談話

 張龍が自宅に帰り着いた時には、既に子時ねどきを過ぎていた。二人は酒と先ほどの戦いで渇いた喉に白湯を流し込むと、むしろも敷かずに板の間に倒れこんだ。互いに思うところがあるようで、戦いの後、彼らは最低限のやり取りしか交わしていなかった。

 灯の無い部屋を、ゆっくりと風が通り抜けていく。生温い風に乗って聞こえてくる虫の声が、かえって二人の沈黙を際立たせた。

 彼らは互いに話を切り出す機を伺っていたが、とうとう沈黙に耐え切れなくなった張龍が先に口を開いた。


「黒羊、お前は……武術家なんだよな?」

「ああ、そうだよ」

「さっき君が発した気配が、正直に言えば恐ろしかった。だから俺がお前を直接見ないようにしてくれたのだとは思うが……初めて酒場で出会った時もそうだったが、お前の力は武力というよりは暴力に近い、そんな気がするんだ」


 張龍の黒羊に対する親愛の情は、早くも疑念に変わりかけていた。黒羊の持つ殺気は、何か後ろ暗い背景から来るものではないか。返答次第では、明朝彼を再び屯所に連行することになるかも知らぬ。


「……兄ちゃんがそう思ったんなら、それでいいんじゃない? オレは自分の力がどう呼ばれるかなんて気にしない。強けりゃいいんだ。むしろ、強くないと困るんだよ」

「それは、何故だ?」

「昔、色々あったんだよ」


 強くないと困る。張龍にはその言葉が、他人事のようには聞こえなかった。


「なあ兄ちゃん、オレからも一つ聞きたいんだけどさ、どうしてさっき、刀を抜かなかったんだ? 初めて会った時も、刀を持つ手が震えてたしさ。いくら一星にしても腑抜けが過ぎるよ」

「……俺は、人を死なせてしまうのが怖いんだ。人は刀で斬られれば簡単に死んでしまう。気だってそうだ、たとえただの拳でも、気を込めたら凄まじい威力になる。当たり所が悪ければ命の保証はない……怖いんだよ」


 彼の恐怖心は非常に根強いものであった。木剣を用いた訓練においては、彼の成績は非常に優秀で、気に関する鍛錬は今でも毎日怠らず続けている。

 だがいざ実際の任務に出すと最初は刀を抜くことさえ出来ず、すぐに危険な任務からは外された。気の扱いに至っては論外と言ってもよいくらいで、どれだけ正しい手順を踏んで気を練ろうとも少しの手応えも得られなかった。


「黒羊、お前はどうやってこの恐れを克服したんだ? どうか教えてくれないか?」

「そうだな……兄ちゃんは自分の腕に蚊が止まったら、迷わず叩き潰すだろ? けど、これが赤ん坊の腕だと話が変わってくる。赤ん坊には虫を殺すなんて発想が無いから、腕に止まった蚊を優しく掴む。するとさ、蚊は中途半端に潰れるんだよ。脚は折れるし、羽は捥げて飛ぶことさえ出来ないしで、蚊の方からすればそっちの方が苦しいだろ?」

「……それは、どういう意味だ?」

「殺せない相手を生かすことなんて出来ない。このままじゃいつか、人を殺す羽目になるよ」




 気づいた時には、既に朝日が昇り始めていた。いつの間にか、二人は寝てしまっていたようだ。


「……ん」


 腕にわずかな違和感。ふと見てみると、一匹の蚊が張龍の腕に止まっていた。昨夜の記憶が蘇ってくる。蚊が人間から少しずつ血を盗んで飲むように、そしてその過程で伝染病をばら撒くように、利益を得るためなら平気で社会に毒を流し込む者たちがいる。彼らを斬る覚悟を持たなければならないのだろうか。

 蚊を叩き潰す。だが、既に刺されてしまったらしい。手を退けると、小さな血だまりが出来ていた。

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