祝杯

「おい、ヤバいって……」

「誰か止めろよ、あいつを!」


 先ほどまでの喧騒はどこへやら、酒場の空気はもはや凍り付いていた。用心棒に派手に投げ飛ばされた髭面は、そのまま戦意を喪失したと思いきや、むしろ逆上。張龍と言葉を交わす用心棒の背後から再び襲い掛かったのだ。

 懲りる様子の無い髭面に対して用心棒は、完膚なきまでに叩きのめすことを選択した。そしてそこからは弱い者いじめと言っても良かった。彼はあっさりと髭面を組み敷くと、その骨ばった顔面目掛けて拳を振り下ろし続けた。

 一方、張龍は焦点の合っていない髭面の目を見てようやく決心がついた。


「その辺にしておけ。それ以上やるなら容赦はしないぞ」


 刀を抜き放ち、用心棒の首に突き付ける。例え恩人でも、見過ごすことは出来ない。


「兄ちゃんって、もしかして大鷲? 手が震えてるけど、大丈夫? もしこのままオレが暴れたとして、オレを斬れる?」

「大人しくお縄についてくれれば、何もしないさ」

「ふーん。ところでさ、用心棒をクビになったら口に糊が出来ないんだけど、やっぱり見逃してもらえない?」

「拘留中は不味いが飯は出る。それに鉤爪は今忙しいから、二晩もすれば出られる。その後については、あなたが釈放されたら私的にではあるがこの度の恩を返そうと思う。これで手打ちにしないか?」

「いいよ。人に刃物向けるの辛そうだし、捕まってやるよ」




 かくして張龍は奇妙な逮捕劇の後、髭面と用心棒を鉤爪の屯所に連れ帰った。実を言えば一星イーシン、つまり新米の彼にとっては、自分一人での犯人逮捕は初めてのことであった。


「張龍、ただいま戻りました」

「おお小龍シャオロン! お手柄だったな!」


 二人分、拘留の手続きを済ませた張龍は、ようやく大鷲の控室に戻った。それを一人の男が嬉しそうに出迎えた。名を李飛リーフェイ、字をシャン。張龍の教育係を務める二星リャンクゥシンである。そして何より、若手ながら江城の屯所で最も多く犯罪者を逮捕している気鋭の大鷲だ。


「はい、フェイ大哥あにき! お手柄……とは言っても、俺は何もしてないようなものですけどね」

「悪人を自らの手で叩き伏せることに意味があるんじゃない。法に則り、職務を全うすることが真に意味あることで、大鷲の使命だ。使命を果たしたことを誇れ、小龍」

「……! はい!」

「さて、俺としてもお前の手柄を祝ってやりたいんだが、今晩空いてるか? 楊おばさんの店で一杯どうだ?」

「喜んで、ご一緒します」




 この日の任務を終え、屯所を出た張龍と李飛は面食らった。まだ夏至も来ていないというのに、酉時とりどきを回ってもなお、照り付ける太陽が完全には沈みきっていないのだ。幼い頃からこの街で暮らしてきた張龍と李飛にとって、夏の夕暮れとは夕立が止んで涼しい時間帯のことであった。それゆえ、今年の昼も夜も無いような暑さには違和感ばかりを覚えていた。

 しかし、赤子を背負いながら市場に向かう女たちや、屋台や酒場に群がる船乗りを見ると、大鷲という立場も忘れて懐かしいと感じるのだった。そして願わくば、この風景がいついつまでも残り続ける泰平な世であってほしい、とも。


「おばさん、久しぶり!」

「おや、小龍に小飛じゃないか。いらっしゃい」


 柿色の暖簾をくぐると、よく知った顔が二人を出迎えた。皆が親しみを込めて『楊おばさん』と呼ぶその老婆は、もちろん二人にとっても幼い頃から世話になってきた相手だ。この酒場の心優しい店主に、今でも江城の子供たちの大半が懐いている。


「聞いてくれよおばさん、小龍が今日、初めて一人で犯罪者を捕まえたんだ!」

「あらまあ! それは本当かい?」

「飛の大哥が嘘なんかつかないさ。まあ、『一人で』ってのも語弊があるけど」

「とにかく話を詳しく聞かせておくれ。一生覚えておくから」

「その前に、やるべきことがあるだろ?」

「ああそうだね。ちょうど、良いヤツが入ってるんだよ。ほら、安くしとくから沢山飲みな!」

「それでは俺から……小龍の出世を願って、乾杯!」

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