私の右腕として、ビッグブラザー星に来てもらうかもしれないわ!」


 メロンパンに噛り付きながら、ほくほくした顔で彼女が話す。


 随分と美味しそうにものを食べるんだな、と思いながら、ボクは彼女がメロンパンを頬張りオレンジジュースで流し込む様を見つめる。


 このくらい気持ちよくものを食べられるのは、うちのクラスだとカレンだろうか。


「……お昼、食べてなかったのかい?」


「食べてるけどすぐにお腹が空くのよ。ほら、私地球の人間じゃないから!」


 ――結構頑張って設定通すんだ……。


 幸せそうな顔をしてがつがつと飲み食いする姿はどう見てもお姫様ではない気がするのだが。むしろ犬に餌を与えている気分に近い。


 クラスメイトから貰ったメロンパンはあっという間に半分ほど減っていた。


 口いっぱいに頬張ってもごもごと咀嚼する姿は犬というよりリスの様にも思えてきた。背が低いのも相まって小動物の様に思えてくる。


 ただ、彼女の食べる速度は、無意識に早くしているというよりも意図してそうしている様にも見えた。


「慌てなくていいからゆっくり食べるといいよ。食べ終わるまで待ってるから」


「……え」


 そう言ったのは、本当に何でもない、ただの気遣いだった。


 ストローを吸う彼女の唇が、半分開いてぴたりと止まる。


 驚いた顔でこちらを見つめる彼女の瞳に、ボクは思わず射竦いすくめられた様に固まってしまった。


 ――何だろう、この目は……。


 先程よりも少しだけ色の褪せた、二つの瞳が微かに揺れている。


 少し震える彼女の唇が、恐る恐る言葉を紡ぎ始めた。


「……いいの?」


「え? いいのって、何が?」


「いや、何でも……ううん、ありがと」


 先程と同じくらい赤く顔を染めながら、彼女がもごもごと口の中で言葉を転がす。


 やがて誤魔化す様にゆっくりと再びメロンパンを齧り始めた彼女から目を離して、空を見上げてほうと息を吐き出す。


 陽が落ち始めるのは、前に比べると少し遅くなっただろうか。耳を澄ませると今まで気にも留めなかった生活の音の一つ一つが耳に入ってくる。


 誰かに何かを求められない、少しだけ解放された時間。


 ――こんなに落ち着いた気分になったのは、本当に久しぶりだな。


「……良ければもう一個あるから、貰ってくれないかい?」


 カバンからチョココロネを取り出して、彼女の方に渡す。


 彼女がそれをおずおずと受け取ってカバンの中へとしまうのを見て、ボクはカバンのジッパーを閉めて立ち上がった。


 本当はメロンパンもチョココロネも部活で後輩に渡す予定だったが、どのみち部活はもう今日行けないのだからあげてしまっても問題は無いだろう。


「今日はありがとう、結構楽しかったよ。また会えるといいね」


「あ……っ、あのっ!!」


 ひときわ大きな声がして振り返ると、彼女はボクのすぐ後ろでじっと僕の方を見つめていた。


 物欲しそうな、けれど不純な部分のない、潤んだ瞳がこちらを見つめている。


「……明日はっ」


「うん?」


「明日は、その、またここに来るの?」


「…………」


 ――ああ、それは……。


 願ってもみない事だな、と思ってしまった。


 それはきっと、こんな様子の彼女を放っておけない以上の気持ちがそこにあるからだろう。


「明日も、明後日も……来てくれる?」


 はし、と左手を掴まれ、一瞬身体が固まる。


 けれどその緊張はたちまちどこかに解けて、どこかへいってしまった。


 彼女の手は、少しだけ冷たくてしっとりとしている。乾いたボクの手に、彼女の手は吸いつく様によく馴染んだ。


――どうしてだろう……人に触られるのは、たまらなく嫌な筈なのに……。


「…………どう、かな?」


「明後日は土曜日だから約束はできないけれど、明日は必ずまたここへ来るよ。今日と同じ時間に、また待ってるから」


 手を握る力が、きゅっと強くなる。


 その手は少しだけ汗ばんでいて、冷たかった体温は少しだけ温かくなっていた。


……。それじゃあ!」


 ほどけた指を追いかける暇も与えず、彼女はぎゅっと手を握りしめ……飛び退く様にして後ろへ下がった。


「明日、待ってるから!」


「あ、ちょっと!」


伸ばした手が、むなしく空を切る。


 静止を振り切るようにして彼女は走り出し、その小さい姿はたちまち春の夕陽の中へと消えていった。


 後には静寂と、かすかな彼女ののこと、まるで幽霊の様に脳裏へ焼き付いた彼女の残像だけが残る。


「やれやれ、何なんだ急に大人しくなって……。変わった子だな」


 さっきまで彼女が握っていた、自分の左手を見る。指の腹にタコができた、あかぎれて節くれ立ったごつごつとした掌。よく「男みたいな手」だと言われる、荒れた手をぼんやりと眺める。


 ――彼女の手は、綺麗だったな……。


 透き通るように白い掌と、枝の様に細くて節の滑らかな指を思い出してみる。


 まるで幽霊の様にすり抜けて遠くに消えていった、白い彼女の手。


「あの子に触られても、全然嫌じゃなかった……」


 ごつごつした手を開いては閉じて、彼女の跡を探す。


 女の子に触られると、ボクの手にはべったりとした跡が残る。それはボクにしか見えないけれど、洗っても中々落ちない確かな汚れや傷として僕の手には刻みつけられている。


 しかし、どこを探しても彼女が付けたと思しき跡は見当たらなかった。まるで最初からいなかったかの様に、彼女のいた痕跡こんせきはボクの中に残されていない。


 けれど今、胸の中を絶えず揺らすだけが、確かに彼女はそこに居た事を物語っていた。


「もっと知りたいな。彼女のこと」


 明日になれば、彼女はここに来るだろうか。


 公園のどこを見ても自転車がなくて、そう言えば自転車を置いてきてしまったことをふと思い出した。


 

 その日ボクは、宇宙人のお姫様と出会った。

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