シネマティック・ガールズライフ ー褪せた世界の中で、少女はひとつの輝きを見るー

九重ミズキ

第1章 April

part01:Princess(ミオ√)

Chapter01: ハロー/Princess(上)

【少し、昔のことを思い出してみようと思う。

それはまだ、ボクが何も分からない子供であった時のこと。あの学園で、ボクが王子……言葉にするのは恥ずかしいけど、そう呼ばれていた時のこと。高校二年になったあの日から、少しずつ変わっていったこと。その全てを一つ一つ思い出していきたいと思う。

もう一度君に逢う前に、ボクはもう一度、あの日々を振り返る必要があると思う。まずはやはり、全てが起こったあの日の事から思い返すべきなのだろう。

ある春の日に、宇宙人のお姫様と出会ったあの日の事を――。】



 薄暗い朝の洗面所で、冷たいステンレスの蛇口を捻る。


 きんと冷え切った水が手に当たり、冷たさが背中の方へと抜けていく。


 溢れ出した水はボクの手を濡らしては滑り落ちていくが、手に着いた汚れは落としてくれそうにもなかった。


 ……もっともそれは、水で洗って落ちるようなものでもないだろうが。


 ざぶざぶと音を立てて、一心に手を洗う。洗えば洗うほど汚れは増えていく気がして、ボクは手から鏡の方へと視線を移した。


 鏡に映った、少し眠たそうな見慣れた姿。


 去年よりも少し焼けた肌。先週よりも細くした眉。釣り目がちな切れ長の目にまった、ガラス玉の様に生気のない瞳。


 客観的に見て、整っている方だと思う。喉元に微かに残った、細い傷跡を除けば。


 この顔を好きだと思った事は久しく無いけれど、ボクの周りの人たちは皆この顔が好きだ。多分、顔より上を見られたことは殆どない気がする。


「……痛い、な」


 手に当たる水は冷たすぎて、その冷たさはずきずきと肌をなぶった。真っ赤になった手で蛇口を反対に捻ると、洗面所から全ての音が消える。


「…………何やってるんだろうね。ボクは」


 深いため息を一つついて、ボクは洗面所を後にした。


 これは毎日の儀式。来る日も来る日も変わらない、毎日を生きる為の儀式。ひとつの歯車として、淡々とやってくる膨大な時間の中に回り続ける儀式。


 ここで手を洗い、学校へ行き、また洗面所ここへと戻ってくる生活。


 ボクを取り巻く世界の殆どは、一本の映画のものだと思う。


 自分がいつどこで、何をどうやって感じ考えやっているのか……自分で選べているようで、きっと何も選べていない。まるで誰かが書いた脚本やコンテの通りに動いているように感じてしまう。


 その日もいつも通りの静かな一人の朝で、これまでと何も変わらない一日が始まるのだと、その時ボク……葛木かつらぎミオは何の疑いもなく信じていた。


 しかしその日。高校二年生、十六歳の春。ボクは宇宙人のお姫様と出会う。




 ほうと大きく息を吐き出すと、白い空気が煙の様にたなびいては消えて行く。


 春と言えどまだ外の空気は冷たくて、洗い過ぎてあかぎれた手にひりひりと沁みた。


 短く切った髪の間を冷えた風が一陣通り過ぎて、身体は少し震えた。古びた自転車を漕ぐと車体はきぃきぃと軋んで、滑る様にボクの身体を運んでいく。


「葛木先輩、おはようございます!」


「ああ、おはよう」


「先輩、おはようございます! 今日も素敵です!」


「おはよう。そう言って貰えると嬉しいよ」


 ボクと同じ制服を来た女の子達が、私の顔を見てはにこやかに明るく挨拶をする。


 そういった言葉の雨を自動的な音の羅列でいなしながら、やはり機械的な動作で自転車のペダルを漕ぎ続けていた。


決まった言葉を掛けられて、決まった言葉を返す、いつもの行為。



「あ……あのっ! 葛木先輩!」


 突如目の前に人影が現れて、ボクはびっくりしてハンドルのブレーキを力いっぱい握った。甲高い音を立てて、それまで進んでいた自転車が止まる。


 制服を見る限りではうちの生徒だろう、一人の女子がボクの前に立っていた。


 ――やれやれ、困ったな……。


 タイの色は緑。うちの高校は結ぶタイの色が学年ごとに分けられており、赤は三年、青は二年、緑は一年となっている。


 目の前の女子のタイは緑だから一年生で、青のタイを結んだボクが二年である事は、同じ高校に通う生徒なら誰でも分かるだろう。


 その短く切った黒い髪と、赤い髪飾りは何度か見た覚えがある。最近ボクの周りを熱心に着いて回っているバスケ部の後輩だという事はすぐに分かった。


「急に飛び出してくると危ないじゃないか、もし怪我でもしたら大変だろう? 次からは気を付けてくれると嬉しいな」


「あ、その、ごめんなさい。あたし……あたし一年の■■■■■っていいます! 葛木先輩に、どうしても伝えたい事があるんです!」


 はし、と右の手首を掴まれて、そのまま滑り込ませる様に手をしっかりと握られた。


「――――――っ」


どろりとした黒い何かが、染み出す様にじっとりとボクの手を伝ってくる。


 ぞわり、と冷たい何かが背筋を這って、汗がひと筋、うなじを伝った。


「私、中学の頃から先輩のこと凄くかっこいいなって思っていて……それでっ、学校は別なんですけど、先輩の出ていた試合もずっと見に行ってたんです! 先輩がこの学校に通っているって知った時、私凄く嬉しくて……それで、あの!」


 私を繋いでいる手が、ぐっとその力を増す。汗の様な、それ以外の何かの様な、どろりとした何かも絶えず私の手へと流れ続けていた。


 ――……お願いだ、早く終わってくれ。


 悪寒は今も、止まってくれそうにない。


 今すぐこの手を振り払いたい衝動に必死に耐えながら、懸命に笑顔を貼りつける。


「私、葛木先輩の事が好きです! 付き合ってください!」


「……あ、えっと……」


 まるでノートの紙面をマーカーでしっちゃかめっちゃかに引き乱したように、思考が上手く纏まらない。


 頭の中で色んな思い出がフラッシュバックして、呼吸が浅くなる。


 中学の時のこと、去年のこと……小学生の時に起こった、ある夏の日のこと。


 ――落ち着け。大丈夫、ボクは大丈夫……。


 目線を一度逸らして、こういう時はどう答えようかと考える。


 思考が明瞭になるのと同時に、頭の中で構文は組み立てられて、唇は半ば自動的に動いていた。


「とても嬉しいよ、ありがとう。君がボクの事を本気で想ってくれてるの、すごく伝わってきた」


「先輩……」


「ちょっとの間、考えさせて貰えないかな。君とこれからどうしていくのか、ちゃんと考えたいんだ」


「はい……はい! 私、ずっと待ってますから!」


 逃れる様にその手から逃れ、再び自転車のハンドルを握る。


 じゃあね、と言いながら手を振ると、その子は泣き出しそうな顔をしながら反対の方向へ走っていってしまった。


 ――また、傷つけてしまったかな。


 こういう時、こちらの気持ちは自然と通じてしまう。ボクにその気がないことを、何となく感じてしまったのかもしれない。


 王子、王子、という黄色い言葉から逃げる様にして、ボクは自転車のサドルへ素早く跨った。


「……はぁ」


 他の子たちに聞こえないよう、小さくため息を漏らす。


 ――王子、王子、ね。


 学園の王子様。葛木ミオという人間に求められる役は決まっていつもそれだ。


 しかしボクは、葛木ミオは、その役を一度だって、こころよく想ったことはない。


 端的に言うと、ボクは他人の事が好きではない。


 しかしボク自身はどうやら他人から相当好かれる様で、呼んでもいないのに昔からよく取り巻きができた。


 女の子にとっての王子様。それが葛木ミオという人物に与えられた役割なのだという事は、今はわだかまりなく納得していた。


 人生は、一本の映画の様なものだとボクは思う。


 人はみな何かの役を演じながら生きている、と考える事がある。ありのままの自分で生きている人など一体どれほどいるのだろう。


「…………」


 ――王子じゃないボクは、どうしてるんだろう。さっきの彼女みたく友達と一緒に登校して、他愛もなくたくさんのクラスメイトと本音で話して、それで……。


「……まあ、ボクがいつも一緒に通っている友達は……」


 公園が見えたので、中をざっと見渡して見る。公園には誰もいない様だった。


「どうやら、まだ来ていないだね……」


 公園の前でブレーキをかけると、一段と甲高い音を立てて自転車は止まった。


 ボクはいつも友達とここで待ち合わせてから学校へと向かっている。しかし当の彼女はまだ公園には来ていないらしく、姿はどこにも見えなかった。


 ベンチにそっと腰かけて、彼女から借りた文庫本を取り出してぱらぱらと捲る。


 もう殆ど読み終わった本で、今日の放課後までには返そうと思っているものだ。


 本は良い。本を読んでいる間だけは、ボクは自身を取り巻く煩わしい全てから逃避することが出来た。


「――――♪ ――――――♪」


 読書を続けるうちに少し気分が良くなって、昨日レコード喫茶で聴いた曲を口笛で吹いた。


 一度記憶の内に入った音の群れは、いつでも口笛という形で正確に奏でることができる。ちょっとした特技だ。


 ――遅いな。何してるんだろうスズカ……。


「ねえ貴女、今は一人なの?」


 ……そんなボクの時間は、突然降ってきた声によって霧の様に消えてしまった。

 ――誰だろう。聞いたことない声だけど……。


 少し眉をしかめながら顔を挙げると、そこには小さい女の子が胸を張って仁王立ちしていた。


 まるで小学生の様な容姿だが、彼女はうちの高校の制服を着ていた。タイの色は緑だから、ボクよりひとつ下の一年生だろう。ボクは二年だからタイは青だ。


「……何か御用かい? ボクは今、人を待っているのだけど……」


「何を読んでいるのかしら? 何だか面白そうな本ね」


「……質問に質問で返すのは、ちょっと良くない気がするんだけどな」


 少しむっとして、ボクは眉間のしわをもう少しだけ深く刻んでみる。しかし彼女はそんなボクの様子など意に介さず、手に持った本へと視線を注いでいた。


「……ねえ、君は――」


「私、宇宙からやって来たの! 地球の書物にも興味があるわ!」


「……うん?」


 思わずぽかんとした間抜けな顔を見せて、じっと目の前の自称異星人の顔を覗き込んでしまう。


 その自称異星人は酷く大真面目な顔で、ボクの持った本を見つめていた。


 その目は他の人とは違っていて、ぎらぎらと欲に塗れた目ではなく、ただありのままだけを純粋に見つめていた。


 ――綺麗な目だ。


 そう思うと同時に、ボクの心臓は音高く鳴り響いた。


 まるで宝石の様な美しさだった。


 ほんの少し右の方にだけ紺の差した、夜の様な色の瞳。黒に茶色の散った焦げ茶色の長い髪。一五〇センチと少し程度の小柄な身体。


 宇宙人にはとても見えない、少し変わった女の子。


 けれど彼女の目にはぎらぎらとしたものがまるで無くて、幼い子どもの様に純粋な色をしていた。


「ねえ、それは何という本なのかしら?」


「……夢野久作の『少女地獄』という本だよ。短編集で内容のクセも強いけど、中々面白くてね……あまり人にオススメはしないけど、ボクは好きだよ」


「短編集って事は、色んな話があるのよね? 貴女はどんな話が好きなのかしら?」


「『煙を吐かぬ煙突』と、表題作の『少女地獄』が好きかな。さて……」


 ぱたん、と軽い音を立てて、開いた本を閉じる。


 彼女の身体は少し驚いた様に跳ねて、半歩だけボクの方から離れた。


「君は一体誰なのかな? 自称異星人さん」


 そう尋ねると、待ってましたとばかりに彼女は鼻息荒くボクの前へと向き直って大股に足を開き、両手でピースサインを作って、左手を天に、右手を水平に構えた。


「よくぞ聞いてくれたわ! 耳の穴かっぽじってよーく聞きなさい!」


 純粋な目をきらきらと輝かせながら、大して豊かではない小さな胸を張って自称異星人は名乗りをあげる。


「私の名前はルーシー・チトセ・リーリエ! ビッグブラザー星の第一王女よ!」


「び、ビッグブラザー……?」


「今は後学の為にこの地球へ滞在しているけど、いずれは星に戻って女王となり、王道楽土を築く事を約束されているわ! ルーシー様と呼ぶ事を許してあげるわよ!」


「へぇ……それはそれは、凄い人に出会ったものだ」


 一瞬呆気に取られてしまい、はっと息を呑む。


 ――いけないいけない、相手のペースに呑まれちゃダメだ。


 もう一度深く息を吸って……いつもの自分を思い出す。


「会えて嬉しいよ、お姫様」


 ボクがそう返事すると、ルーシー某はぐっと言葉を呑み込んで顔を赤くした。どうやらこちらから話しかけられるのには慣れていないらしい。


「ボクの名前は葛木ミオ。よろしくねお姫様」


 そう言って右手を差し出すと、「あっ」と喉から漏れた様な音を出して目を逸らした。顔が少し赤くなって、一歩二歩と細い足が後ずさる。


「きっ……きっきっ気安くしないでよ俗物! 私はビッグブラザー星のプリンセスなのよ!?

 私が一度命じれば、従僕である異世界の獣アシモフがあなたの喉笛を噛み切るんだから! 言葉は謹んで、敬意を払って接しなさいよね!」


「そうか……申し訳ない。以後は気を付けるよ、お姫様」


「あっ、えと、その……。ごきげんよう!」


 耳まで真っ赤になったルーシー某は、そのまま踵を返して脱兎の如く走り去ってしまった。


 嵐が去った後の静けさだけが、がらんとした公園に残される。


「一体何だったんだろうね。あの面白い子は……」


 腕時計を見ると、もう学校へと行かなければならない時間だった。


 公園の外ではうちの制服を着た女子たちが何やらぞろぞろと集まっているのが見える。きっと生徒会長たちだろう、生徒会はスズカが一番縁遠そうな存在だから、あの中にスズカがいるとは考えにくい。


 どうやらスズカは今日ここには来ないらしい。仕方が無いので私は再び自転車に乗って、学校へと向かってなるべく早く飛ばして行った。



宇宙人のお姫様と初めて出会ったのは、これが初めての事だった。

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