いつものやつ
東京都新橋。ここはサラリーマンの街。
朝から晩まで仕事に追われる人々で溢れている。
新橋駅から徒歩10分程度、そこには雑居ビルが立ち並ぶ。雑居ビルの合間を縫う小道の一角に、近隣の会社で働く人々に人気の立ち食いそば屋がある。
立ち食いそば屋は50年以上もの長い時間、夫婦二人で営んできた。店の広さというと横は畳1枚ほどのしかない、その狭さにカウンターには8人ほど立つことが出来る。奥の方にテーブル席が。
テーブル席と言っても二人が向かい合うスペースのみ。合計10人しか店内に入ることが出来ない。それでも、周辺で働く人々はここにやってきて、午後からの仕事に向かっていくのだ。
近くにはチェーン店のファーストフードが多くあるにも関わらず、この店が支持されてきた。人々は味だけでなく店主と奥さんの人間味に魅了されてきた。
奥さんは優しい口調で「おまちどうさま」と柔らかく言い、店を出る客には「いってらっしゃい」と笑顔で見送る。
店主は口下手な人だ。奥さんが温かい言葉で話すのに対して、無言で反応を示すときはこくりとうなずくだけだ。奥さんを呼ぶときも太い声で「ヨシ子」と呼びかけるだけだ。
初めて来た客からすると店主は冷たい人だと思うだろう。しかし、店主は来た客の事を絶対に忘れることはない。ここの常連客は「いつものやつ」と言って注文をする。そして、店主は無言で「いつものやつ」を提供するのだ。このギャップに客は魅了された。
そんな立ち食いそば屋だが、あと5日で閉業となる。奥さんは腰の手術を控えており、回復までに時間が掛かる。年齢も店主は80、奥さんは75を迎えようとしている。長い休業をして、周りに迷惑を掛けるよりも切りよくやめてしまったほうが良いという店主の考えからだった。この店が迎える最後の月曜日。人々は変わらず店にやってくる。
「おじさん、いつものやつ」
スーツを身にまとった40代の男。頬に薄いほくろ。こくりと頷きそばを茹で、器に盛る。顎先で合図を送る。
「はい、かき揚げそばね」
妻がゆっくりと器を置く。手は震え、足元もおぼつかない。いつか倒れてしまうのではと心配になる。そんな思いもつゆ知らずまた客がやってくる。
「おじさん、いつもの」
作業服を来た50代の男。最近、部長に昇進したと笑顔で後輩に話していたな。こくりと頷き、器に盛り合図を送る。
50年近くもの長い時間、平日の昼間はいつもこうだ。開業したとき周りにあった建物はもう無い。時代が流れていく中、こんなに長く続けられたのもこの店にやってきてくれる客のおかげだ。
最初に来た客は30代の男だったな。その客は初めての常連さんになった。ただ、20年近く経つとパタリとくることはなくなった。しかし、先日、同い年ぐらいのヨボヨボの爺さんがやってきて、私は驚愕した。しかし、態度には出さずに注文を待つと、「まだ、やっていたんだね」と相手は笑った。「やめるというから来てみたがまだ出来るじゃないか」とまた笑った。私は目が潤みそうになったが堪えて、妻に器を持たせた。
「天そばに揚げ玉多め。やっぱこれだね」
客もこの店に来たことで思い出にふけるようにそばをすすった。本当に長い間やってきて良かった。そして、私の記憶力にも感謝だ。
1時10分。多くの会社が昼休みを終えていながらもちらほらと客がやってくる。20代から60代まで。男女関係なしにこの店にやってくる。また、男の客がやってきた。白いワイシャツにグレーのスラックス。その男と目が合う。そして、男は寂しそうに口を開いた。
「おっちゃん、今週でこの店はおしまい。寂しくなるね」
男の言葉が体に染み渡るような感覚を覚えた。こうも、しんみりと言われるとこっちも来るものがある。
「おっちゃんに会えなくなるのは辛いよ。皆もそう思っているはずさ。ここでしか、食べられないそばがあるからね」
私の目が潤む。年齢を重ねたことで泣き虫になったが、ここまで弱くなるとは。ここ最近は泣かないようにするので精一杯だ。
「おっちゃん、いつものやつを」
私は男を見つめた。そして、小さく頷いた。
目元を手で拭い、ふぅと息を吐いた。
あれぇ、こいつ誰だっけぇ?
誰?本当に誰?
しんみりとした雰囲気で言われて、少し流されちゃったけど、え、本当に誰ぇ?少し、後ろを振り向いてみるか。あぁ、テーブルに肘を乗せてそば出てくるのを待ってるんだけど!すっごい、常連感出てるんだけど!
え、どうしよう・・・誰なの本当・・・・。
ヨシ子ちゃんに聞いてみようかなぁ。って、泣いてるし!泣いちゃってるよ!思いっ切り感情揺さぶられてるじゃん。
わからない。
この男の求める「いつものやつ」がわからない。かけそば、天そば、月見そば、きつねそば・・・・・・きりがない。多種類の中から一発で引き当てるのは難しい。
この店は客の事を覚えているというのが売りでもある。それが閉業まであと数日だというのに。どうしよう。ちょっとヒントがほしい。あまり客と話したこと無いけど、仕方がない!
私はうぅ、と鳴き真似をした。周りはざわついた。「あのおじさんが泣いてるぞ!」と常連客が驚いている。よしよし、この調子だぁ・・・・・・。男に顔を向け、声のトーンを抑え、
「いやぁ、泣かしてくれるね」と言った。
男はふっ、と鼻で笑ったが、目が潤んでいた。
この男、かなりの常連なのかもしれないな。下手に忘れてしまったことを悟られると周りに何を言いふらすかわからん。
「悪いね、恥ずかしいところ見せて」
「おっちゃんも人間らしいところ、あるじゃねぇか」
バカにしてんのかぁ?笑うときも泣く時もあるわ!
いかんいかん、こいつの「いつものやつ」がわからなくてむしゃくしゃし始めている。
「80にもなって泣いているところなんぞ見られたくないね。そうだ、今日は少しだけサービスするよ。天ぷら、ちくわ、コロッケ。一つ好きなやつを入れてやる」
これは高等なテクニックではなかろうか。
単品の物を選ばせることで、こいつの「いつものやつ」を狭めることが出来る。天ぷらなら天そば以外のものと消去法で「いつものやつ」を発見する!
「いや、おっちゃん。あんたの表情が今日のトッピングさ」
何言ってんだこいつ。
え、なんかキザなセリフ感があって嫌い。
少しは好意を受け取れよ!
もう、私の記憶力は気づかないうちに低下してしまったのだろう。
歳には勝てないのを思い知った。体調は若い頃から徐々に低下していったのはわかっていたが、記憶力の低下はとても悔しい。この男にも申し訳ない。閉業することを聞いて、数年ぶりに来たのかも知れない。
そうだとすると、手厚く迎え入れるのが一番なはずだ。それなのに、自分のことでいっぱいになって、客の事を疎かにしてしまった。
そばを茹で、器に盛る。そして、汁を掛け、少量のネギと生姜を乗せる。かけそばの出来上がりだ。顎先で妻を呼び、運ばせる。
「はい、おまちどうさま」と温かみのある声が響いた。
「おっちゃん、これかけそばじゃないか」
男の方は向かない。じっと壁を見つめた。
「今日はいつものやつじゃなくて悪ぃね。かけそば、あと数日で閉業するうちのそのままの味だ。味わってくれ」
「おっちゃん・・・・・・いただきます」
男は割り箸を手に取り、すすり始めた。
危ねぇ!でまかせにそれらしいことを言ったら、うまくまとまったぞ!これで閉業までやりきれる・・・・・・
店主が地味な危機を乗り切っているさなか、そばをすする男はこう思っていた。
「初めて行く店で常連感を出す『いつものやつチャレンジ』初めて通ったぁ!」
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