第15話

「今度無茶しやがったらベッドに括り付けるからな。ちっとは自分の体を大事にしやがれ」


 再び病院送りとなった龍太が、クローディアから言われたのがそれだった。いやはや全く、ぐうの音も出ないとはこのことか。


 幸いにして、今回は入院するほどでもなく、クローディアが簡単に処置をして夜に解放された。因みに、あのおばあちゃんも無事のようだ。龍太と違って重傷には違いないが、命に別状はないとのこと。


 そして龍太とハクアは現在、ノウム連邦の魔導師ギルド、紅蓮の戦斧フレイムウォーへと向かっていた。


 人間のドラゴン化。歴史上類を見ないこの事件について、龍太たちからも事情を聞きたいとのことだ。


「本当にもう大丈夫なの? ホウライをこっちに来させた方がいいんじゃないかしら?」

「大丈夫だって、ハクアは心配しすぎだ」

「心配するわよ。人を助けるのはいいのだけれど、あなた自身のことも大切にして」


 少し怒ったように言われて、龍太は悪い悪いと苦笑する。笑い事じゃないのかもしれないが、ハクアの怒った顔が可愛いので仕方ない。


 さて、そんな二人は現在、ジンの家から少し離れた位置。大通りに面した大きな建物の前に立っていた。扉の上にはデカデカと、二匹の龍と二本の斧の紋章と共に、ギルドの名前が掲げられている。


 ここが、世界に五人しかいない龍の巫女が率いる魔導師ギルド、そのひとつ。

 紅蓮の戦斧フレイムウォー


 物怖じせず中に入るハクアに続いて、龍太も足を踏み入れる。中では三十人ほどの魔導師たちが、老若男女問わず集まっていた。恐らくは人間とドラゴンで半々くらいなのだろう。そんな彼らは、各々テーブルに集まって酒を飲んだり、仕事の相談をしていたり。

 随分と自由奔放に過ごしている。


 その中を堂々と歩くハクア。余所者の二人は自然と注目を集めてしまう。肩が縮こまりそうになるが、ハクアの前で情けない姿は見せたくない。その一心で、必死に強がりながら胸を張って歩く。


 奥にあるカウンターの前に辿り着くと、その向こうに立っているお姉さんに向けて、ハクアら遠慮なしに問いかけた。


「ホウライに呼ばれて来たのだけれど、上にいるかしら?」

「えっと、どのようなご用向きですか?」

「昼間の、人間がドラゴン化した件について。あれの対処をしたのがわたしたちだから、話が聞きたいんだって」


 と、見知らぬ者に言われても信用できないのか、お姉さんは困ったように笑みを浮かべているだけだ。呼んだくせに話を通していないのはどうかと思う。


 せめてジンがいてくれれば、と思った矢先。ギルドの入り口から鎧を着た巨漢の男と、キャスケット帽をかぶった小柄な少女がやってきた。


「おお、二人とも! よかった、無事だったか!」

「また病院送りになったって言ってましたし、それは無事とは言えないのでは?」


 大袈裟に喜ぶジンと突っ込むヒスイ。その頭上を、エルも飛んでいる。

 丁度いいタイミングで来てくれた。


「ジン、クローディアさんに呼ばれてきたんだけど、お前らもか?」

「うむ、クローディア様からギルドに来るよう通達があってな。事情は聞いている、すまなかった、俺が仕事を頼んだばかりに」

「ジンは悪くないわ。全部スペリオルのせいなんだから」


 たしかに、あまりにも不自然なタイミングだったとは言え、ジンが悪いわけではない。彼が龍太とハクアに仕事を頼んだのは、二人を思ってのことだ。


「そう言ってくれると助かる。では、クローディア様の元へ向かおう」


 ジンの先導で、ギルドの二階に上がる。その中の一室にノックすると、中からひとりの男性が。ジンや下の魔導師のように武装しているわけではなく、カウンターの向こうにいた職員たちと同じ執務服を着ている。チラホラと白髪も目立つ、柔和な顔立ちの男性。


「おや、ジン。もう来たのかい。それに君は、シャングリラのところのヒスイくんだったね」

「お久しぶりです、マスター・オーランド」

「マスター、この二人が件のアカギリュウタと白龍ハクアです」

「ほう、この二人が」


 見定めるような視線を向けられ、軽く会釈だけする。優しげな顔をしているが、その視線の奥には鋭いものを感じた。

 恐らく、一線を退いた元魔導師、といったところか。


「リュウタ、ハクア、この方がギルドマスターのオーランド様だ」

「クローディアさんがトップじゃないのか?」

「ギルドは基本的に、巫女とそのパートナーで運営している。巫女はどうしても手を離せない仕事も存在しているからな」


 ここで言うパートナーとは、人間とドラゴンの間にあるものとは違う、一般的なパートナーという意味だろう。そもそも巫女は人間なのだし。


「来てもらって申し訳ないんだが、クローディアは少し立て込んでいてね。もうそろそろ終わると思うから、中に入っているといいよ」


 中に招かれると、そこには執務机に座るクローディアと、ホログラムのようなものに映された男の後ろ姿が。


 男は特徴的な姿をしていた。服装はなんらおかしなところはない、普通にシャツとジーンズという出立ちだ。この世界でも龍太の世界でも、ありふれたファッション。

 ただし、右腕がない。肩から先がバッサリと、失われている。


 その姿に驚愕から息を呑んでいると、クローディアがこちらに気がついた。


「丁度いいところに来たな。アオイ、こいつが例の異世界人だ」


 ホログラムが180度回転し、男が振り返る。失われているのは右腕だけではない。右目にも眼帯がしてある。

 だが顔立ちは日本人のもの。つまり、龍太と同じ異世界人。


『君が噂の赤城龍太だね。初めまして、僕は小鳥遊蒼。君と同じ、日本出身の異世界人だ。ハクアは久しぶりだね』

「変わらないようでなによりだわ、アオイ」


 小鳥遊蒼。

 村長が頼ればいいと言っていた、魔人と呼ばれる人間。龍の巫女の一人、アリス・ニライカナイのパートナー。

 そして、これから向かうドラグニアで待っている人物だ。


「今、こいつに昼間の事件について話してたところだ。生憎と、分かったことはなにもなかったけどな」

『人間のドラゴン化なんてのは、僕も聞いたことがないからね。魂レベルにまで変質をきたしてるんだ、正直完全なブラックボックスだよ。そこで、実際に対峙した君たちからも話を聞きたい』

「つっても……俺たちにだってなにがなにやらで……」

「スペリオルの仕業、ということは間違いないのだけれど。具体的な手段は全くの不明だわ」


 そもそも龍太は、魔導のことについて詳しく知っているわけではない。その道のプロ、専門家が顔を突き合わせても分からないのだから、素人の龍太に分かることなんてゼロだろう。


 だからこれは、今現在の段階でわかっていることの確認。


「スペリオルは、なんでか知らねえけど俺を狙ってる。そして俺とハクアがあの足湯屋に向かったタイミングに合わせて、ばあちゃんがドラゴンになった。偶然ってわけがない」

「ええ、最悪の場合、ギルド内にスパイが紛れ込んでいる可能性もあるわ」

『だってさ、クローディア』

「オレとしちゃ否定したいところだがな。原則、ギルド所属の魔導師は巫女に逆らえねえ。魔導的な縛りを用いているわけじゃねえが、待ってるのは重い罰だけだ。それが分かってて敵に寝返る奴はいねえだろ」

『うん、だからこの件に関して、クローディアからはあまり掘り下げないでもいい。それよりも、龍太は僕に聞きたいことがあるんだろう? そのためにドラグニアを目指してるって聞いてるよ』


 ああ、そうだ。

 この男に会って、幼馴染のことを聞くつもりだった。もしも分かるなら、その行方も。


 そして龍太は、もう何度目かも分からないが、この世界に来てからのことを詳らかに話した。

 幼馴染と共に突然黒い孔に飲み込まれ、異世界に転移し、ドラゴンに襲われて。助けられたハクアと誓約龍魂エンゲージを結んだ。世話になった村や旅の道中ではスペリオルの刺客に襲われて、更にはルーサーとかいう謎の仮面にまで命を狙われて。


「それで、あんたなら力になってくれるって聞いたんだ。俺の幼馴染二人の……玲二と詩音の行方が分かるかもって」

『なるほど……今すぐにってわけにはいかないかな。調査のためには時間が必要だしね』

「だったら……!」

『いや、あまり期待はしないでいてくれ。この世界から人間二人をピンポイントで見つけるってのは、僕でも結構難しい。それが生死不明だっていうなら、なおさらね』


 生死不明。龍太の頭の中にはあれど、考えないよう目を逸らしていたことだ。

 元の世界と比べて余程過酷なこの世界で、幼馴染二人が今も無事でいてくれている保証はない。龍太は運が良かった。ハクアと出会い、助けられたから。

 けれど、玲二と詩音の二人も、龍太のように誰かに助けられていたり、あるいは安全な場所にいるとは限らない。


『君たちがドラグニアに着くまでには、調査を終わらせておくよ。それからルーサーについてだけど、次に遭遇したら、絶対戦わないように』

「蒼さんは知ってるのか? あいつについて」

『多分だけど、僕の知り合いだよ。ただ、聞いた話だと候補が多すぎてね。強力な氷結能力とその口調だけなら良かったんだけど、仮面に刀、使った魔術なんかを鑑みると、複数人候補が浮かび上がる。直接対峙しないと絞りきれないかな』

「その言い草だと、やっぱりルーサーもリュータと同じ異世界人なのかしら?」


 頷きが返ってくる。

 北斗七星、龍太の世界の星を知っていた。この世界の住人なら知るはずもないことだ。だがハクア曰く、この世界にいる異世界人は蒼を除いてあと二人。その二人はペアで行動しているとのことだから、龍太がこの世界に来たのと前後して、ルーサーもこちらに転移して来たと考えられる。

 というよりも、龍太を追って来た、と言った方がいいのか。


『ルーサーについては、最後にもう一つ。もしも銀色の炎を使って来たら、注意してくれ。あれは僕でも対処できないものだ』

「銀色の炎?」

『時界制御。そう呼ばれる力を持っていてね。端的に言うと、時間を操る』


 時間を操る。言葉としては陳腐に聞こえるが、それがどれだけ凄いことか、魔導師の面々には伝わるのだろう。ハクアは隣で息を呑み、ジンは重く唸って蒼に疑問を投げた。


「一口に時間を操るとは言っても、色々あるだろう。停止や加速、あるいは遡行。そのうちの誰かは分からないのか?」

『その全部だと考えてもらって構わないよ。十年前ならいざ知らず、今となってはどれだけ進化しているのか、僕にも読めないからね』

「十年前?」

『ああ、ごめんごめん、こっちの話』


 気になる言葉だが、特に拘泥する必要もないだろう。


「ともあれ、ドラグニアを目指すことには変わりなさそうね。ルーサーやスペリオルの動きは気になるけれど、警戒しすぎていても身動きが取れなくなるのだし」

「だな。九日後列車に乗って、着くのはそれから五日後だっけ」

「うむ。列車のチケットは俺に任せておいてくれ。一番いい席を取っておこう」


 大陸縦断列車は、ここノウム連邦からドラグニア神聖王国まで、途中いくつかの国を跨いで運行されている。チケットの値段も、一番安いので庶民が普通に買えるレベルだ。


『それじゃあ、ドラグニアで君たちを待っているよ。それまでに色々調べておくから、期待していてくれ』


 そう言い残して、蒼の姿は消えた。

 少しずつ、真実に近づいている実感が湧いて来た。けれど同時に、分からないことも増えている。

 それら全てを今すぐに知りたいが、まずはドラグニアに向かうまでの残り一週間、怪我を治すことに専念しよう。



 ◆



 ノウム連邦の首都、コーラルに滞在する残りの九日間は、当初の予定通りジンの仕事を手伝うことになった。

 当然だが常にハクアと二人。しかしそこに、密着取材を許可してしまったヒスイも同行している。


 そして、出発まで残り五日となった今日。これまでと同じく配達を任されて、その帰り道。時刻は昼過ぎ、お茶をしてから帰ろうと言うことで、ヒスイがオススメという茶屋に立ち寄った。


「なあヒスイ、もう密着取材はよくないか? ここ数日、ずっと同じことしてるだけだし。面白いことはなにもないぞ?」

「いえいえ! あたしはこの前、二人が戦っているところを見逃しちゃいましたから! 目玉記事になるそこを見るまでは終わりませんよ!」

「リュータは戦闘行為を禁止されているのだけれど……」


 ハクアの言う通り、先日無理をして戦ったことで傷が開いた龍太は、クローディアから戦闘行為の一切を禁止されている。ジンに剣の稽古をつけてもらうなんて以ての外で、筋トレだってギリギリ許してくれたレベルだ。


 龍太としては、そろそろ大丈夫だと思うのだけど、こういうのは専門家の言うことに従った方がいい。体の不調なんてのは特にそうで、案外自分では気付かないものだ。


「そういえば、ヒスイってどんなドラゴンなんだ?」


 ふと気になったことを聞いてみる。例えばハクアは白龍、ホウライは炎龍、クレナは火砕龍と呼ばれているように、ドラゴンにはそれぞれ呼び名があるのだろう。

 もう一人の身近なドラゴンといえば、あとはヒスイだけだ。きっとヒスイにもそう言った呼び名があるのだろうと、そう思って聞いたのだが。


「あたしはそういうの、ないんですよ。あたし自身の名前はヒスイですけど、ドラゴンとしての個体名は持ってないんです」

「そもそも、ああいうのは龍神直属の眷属か、それ以外の強力なドラゴンしか持っていないものよ。わたしの場合は長生きだからってだけなのだけれど」

「またまたぁ、白龍様は龍神に匹敵するお力を持ってるじゃないですか」

「勘違いだといつも言ってるのだけれど……どの道、今は全部封印されているのだから、リュータがいてくれないと無力なままよ」


 何度も同じようなことを言われては否定しているハクアだが、最近は単なる謙遜にしか聞こえなくなってきた。

 先日の、ドラゴン化の騒動の際にも、彼女は最初、たった一人でドラゴンに立ち向かっていた。結果として龍太の手助けもあり、バハムートセイバーに変身したとはいえ。その身体能力と長い生の中で培った経験値は、恐るべきものと言えるだろう。


 なにより、ハクアが持つ魔導とは別の力。龍具であるライフルに込められた『変革』の力は、とても強力なものだ。

 なにせその力のおかげで、龍太はバハムートセイバーとして戦えている。


「実際のところ、どうなんだ? ハクアは自分のこと長生きなだけって言うけど、それにだって相応の理由があるはずだしさ」


 まさか今更、龍太からもそのことを聞かれるとは思わなかったのか。ハクアは一瞬だけキョトンとした顔になって、すぐに苦笑を浮かべた。


「運が良かったのと、周りの人たちに恵まれただけよ。龍神たちは仲良くしてくれたし、センやアオイたちも力になってくれたもの」


 嘘は言っていないのだろう。ただ、全てを話しているわけでもない。なんとなくそんな気がする。

 それが、ヒスイがいるから話せないことなのか。あるいは、龍太にも言いたくないことなのかは分からないけど。


 話してくれないということに、どうしようもなく寂しさを覚えた。


「ところでヒスイ。密着取材は許可したけれど、それ相応の見返りは用意してるのよね?」

「勿論です!」


 話が変わってしまったため、これ以上追及することもできない。いつか、ハクアから話してくれる時を待つしかない。

 無理に聞き出そうとして、嫌われるのが怖いから。


 ハクアから密着取材の見返りを要求されたヒスイは、元気よく返事をしてポケットの中を弄っている。

 その中から取り出したのは、二枚の紙切れだ。


「癒しの都と呼ばれるコーラルでも、特に有名な温泉旅館のペアチケットがありまして。こちらをお二人に差し上げます!」

「温泉……マジか……」

「でもわたしたち、十メートル以上は離れられないから、混浴でもない限り入れないわよ?」

「安心してください、部屋の中に露天風呂があるんです! 完全プライベート、混浴も同然ですから、一緒に入れますよ!」

「やったわねリュータ」

「マジかぁ……」


 セリフの最後に音符マークでもついてそうなほどご機嫌なハクア。一方龍太は、危惧していたことがついに起きてしまいそうで、複雑な心境に陥る。

 マジかこれ、大丈夫なのか俺。



 ◆



 と、いうわけで。

 本当に来てしまった。

 どこにって、温泉に。


「いい部屋ね、リュータ。見て、お風呂から外の景色が見渡せるわ、絶景よ」

「そうですね……」


 ヒスイにチケットをもらった翌日。コーラルの街の南側、旅館が多くひしめく中でも、割と高級な旅館に二人はやって来た。

 部屋は畳で、完全に日本の温泉旅館と変わりがない。窓の外にある露天風呂に出て、ハクアは少しはしゃいだ声を漏らす。


 たしかに絶景だ。ノウム連邦の首都コーラルは四方を山に囲まれていて、ここからは雪で白く染まった山が見下ろせる。今はまだ昼間だから、空の青と相まってなかなか見事な色彩が視界に飛び込んでくる。


 が、しかし。そんな絶景を楽しむ余裕が、今の龍太にはない。


「なあ、この距離なら十メートルも離れてないし、一人ずつ入ればよくね?」

「ダメよ、今日までの労いも込めて、背中を流してあげるのだから」


 微笑みながら言われてしまえば、反論は全て取り上げられてしまう。


 まあ、よくよく考えてみれば。エンゲージとは元々、龍と人間が結婚するときに執り行う儀式だという話だし。旅館の人たちの視線もなんかそんな感じだったし。これからハクアと一緒に露天風呂に入るのは、なんらおかしなことではないんじゃなかろうか?


 いや、おかしいよ。なにをどう考えたところでアウトだよ、これ。

 だってそもそも、龍太とハクアは結婚したわけではないから、つまり夫婦なんかじゃないし。恋人というわけでもない。じゃあなんなんだと聞かれると答えに困るが、一緒に風呂に入るような仲じゃないはず。多分。


 一番の問題点は、ハクアがその辺りの羞恥心とかを旅のどこかで捨てて来てしまったことだ。自分が美少女だということを自覚してもらいたい。


「つーか、ハクアは恥ずかしくないのかよ……男と二人で風呂とかさ……」

「恥ずかしくないわよ? だってドラゴンって、そもそも服を着るという文化がないもの」


 言われてみれば、たしかに。これまで出会ったドラゴンは、飼い犬や飼い猫のように服を着ていたわけではない。そりゃ人間の姿をしている時は服を着ているけど、ドラゴンの姿に戻ってまで着る必要はないだろう。

 言ってしまえば、本来の姿に戻ったドラゴンはみんな全裸なのだ。


「さ、そういうわけだから、お風呂に入りましょうリュータ。ここの温泉は湯治でも有名だから、怪我の具合もよくなるわ」

「もう好きにしてくれ……」


 龍太は諦めた。こんなことならエルも連れてくるんだった、と。ジンの家で留守番している小さな黒龍に思いを馳せる。

 一度部屋に戻って着替えの準備をして、ハクアを先に脱衣所へ行かせる。五分もしないうちに呼ばれて、彼女が風呂場へ出るのと同時に龍太も脱衣所へ入った。


 目隠しでもしていようかと一瞬思ったが、それはそれでハクアに手を取られて動くことになりそうなので却下。普段ならいざ知らず、風呂場でそれはちょっとヤバい。


 服を脱いで腰にタオルを巻いてからから風呂場に出ると、同じくタオル一枚に身を包んだ純白の少女が、青い空の下で待っていた。


 長く白い髪は結い上げられ、小ぶりな胸からお尻にかけて、薄い布一枚に遮られている。新雪よりもなお白い肌が眩しくて、眩暈を覚える。


 まるで時が止まったかのように一歩も動けず、ただその場に立ち尽くすしかない。目の前にいる少女に見惚れてしまっていた。完全に心を射抜かれていた。

 絵画のような、なんて言葉にしてしまえば、陳腐なものになってしまう。それほどまでにハクアは美しくて。きっとこれから先の人生、世界で最も美しいものはなんだと聞かれたら、真っ先にハクアの顔が思い浮かぶことになるだろう。


「さあリュータ、座って頂戴。背中を流してあげる」

「お願いします……」


 シャワーの前に立ち、短いタオルを持つハクアはどこか楽しげだ。言われるがまま鏡台の前の椅子に座ると、頭からシャワーをかけられた。熱くもなく冷たくもなく、丁度いい温度だ。


「先に頭から洗うわね」


 ここまで来たらもう何も言うまい。彼女の好きにさせるとしよう。

 手のひらにシャンプーを乗せたハクアが、優しい手つきで龍太の髪を洗う。なんの曲かは分からないが、鼻歌まで聴こえてくる。


「痒いところはない?」

「大丈夫です……」

「もう、どうして敬語なの?」

「どうしてでしょうね……」


 これは己との戦いだ。沸き起こる羞恥心を寧ろ利用し、邪な心を捩じ伏せるための。いくらドラゴンが肌を晒すことに抵抗のない生き物とはいえ、人間の男と共に風呂に入る意味くらい、ハクアだって理解しているはず。多分。

 つまり、ハクアは龍太が変な気を起こさないと信じている。だから一緒に風呂に入っている。その信用を裏切るような真似だけは、断じて許されない。思春期な自分は決して表に出してはいけない。


 なんて考えていると、頭を洗い終わったのか、シャワーでシャンプーが流される。続けてボディソープでタオルを泡立たせてから、ゆっくりと背中を這わせた。


「やっぱり、こうして触れてみると、ちゃんと鍛えているのね」

「身長の割には、って?」

「そんなこと言っていないわよ。リュータは気にしているみたいだけれど、あなた、別に特別小さいわけではないじゃない」

「幼馴染二人がデカかったからなぁ。玲二もだけど、詩音も女子にしてはデカい方だったし、その二人に囲まれてたら嫌でも気になるもんなんだよ」

「けれど、わたしとしてはあなたが今の身長でよかったわ」


 不意にタオルを動かす手が止まって、鏡越しに後ろを見る。するとハクアは、その白い手で直接、龍太の背中に触れる。その感触がむず痒くて、ほんの少し身動ぎした。


「わたしよりも高すぎない、丁度いい距離。そんなあなたの横顔を見上げるのが、結構好きなの」


 微笑み混じりの鈴を鳴らしたような声が耳に届いて、龍太の心臓が強く跳ねる。顔が一気に熱を持って、背に触れている手からこの鼓動が伝わらないかと、不安に駆られる。


 自分の身長はコンプレックスでしかなかった。男子の平均身長よりも少し低くて、いつまで経っても170には届かない。喧嘩の時にはバカにされる要素にしかならない自分の身長が。

 でも、生まれて初めて、自分が今の背丈で良かったと思えたのは、些か単純すぎるだろうか。


 だって仕方ないじゃないか。惚れた女の子に、こんなことを言われたのだから。

 ほんの少し気恥ずかしくて、けれどそれを上回るほどに嬉しくて。そういう意味じゃないと分かっていても、好きと言われたことに、内心で舞い上がってしまいそうで。


 それら全てを悟られないよう、口元を引き結ぶ。意味のわからない唸り声だけが口の端から漏れて、ハクアはクスクスと笑った。


 背中もシャワーで流されて、あとは自分で軽く体を洗い、その間にハクアも隣のシャワーで軽く体を流していた。

 それから二人揃って、湯船に浸かる。タオルを浸からせるのはマナー違反とか、そういうのは無視だ。


「ふぅ……いいお湯ね……」

「だな……一応、ヒスイには感謝しておくか……」


 二人並んで肩まで浸かる。ハクアと一緒というこの状況じゃなかったら、もう少し堪能できていたのだろうが。そこは仕方ない。諦めよう。


 目の前に広がる山脈の景色を、無言で眺める時間が続く。その沈黙が心地いい。時折聞こえてくる鳥の鳴き声や、近くの木が風に揺れる音。あるいはちゃぷちゃぷとお湯が跳ねる音。それら全てがこの空間を形作り、気がつけば龍太の中からは、羞恥心やらなにやらが消えていた。


 そんな心地良い静寂を破ったのは、ハクアがお湯の中を移動する音だった。さざなみが立ち、彼女はこちらに身を寄せてくる。

 突然のことにギョッとして、龍太も身動きが取れないうちに、ハクアはピッタリと、龍太の隣に寄り添った。互いの腕が触れ合って、温泉の熱とは違った原因で顔が熱くなる。


「わたしがなにか隠しているって、リュータは気づいているでしょう?」


 ただ、彼女が紡いだその言葉に、浮かれた思考はどこかへ飛んでいった。真剣な声音は微かに震えていて、ほんの少し恐怖の色を映している。


「まあ、薄々な……」


 これまでの旅の中で、ハクアの素性に疑問を持つことは何度かあった。それだけの謎も散りばめられていた。

 最初の村では神として崇められ、龍の巫女と呼ばれる世界最強の存在と知り合いで、世界創世の伝説に出てくる龍の片割れと同じだと、本人曰く勘違いされている。

 そして、何万年も生きているという長寿に、変革という強力な力。


 エンゲージした龍太でも分からない、知らないことは沢山あって。その全てを知りたいと思っていても、ハクアは知られたくないと思っているかもしれない。


 無理に聞き出そうとして、嫌われるのが怖いけど。それはもしかしたら、ハクアも同じだったのかもしれない。


「本当のわたしを知ったら、リュータには嫌われるかもしれない。わたしは、それが怖い……あなたには嫌われたくないから……」

「ありえねえよ」


 だから、即答した。


「俺がハクアを嫌うなんて、絶対にない。断言できる。だってハクアは、俺の命の恩人だ。俺にとってはもう、大切な女の子なんだ。だから、絶対にハクアを嫌いになんてならない」

「本当に……?」

「本当だよ。だからさ、今じゃなくてもいいから、いつか聞かせてくれよ。ハクアが話したいと思った時でいいから、本当のハクアってやつを、教えてくれ」


 真っ直ぐ、少女の目を見つめる。今だけは恥ずかしいだなんだと言っていられない。この気持ちを、ほんの少しでも伝えるために。


「うん……そうね、いつか必ず……」


 ギュッと腕を抱かれる。薄い布一枚隔てただけの胸に、強く。信じられないほどの柔らかさが龍太を襲って、こんな時だというのにハクアの言葉が頭に入ってこない。


「まだ怖いけれど……でも、あなたには知ってもらいたいと、そう思うから……って、リュータ? あれ? 大丈夫⁉︎」


 最後まで聞くことは叶わず、龍太はのぼせて意識を失った。

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