「もう遅い」と言うのなら

南伴沖持

第1話

 繁華街から少し離れた住宅街を俺は一人で家に向かって歩いていた。クリスマスと言えどすっかり夜も更けているせいか、この辺りは静かである。聞こえてくるものと言えば自分の足音と、たった今遠くから鳴り出した消防車らしきサイレンの音くらいである。こんな時間にも仕事とはご苦労な事だ。

 道を曲がると冷たい向い風が刺すように吹いている。思わず顔を顰しかめる。ここから暫く曲がる予定が無いのだ。家のストーブの灯油はまだ残っていただろうか。俺は先程まではほとんど感じていなかった寒さを忘れるために今までの事を思い出す。


 俺こと下道したみちケンには幼稚園の頃から二人の幼馴染がいた。特に家が近所という訳でもないが、親同士の仲がいいとかで一緒にいることが多かった。

 一人は鷹司綾たかつかさあや。小柄で大人しく、いつもオドオドとした女。くりくりとした目とツヤのある黒髪が特徴で、昔からご近所でも可愛らしいと評判だった。そのせいか小学校の頃は同級生にからかわれる事も多く、よく俺が守ってやっていた。

 もう一人は車坂楽人くるまざかがくとという至って普通の冴えない男。勉強もスポーツも大して得意ということも無く、容姿も普通。ただ、身長だけは俺よりも高かった。

 楽人は正義感が強いのか、喧嘩が強い訳でもないのに男子にからかわれている綾を庇っては一方的にやられていた。そうして綾が泣きそうな顔で

「ケンちゃん!がっちゃんが……」

と言って俺に助けを求めてくることが度々あった。

 そんなこともあって俺は楽人と綾の親から頼りにされていたし、どこへ行くにも二人は俺の後ろにくっついていた。こいつらは弱いから俺がついていなければと、信じて疑わなかった。


 いつからだろうか。俺が楽人に劣等感を持ち始めたのは。


 原因はいつまで経っても追い抜くどころか追いつくことすら出来ない身長差だけでは無いのだろう。俺にはない何か、得体の知れないものを楽人は持っている。その正体にたどり着けない自分が腹立たしい。俺より6cmほど高い楽人の目線が俺を見下ろす度に、腹の底から何か耐え難いものが込み上げてくるようになった。

 中学校時代はそんな劣等感から逃れるために勉強と部活に精を出した。当然そちらに時間が割かれるため、楽人と会う機会は減っていったが、綾とだけは楽人がいない時を見計らって会うようにしていた。

 高校受験で俺は敢えて二人と同じ学校を受験した。いい加減この劣等感を克服しなければならないと思ったからだ。ここで逃げてしまえば一生俺は楽人に負けたままになってしまう。

 そこで俺が考えたのは、劣等感を優越感で塗り潰すというものだ。楽人の何に対して劣等感を抱いているのかが分からない以上、それを取り除くことは不可能だ。ならば劣等感など気にならない程の優越感を持てばいい。

 だから俺は卒業式の日に綾に告白した。楽人が綾に恋心を抱いていることに気づいていたからだ。しかし打算で告白したとはいえ、モジモジと嬉しそうにしながら、

「うん……私もケンちゃんが……好き」

と返す姿には見とれてしまった。自分でも気がついていなかったが、俺は思っていた以上に綾のことが好きだったらしい。告白が済んだ後から恥ずかしさがやってきた。

 その後直ぐに付き合うことになったと楽人に伝えに行った。

「よう!楽人」

「あれ?ケンちゃん。どこ行ってたの?いなくなってたから探したよ。ていうか、綾は?」

視線で綾を探す楽人に少し気不味そうにしながら答える。

「いやぁ、その事なんだけどさ。……俺たち付き合うことになったんだよね」

この瞬間のいろんな感情が混ざりあった楽人の表情は絵にも筆にも書けないものだった。

「えっあっ……そ、そうなんだ。へぇ、おっおめでとう……」

「うん。だからさ、俺たち一緒に帰るからお前は先帰っててよ」

「うん……うん。わかったよ。お幸せにね……」

そういうと楽人はどこを見ているのか分からない目をして一人で去っていった。

 正直笑いを堪えるのに必死だった。久しく楽人に対して抱くことのなかった優越感が全身を駆け巡る。こんなに心も足取りも軽いのは、きっと告白が成功したからでは無いのだろう。


 それからは楽人は俺たちと距離を置くようになった。気不味いのだろう。きっと孤独な思いに打ちひしがれているのに違いない。そう思っていた。

 夏休みの直前になると楽人は新たな友達グループと楽しそうに連んでいた。その光景を目にした時に、ふと塗り潰したはずの劣等感が再び首をもたげてきた。

 またあの惨めな思いをしなければいけないのか!嫌だ!どうすればずっとアイツより上でいられるんだ!

 そんな心持ちのまま夏休みに入った。綾から何かあったのかと心配されたが打ち明けることなどできるはずもない。

 八月も終わりに近づいた頃、近所の神社で夏祭りがあった。毎年三人で行った祭りだが今回は綾と二人で行く約束をしていた。ところが俺が夏風邪を引いてしまい行けなくなった。綾は祭りに行かずに看病すると言ったが、

「移るだろ。他の友達でも誘って行ってこいよ」

と断った。今思えばこの時既に予感めいたものがあったのかもしれない。

 看病の申し出は断ったものの、祭りの次の日からは結局看病されてしまっていた。

「そういえば、昨日の祭りはどうだった?誰か都合のついた友達はいたのか?」

俺は何の気なしに聞いた。

「ううん、みんな他に用事があったみたい。だから一人で行ったの」

「そうか……。せっかく浴衣着てくれたのに、すまんな」

「いいよ、浴衣ぐらい毎年着てたし。それに……見たければまた着てあげるから」

「でも、寂しい思いさせたな。一人で夏祭りとか」

俺が申し訳なさそうに言うと綾が思い出したかのように答えた。

「あっでも、途中でがっちゃんに会ったよ。向こうも一人で来てたみたい。一緒に回る?って聞いたんだけど断られちゃった」

綾はそこまで言うとハッとして、

「ああごめん!えっと私ケンちゃんと付き合ってるのに無神経だったよね。でも浮気とかそういうのじゃないから!」

と慌てて言い出した。

 その時俺の頭の中に一つのアイデアが舞い降りた。つい出かかった「気にしてない」という言葉を飲み込んで、

「ふーん、彼氏が寝込んでる時に他の男と夏祭り。ふーん」

と少しわざとらしいく拗ね半分冗談半分で答える。

「ああもうごめん!まだ去年までの感覚が抜けてなくて、気を付けるから!」

怒りださなかった安堵しつつも、必死にご機嫌をとり出す綾に俺は付きっきりの看病を要求した。綾は多少の後ろめたさから要求を飲んだ。

 咄嗟の思いつきだが上手くいった。思惑通りに事が進むかどうかは正直運だが、上手く行けば格段にこの後の行動が取りやすくなる。

 俺は楽人の上を取ることばかり考えていたが、方法はそれだけではない。寧ろ俺が上がるよりもアイツを下げさせる方がお手軽で効果も高いだろう。俺は綾の看病を受けながらこの後の計画に使えそうな同級生を選んでいた。

 夏休みも終わり、新学期が始まった。綾は俺の看病が祟って見事に夏風邪が移っていた。狙い通りだ。俺はできるだけ噂好きな、インフルエンサーの役割を果たしてくれそうな何人かの友達に夏祭りのことを脚色して、誤解されるかもしれないように、さも悩んでいるかのように相談した。あとは待つだけだ。誤解を訂正できる綾が休む一週間の間にどれだけ噂が広まるかが勝負だ。

 結果、風邪を治した綾が登校を再開する頃には、俺の目論見通りに誤解された噂が学年中に知れ渡たった。どうやら「車坂楽人という男子生徒が夏祭りに来ていた鷹司綾に彼氏が来ていないこと見計らって言い寄った」ということになっているらしい。当然楽人は避けられるようになった。アイツは学校での居場所を無くしたのだった。

 実に胸がすくような気持ちだった。これで俺はまた自信を持って生きることができる。もはや劣等感など欠片ほども感じない。周囲の様子を訝しんだ綾が何やら聞いてきたが知らぬ存ぜぬで通した。

 それ以降、俺は何とも晴れやかな気持ちで学園生活を過ごしていた。迂闊だった。完全にアフターケアを怠ってしまった。


 十二月に入って少ししたある日の昼休み、いじめをしていたらしい生徒が職員室に呼び出された。楽人に対するいじめではない。綾に対するいじめだ。  

 どうやら綾のことが気に食わない一部の女子が「綾が楽人を誘惑した」と噂を曲解し、それを理由に綾をいじめていたそうだ。全くの初耳だった。今思えば綾と接する機会が減っていたような気がする。何よりも意味がわからないのが、そのいじめの証拠は綾と楽人の二人によって集められたものだということだ。本当に弱っている時に綾は俺ではなくアイツに助けを求めたのか。

 その日の放課後に俺は綾に呼び出された。かつて三人でよく遊んだ公園だ。今となってはほとんどの遊具が撤去されてしまい、タコを模した滑り台だけが夕方の地面に影を作っていた。その滑り台のすぐ側に綾と、楽人がいた。

 綾が口を開く。

「噂を流したのって、ケンちゃんでしょ。」

「は?何をいって……」

「とぼけないで!いじめの証拠を集める時に噂の出処も辿ったの。ケンちゃんが最初に人に話した時から間違った噂だったことはわかってるんだよ?」

いつもオドオドとしている綾に食い気味に捲し立てられて瞠目する。しかし、こちらも黙っている訳にはいかない。

「そ、そっちこそ、なんでいじめられてること教えてくれなかったんだよ!しかも俺じゃなく楽人に相談なんか……」

「ケンちゃんも噂に同調してがっちゃんのこと悪く言ってたでしょ!私聞いてたよ!」

俺の反撃に怯むことなく答えを返してきた綾についに何も言えなくなる。こいつ、こんな女だったのか?

「幾らでも誤解を訂正できたはずのケンちゃんが楽しそうにがっちゃんの悪口言ってて、私訳分からなくなって、そしたら私もいじめられるし……。」

いじめられた時のことを思い出したのか、泣きそうな顔で俯く綾。すると隣にいた楽人がそっと綾の肩に手を置いた。

「でも、がっちゃんが私の異変に気づいてくれて、それで相談に乗ってもらったの。ねぇ、なんでケンちゃんは気づいてくれなかったの?」

何だこれは。

「なんで私が風邪引いた時、来てくれなかったの?」

どうしてこうなった?

「私、あんなに頑張ってケンちゃんのことお世話したのに、どうしてお見舞いにも来てくれなかったの?すっごく……心細かったんだよ?」

この喉の奥から滲み出てくる苦いものは何だ!

「がっちゃんだけだよ?辛い時に私に気づいてくれたの。」

 そうして何か覚悟を決めたような様子で彼女は言い放った。

「私たち、もうおしまいだね……」

「えっ、いやそれは」

「私のことを大事にしてくれない人とは一緒にいられないよ……」

「いや、ちょっと待ってくれ」

慌てる俺に綾は呆れた様子で指摘する。

「だってこんなに言ってるのに、ケンちゃん謝ってくれてないよ?私にもがっちゃんにも」

俺は心の中で暴れ回るプライドや羞恥心を必死に抑えて頭を下げた。

「ごめん!悪かった!つい出来心というか、嫉妬というかその……。今後こういうことが無いように改めるから。か、考え直してくれ!」

頼み込むような謝罪。告白の時よりもよっぽど動悸が激しい。

「もう遅いよ」

綾は静かにそう言うと公園を出ていった。追いかけることも出来ずに固まっていると、今度はずっと黙っていた楽人が口を開いた。

「僕、二人が付き合うって聞いた時ショックだったけど、それでも綾が幸せになれるならそれでいいと思ってたんだよ。……でもそうならなかった。綾をあんな気持ちにさせたケンちゃんを僕は許せないよ……」

それだけ言って楽人は綾の後を追いかけていった。

 後に残ったのは俺一人。またか。また俺はアイツの下なのか。消滅したと思い込んでいた劣等感がまた俺の心を塗り潰す。世界の全てが黒い靄に覆われているような錯覚さえしてくる。その日はどうやって帰ったのか覚えていない。


 久しぶりの交差点を右に曲がり、漸く向い風から解放される。忌々しい記憶から意識を浮上させて溜息を一つ。白い息が夜闇に溶けて消える。手を擦り合わせて摩擦熱を起こす。手袋は使い物にならなくなって、ついさっき捨ててきたのだ。

 あの後、結局アイツらは付き合い始めたらしい。一方俺は真実が広まってしまって孤独になった。俺はもう一生楽人に勝てないだろう。

 あれ以来アイツらの言葉が頭を離れない。

「もう遅いよ」

ああ、何もかもがもう遅い。取り返しなどつくものか。

「許せないよ……」

ああ、そうだろうとも。きっと死ぬまでお前らは俺を許さないだろう。

 だから俺も許さない。お前たちだけが幸福になる事を俺は許さない。どうやっても勝てない、劣等感が拭えないというのなら、俺の負けでいい。ただ、お前たちの勝ちも許容しない。

 今夜はクリスマスだ。綾の両親は旅行に行っているらしい。この絶好の性の6時間にアイツらのとる行動など決まっている。実際に深夜0時を過ぎても、二階にある綾の部屋だけはカーテンから光が漏れていた。

 窓ガラスにガムテープを貼り付け音を立てないように慎重に割って中に入った。練習など出来なかったが上手くいってよかった。お楽しみ中のアイツらに気づかれないように出入口になる場所に念入りにガソリンを撒いてきた。

 よかったな、楽人。これで綾は永遠にお前のものだ。精々最期まで愛し合うんだな。そう言えばアイツら火に気が付いたらどうするんだろうか。まず服とか着るのだろうか?想像したら可笑しくなって思わず吹き出してしまった。

 相変わらず劣等感は残ったままだけれど、どこか今までにない納得感を噛み締めながら俺は家に帰った。

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