倫書官吏列伝 張龍伝

鮎川剛

獅子

 大江ダーチアン以南に雨が降らないのは、実に三十年ぶりのことであった。

 まるで焦げ付くような日照りが続き、街の酒場は昼間からごった返した。ただでさえ酒の美味い季節である。江城チアンチェンの路上は酔客で溢れていた。酒絡みの犯罪が急増し、悪化した治安は役人、特に大鷲ダイインたちを悩ませた。ここは江城。天下第六の隆盛を誇る、水の都である。

 この寂れた酒場にも一人、猛暑の中の任務に疲れ果てた大鷲が一人。名を張龍チャンロンあざな伯府ボーフ。勤務中ゆえ酒は飲まないが、その代わりとばかりに冷たい茶を五杯も頼んで火照った体を休めていた。


「はぁ……何でこんなに暑いんだよ? せめて酒が飲めればな…………」


 ため息交じりにぼやく彼の周囲では、船乗りらしき男たちが馬鹿騒ぎをやっている。倫国有数の大河、大江のほとりに位置し、倫国南部における水上交通の要である江城には、全国から船乗りや商人が集う。大鷲にとってはこの船乗りたちが厄介である。もとより乱暴な者が多く、そこに加えてこの暑さで酒をたらふく飲むと来た。今年の江城は酔っ払いの見本市とでも言うべき有様で、屯所の大鷲たちが一日に捕まえた暴行犯、窃盗犯の半分が船乗りだった日もあるほどだ。

 張龍は歌い踊る船乗りたちの顔を近くにいる者から順番に見渡した。もめ事を起こしはしないかという警戒が半分、白昼堂々酒が飲めることへの羨望が半分。休んでいる心地はしなかった。張龍がこの日何度目か分からぬため息をこぼしかけた時──


「おい、そこのわけェの。さっきから何ジロジロ見てんだよ?」


 張龍はしまった、と心の中で呟いた。船乗りの集団の一人、髭面の男と目が合ってしまった。出来れば穏便に切り抜けたいが、これ以上刺激しないようにはどうすれば良いだろうか。考えている間にも、髭面はこちらに向かってくる。日々の労働の賜物か、髭面の体格は張龍の倍近い。張龍とて仮にも大鷲。決して小男ではないのだが、素手では分が悪いと思われた。腰の物を抜くのもやむなしか。ゆっくりと席を立ち、髭面の方へ向き直る。


「お! やるか若ェの!」

「やっちまえ!」


 対峙する二人を見て、周りの客が野次を飛ばす。


「さっき俺のこと睨みやがったよな、ああ? 何か文句あるのか!」

「勘違いだ。機嫌を直せ、怒りながら飲む酒は不味いだろう」

「何だその口の利き方はよお、大鷲ごっこか? だったら酒場なんかにいねえで見回りでもして来いよ、暇人のガキが!」


 怒号と共に、髭面が拳を振りかぶった。身構える張龍。殴ってくる腕を取り、取り押さえる算段だったが、その目論見は外れる。腕を振り上げたまま、髭面がその場から動かないのだ。よく見ると、髭面は背後から何者かに手首を掴まれている。張龍は髭面の巨体の向こう側に、獅子のような鋭い眼光を見た。


「……なあお客さん。楽しく飲んでるところ悪いんだけどさ、あんま暴れないでくんんない? オレは別に良いんだけど、この店の親父が喧嘩とか嫌いなんでね」

「ぐ、離せこの野郎っ! 誰なんだよ横から!」

「用心棒だよ。お客さんみたいな迷惑な野郎をつまみ出すのがオレのお仕事。ちなみに言うと、一本向こうの通りにヤンさんの店、あるだろ? そこでも雇われてるから、暴れる店には気を付けなよ。じゃ」


 用心棒を名乗る男がそう言うが早いか、髭面の体は一瞬宙を舞い、近くの壁に叩き付けられた。用心棒が投げ飛ばしたのだ。それは力任せなようでいて、流れるような美しい動きだった。髭面はその場に崩れ落ち、呆然と足元を見下ろしている。


「悪かったな、兄ちゃん。お詫びに茶代はオレが出してやるからさ、この顔に免じてそこのお客さんは許してやってよ」


 用心棒は飄々として張龍に陳謝した。突然の出来事に混乱しつつも、張龍は言葉を絞り出した。


「いや……うん、ありがとう。だが代金は自分で──おい、後ろ!」

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