36 演者のいない舞台
ワーデン博士の屋敷で休んだ俺、システィリア、エメローラ、ワッタは、日が暮れた頃に博士の使用人に呼ばれ、食堂へと集まっていた。
なかなかに手の込んだ料理を出され、その味にも驚いたが、いちばん驚いたのは料理を作ったのがワーデン博士本人だってことだな。ワーデン博士は「錬金術研究の副産物だ」とこともなげに言ってたが。
南方の特産だというコーヒーなる飲み物を出され、俺たちはその苦さに驚きながら口をつける。
ワッタは苦いのが苦手なようだったが、俺は慣れてくればいけそうだとおもった。システィリアとエメローラはコーヒーを牛乳で割って飲むのが気に入り、ワッタはそれにさらに砂糖をたっぷり入れている。
「ふむ。私は濃いめに淹れてそのまま飲むのが好きなのだがな。頭が冴え渡る気がする。バッカス男爵もそのままでいけるクチのようだな」
「頭が冴えるかはわかりませんが、苦いのは嫌いじゃないです。貴重なものをありがとうございます、ワーデン博士」
ドクダミ茶とかも好きだしな。
「いやなに。私が好きで飲んでいるだけだ。煎じた豆も時間が経つと風味が損なわれるからな。それから、私のことはノーラで構わないぞ、男爵。敬語を使うこともない」
「なら、俺のこともレオナルドでいいですよ。じゃなかった、いいぜ」
「同じシスティリアを愛する者どうし、無礼講で行こうではないか。無礼講といっても、貴族の『無礼講』ではなく、本当の無礼講だ」
「あいつら、無礼講とか言っておいて気にさわることを言われると怒り出すからな⋯⋯」
その場では怒らなかったとしても、あとで根に持つのはまちがいない。
世渡りの下手な新人の非正規騎士がそれでクビになるのを見たことがある。
「レオナルド。ノーラ姉は女性なんですから、適度な距離を心がけてくださいね?」
「そりゃわかってるさ」
「レオナルドはわかってるとおもうんですけど、ノーラ姉は絶対わかってないですし、今後もわかることはないとおもうので、レオナルドのほうで距離を考えて接してくださいということです」
「な、なるほど⋯⋯」
俺はシスティリアの言葉におもわず納得してしまう。
「なんだ、妬いているのか、システィリア? 大丈夫だ、君の大事な旦那様を取ったりはしないさ。しかし⋯⋯ふむ。
ドガン!とすごい音がして、一同がびくっと身をすくませる。
ノーラすら言葉を止めて息を呑んでいた。
テーブルをぶっ叩いたシスティリアがノーラを睨む。
「冗談でも、もう二度とそんなことは言わないでくださいね、ワーデン博士?」
「う、うむ⋯⋯今のは私が悪かった⋯⋯」
消え入るような声でノーラが言う。
「システィリア、怖い」
「今のは驚きましたね。海魔を睨んでいたときのような目でした」
小声でワッタとエメローラが囁き合う。
俺はなんとか場を取り繕うセリフがないものかと考えるが、あいにく気の利いた言葉は思いつかず、ぬるくなったコーヒーを啜って誤魔化した。
「まったく、ノーラ姉といると疲れます」
「そう言うな。久しぶりの再会だから、私もいつになく機嫌がいいのだ。突然婚約を拒んでエルドリュースの屋敷を飛び出しただの、辺境の準男爵のもとに駆け込んで決闘沙汰になっただのと聞いて、これでも心配していたのだ」
ノーラが真剣な顔でそう言った。
そりゃ、そんな話を聞けば心配にもなるわな。
機嫌がいいというのも本当だろう。部屋割りを真剣に考えてくれたり、手間のかかりそうな手料理を振る舞ってくれたりしたんだから。
さっきの冗談といい離れのベッドの一件といい、ノーラの好意はたまに空回りするみたいだけどな。
「そ、それは⋯⋯ご心配をおかけしました」
しゅんとなって、システィリアが言った。
「構わないさ。君が不幸でなければそれでいい。人間というものがなぜ考えるという行為をするかといえば、それは少しでも幸せになるためだ。もっとも、考えれば考えるほどに自然の感興からは離れることとなり、結果的に不幸を招くこともある。真理に至る思考もあれば、迷妄に至る思考もあるということさ。君はどうやら、考え、真理に至ったようだ。君に短い間ながらも師として接したものとしては、胸を張るべき成果だとおもう」
「の、ノーラ姉⋯⋯うう、ありがとうございます⋯⋯」
少し照れた様子で言ったノーラに、システィリアが涙ぐんでそう返した。
食堂を、しばし暖かい沈黙が包んだ。
「その、ノーラ。迷妄に至る思考とは、どういうことでしょうか?」
ノーラにそう質問したのはエメローラだ。
「思考とは、筋道を立てて考えることだ。これは当たり前のことなのだが、これが存外できぬのが人間だ。いや、ドワーフや人魚も同じであろう」
「そうですね。ときに感情的になって、理性的に振る舞えないことはございます」
「そう。たしかに、その問題はある。
だが、問題はそれだけではない。そもそも、筋道が立っているかどうかの判断をいかにして下すのか。
たとえば、昨日は寒かったから風邪をひいたのだろうと人は言う。しかし、その推論は本当に妥当なものなのだろうか? 風邪をひいたのは他の人間に移されたからかもしれぬ。いやいや待ってほしい、そもそも風邪とは一般にどのような理由によってひくものであり、本当に人から人へと移りうるものなのか、寒さはいかなる力によって人の中に風邪を生じせしめるのか⋯⋯
筋道が立っているように見える思考も、さらに深く考えれば絶対的な根拠などないことがすぐにわかるであろう」
「それはそうですが⋯⋯それを言っては、考えるという行為自体ができないのではありませんか?」
「考えるということは、それでもできるのだ。考えるという行為は、他の身体的な行為と同じく、人に生まれつき備わったものだからだ。だが、他の身体的な行為と同じく、考えるという行為も、過ちをおかす可能性がある。過ちの原因は数あろうが、その最たるものは、人は自分に都合のいいように考えたがるということであろうな」
「では、自分に都合によくないことも考えればいいのではないでしょうか? たとえば、個人の感情とはべつに課せられた義務のような」
「それとて、義務を果たす者だと周囲に認識されたいだとか、自分で自分のことをそう認識せずにはいられないだとかいった広義の『感情』に根ざすものではなかろうか」
「そう⋯⋯ですね」
「感情をもとに思考を巡らせると、思考は論理によって現実から乖離した虚構の楼閣をこしらえあげることになりがちだ。そしてその虚構の楼閣がその者を縛り、さらには周囲の者をも巻き込んでいく。宗教などはその最たるものだ」
「ちょっとノーラ姉。世の中には神を信じる人も多いのですから⋯⋯」
「何の問題がある? 彼らは彼らの考えを信じる。私は私の考えを信じる。残念ながらその二つの考えに穏当な着地点はなさそうだが、どちらがいい悪いでもあるまい。ただし、私には、私の考えの方がより熟慮を重ね、客観的な検討を経たものである自信があるがな。彼らが私の考えを容認できぬのは、虚構を信じるためには論理を曲げねばならぬからであろう」
ノーラの仮借ない言葉に、エメローラがしばし考える。
「ノーラは、わたくしのしようとしていることは馬鹿げているとおもいますか?」
「私には判断がつかないというのが正直なところだな。問題が君の主観的な満足にある以上、エメローラが母君の約束を果たすことにどのような意味を見いだせるか、また、その約束を果たすことで得られるさまざまな結果が総じてプラスになりうるかどうかを、君の心に聞いてみるほかあるまい。
だが、エメローラは当然そのようなことはし尽くしてきたのであろう?」
「どうでしょうか⋯⋯。少し自信がなくなってきました。お母様の恋は本物でした。それに憧れるわたくしの気持ちも本物だとおもいます。ですが、現在の国王陛下のおっしゃることもわかるのです。国王陛下が誠実に対応してくださったことも事実です」
「ノーラは国王陛下についてはどう見てるんだ?」
俺はノーラに聞いてみる。
「レオナルド⋯⋯いや、バッカス男爵よ。私だからいいが、その質問が時に危険だということは認識しておいたほうがいい。私のような奇人でもその程度の処世術はわきまえている」
「う⋯⋯そうだな」
「だが、率直な質問は嫌いじゃない。
私の見るところ、サグルス4世陛下は良き王だ。極端な意見を退け、忠言はよく聞き、物事を多様な側面から検証してから施策を決める。優柔不断と言うものもいるが、考えるとは本来時間のかかることなのだ。即決即断が常に正しいとはいえぬ。むろん、有事であれば決断の遅さが命取りになることもあろうが、今の平和な世の中ではむしろ美点といえよう。
エメローラの一件、陛下はどのように言っておられた?」
「今は王子が一人しかおらず、約束通りに結婚させることは難しい、しかし約束を果たせぬ分の補償はするので、望むことを言ってほしい、と」
「一国の王が望むものをなんでも用意するというのに、それでもやはりエメローラとしては母君の約束を果たしたいと言うのだな?」
「わかり、ません⋯⋯。わからなくなりました。これでは、ただわたくしが自分の気持ちだけを押し通そうとしているだけです。相手のことを自分以上に想うのが、想ってしまうのが恋なのだと、お母様はおっしゃっておりました。だとすれば、わたくしが今望んでいるのは恋ではないということになります」
「ふむ。まず断っておくと、私はこの手の相談の適任者ではない。むしろ最不適任者と言っていい。かといって、恋愛経験のあるシスティリアならば適任かと言うと、この娘もあまり常識的な人間ではなく、相談事には不向きだろう」
「ちょっと、どういう意味ですか!?」
ノーラにシスティリアが抗議するが、俺はひそかに納得した。
「それでもあえて気づいたことを言うならば⋯⋯いや、言わぬほうがいいのだろうか。私は言わないほうがいいことを言って他人を傷つけることには定評があるのでな」
「かまいません。恋はたとえうまくいったところで傷つかずに済むことなどまずないと、お母様はおっしゃっておりました」
「そうか。では、あくまでも私なりの考えだと断った上で言うが⋯⋯エメローラの口にする『恋』なるものが、私にはよくわからぬ。これは私に恋愛経験がないからやもしれぬ。さきほども無神経なことを言ってシスティリアを怒らせてしまったが」
「いえ、そんな。気にしてません。レオナルドを誘惑するのはやめてほしいですけどね」
わりとまだ気にしてる様子でシスティリアが否定した。
「ふふっ、すまんな。私を奇人扱いしない貴族など滅多にいないものでな。さすが、システィリアを嫁にしただけあって、包容力のある男だと思っただけだ」
「結構好感度高いんじゃないですか!? それと、その言い分はさりげに失礼ですよね!?」
「システィリアの相手がレオナルドのような男でよかった、と言っているだけだ。
さて、エメローラの件だったな。私の感触を率直に述べるなら、エメローラは『恋』をしようとしているが、『恋する』ことをしているわけではない、といったところか」
「あの⋯⋯よく意味がわからなかったのですが⋯⋯」
「うむ、不親切な言い方だった。
エメローラは『恋』というものを母君の話すところによって理解している。そして、そのようにして理解した『恋』を、なんとしても実現させようとしている。
ところが、エメローラは『恋する』ことはしていない。エメローラにとっての『恋』は、母君の言葉によって定義された宗教的な
したがって、エメローラのやろうとしていることは、エメローラの母君が身を捧げた恋とは似て非なるものにしかなりえない。エメローラの『恋』には、主役たるべき女優がいないのだ。エメローラは『恋』という舞台の幕開けを心待ちにする観客兼、舞台の興行主といったところだろう。
しかしそうなると、この『恋』は誰が誰のために望むものなのか? 演者なしには舞台は開かぬ。以前とある脚本家が役者が一切舞台に立たぬまま幕が降りるという前衛的な芝居を打ったことがあるが、その評判は惨憺たるものだった。本来主演女優たるべきエメローラが舞台に上がらぬのであれば、この『恋』は前衛的な悲劇に終わるだろう。
これが、私の見立てだ」
ノーラの言葉に、食堂に沈黙が落ちた。
エメローラは不意に殴られたような顔で固まり、それを見る俺やシスティリアはハラハラしている。ワッタはノーラの回りくどい説明についてこれなかったようだが、その分凍りついた居心地の悪い空気を察し、エメローラを心配そうに見つめている。
「⋯⋯私の言い方はやはり、人を傷つけるな。すまん、できることなら忘れてくれ」
言ったほうのノーラが、かえって狼狽をあらわにし、寂しげな顔で食卓の席から立ち上がった。
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