35 奇人先生

「やあ、ひさしぶりだね、システィリア! そしてようこそ、バッカス男爵、人魚姫殿、ドワーフのお嬢さん!」


 街外れの古びた屋敷に入るなり開口一番朗らかにそう言ってきたのは⋯⋯有り体に言って変人だった。

 まず、黒に赤いラインの入った山高帽と、金縁のアンダーリムの眼鏡とが、顔から受けるすべての印象をかっさらう。首から下はインバネス風の礼装だが、ジャケットは外身が黒、折り返されたえりが紫という奇抜な色使いになっている。ズボンは、右足が赤と水色のストライプ、左足は要所に銀のラインが入った黄色と緑のチェックという、なんとも目に痛い代物だった。


「ワーデン先生⋯⋯その格好は一体どうなさったんです?」


 システィリアが呆れた顔でそう聞いた。


「ふむ。久方ぶりの客人、それも旧友にしてかつての教え子がやってくるというから、気合いを入れてコーディネイトしてみたのだが?」


「頼みますから普通の格好にしてください」


 金縁眼鏡のブリッジを指で持ち上げながら言う変人に、システィリアがため息をつく。


「女性って話じゃなかったのか?」


 俺がシスティリアにそっと聞くと、


「何言ってるんですか、レオナルド。ノーラ姉は間違いなく女性です」


「そうだぞ。体型を見ればわかるであろう、バッカス男爵」


 不服そうに言われて改めて変人――いや、システィリアの恩師にして今回俺たちの滞在を快く承諾してくれたノーラ・ワーデン博士に目を向ける。

 奇抜な色使いに惑わされて気づかなかったが、たしかに、お腹はくびれ、胸はなだらかな起伏を描いている。ぴったりとしたズボンで浮き上がる足のラインは、間違いなく女性のものだ。システィリアがスレンダーに見えて実はけっこうすごいのとは逆に、ワーデン女史は背がすらっと高い正統派のスレンダーだ。

 奇抜な山高帽や眼鏡に惑わされていたが、よく見ればかなりの美人でもある。知性の宿る空色の瞳が爛々と輝き、栗色の短い髪が端正な顔を縁取っている。最初は派手に見えた金縁のアンダーリムの眼鏡も、慣れてくれば彼女の知性と整った鼻梁を強調する効果があるようだ。

 年齢は二十代半ばから後半か。システィリアによれば、その年齢で既に学者として高名なのは滅多にないことだという。博士という称号は一代限りのものだが、伯爵と同格の貴族として敬意を払われる存在なのだ。


「これは失礼しました、ワーデン博士」


 俺がそう非礼を詫びると、


「いやなに、よくあることだ。初対面ではなぜか女性とは思われないようでな」


「そんな格好をしてるからですよ。サーカスの奇術師みたいじゃないですか」


 システィリアがまぜっ返す。


「君も知っての通り、私はスカートが嫌いでね。ばっさばっさと動きにくいし、すその中身が露わにならぬよう常に気を配らねばならん。面白くもない私の下着が覗かれることに払う注意があるのなら、その注意を研究に傾けたいところだ」


 ワーデン博士は腕を組み、鼻を鳴らしてそう言った。

 なるほど、変人だ。システィリアが口を濁すくらいだからどんな人物かと思ってたんだが、予想以上のが出てきやがった。

 とはいえ、驚きはしても、嫌な感じはしなかった。いかにも貴族然としてるやつよりよほど話しやすそうではあるからな。システィリアと馬が合ったというのも納得だ。


「でも、以前は身なりなんて気にしてませんでしたよね? どんな心境の変化なんですか?」


「うむ、よくぞ聞いてくれた、わが弟子よ。今私は衣服が周囲に及ぼす心理的な作用に興味を持っていてな。衣服など私にとってはなんの価値も持たない雑音のごとき情報でしかないが、世の中の多くの人にとってはそうではないらしい。服を剥ぎ、化粧を落とせばとても魅力的とは言えぬ多くの令嬢が、着飾るだけで男の視線を惹きつけるさまなど、まるで魔法ではないか?

 対する男の方も、たかが色や材質が異なる程度の布切れに、一体どうして惑わされるのか不思議でならん。王侯貴族までもが、単なる布に惑わされ、数百年の歴史を持つ家の夫人となる女性を、合理的な検討をすっとばして決めてしまう。

 そうした事象を、私はこれまでくだらぬのひと言で片付けてきたのだが、なぜくだらぬことがこれほどまでにもてはやされるのか? そう問い直してみると、存外明確な答えを見出すのが難しいことに気づいたのだ」


「⋯⋯ノーラ姉は美人なんですから、そんなことを公言したら袋叩きにされますよ?」


「そうなのだ。私は客観的に見てかなり整った容貌をもっている。だからこそ、衣服の心理的な効果を確かめるには便利な実験体なのだ。なんなら、エルドリュースの至宝と讃えられるほどに美しいシスティリアにも、ぜひこの実験に協力してほしいところなのだが⋯⋯」


「全力でお断りします」


 システィリアが断固として言った。


「ふむ。では、そちらの人魚姫はどうであろう? なるほどシスティリアも美女ではあるが、人魚姫はどこか幻想じみた美しさをもっているな。そのエキゾチックな衣装は人魚の手になるものかな? そして⋯⋯ほう! この首飾りも⋯⋯」


「せ、先生! 今はそういうことはやめてください!」


 エメローラにぐいぐいと近づいていくワーデン博士を、システィリアが遮った。

 ワーデン博士はシスティリアの気色ばんだ様子に、ようやくエメローラの様子がおかしいことに気づいたようだ。


「おっと、すまない。君たちは長旅で疲れているだろう。馬車旅は徒歩よりはマシだが、始終がたごと揺れる馬車に乗せられていては身体が軋んでしかたがない。部屋は用意しているから、わが家だと思ってゆっくり休んでくれたまえ。

 だが、そうだな。バッカス男爵夫妻には私の書斎にお越し願うか。細々としたことを相談する必要があろうからな」


 そう言うと、ワーデン博士は俺たちの返事も聞かず、屋敷の奥に向かってすたすたと歩き出す。

 貴族の女性には滅多にないほどの速足だ。

 俺たちは慌ててワーデン博士についていく。

 ワーデン博士は二階の一室の前で立ち止まると、その扉を開いて中を見せる。


「部屋の割り当てについては私が最適解を弾き出しておいた。

 まず、この部屋が人魚殿だ。理由は、バルコニーから中庭にある池が見えるからだな。残念ながら池の水は淡水だが、慣れない地上では気詰まりでもあろう」


「あ、その⋯⋯ありがとうございます。すみません、ご挨拶もまだで。わたくしはエメローラと申します、ワーデン博士」


「うむ。私は挨拶などあってもなくても同じことだと思っているのだが、世間的には重要な意義を持つ行為らしいな。エメローラ殿の行儀作法は宮廷人と比べても遜色ないように思う。おおいに自信を持ちたまえ。いったいどうやって人間の文化に精通したのかじっくり聞きたいところではあるが⋯⋯おっと、システィリアに睨まれた。

 すまない、私は万事こんな調子でね。私は他人の都合を察するのが苦手なのだ。中途半端に察してもかえってトラブルを招くことがあるから、こうして一切合切他人の都合は察しないことに決めている。だから君も、この屋敷にいるあいだは私の都合など考えずに行動したまえ。お互いさまというものだ」


「い、いえ⋯⋯お気遣いありがとうございます。わたくしのことは、どうぞエメローラとお呼びください」


「ではそうさせてもらおう、エメローラ。伝説の人魚と知遇を得られるとは光栄だ。

 む……待てよ? 念の為に聞いておくのだが、今のは社交辞令ではないだろうな? というのも、さる貴族からどうぞ名前で呼んでくださいと言われ、実際に呼び捨てにしたところ、その貴族が激怒したという事例が過去にあったからなのだが」


「ふふっ。ご安心を。社交辞令ではありません」


 王との会見以来暗い表情だったエメローラも、よくわからない気の回し方をするワーデン博士に笑みをこぼす。


「おお、君のその笑みはとても魅力的だな、エメローラ。君の名前も詩趣が溢れていて素晴らしい。エ・メ・ロ・ー・ラ。口にするだけで広大な海原うなばらとさざ波の声が聴こえてくるようだ! ノーラなどという面白みのない名前をつけられた身には羨ましくてならぬ。エメローラよ、私のことはノーラで構わない。なお、これは社交辞令ではない」


「わかりました、ノーラ。ご迷惑をおかけすることもあると思いますが、宜しくお願い致します」


「うむ。君のような美しい娘のためなら労は厭わんさ。私は衣装にはこだわらぬが、生まれたままの姿の女性の造形美には興味があるのだ。システィリアもそれはもう素晴らしく美しい娘だが、エメローラも負けず劣らず美しい」


「は、はぁ⋯⋯」


「ノーラ姉。もうその辺で⋯⋯」


「おっとすまない。ともあれ、部屋は好きに使ってくれたまえ」


 ワーデン博士はとりとめのない話を切り上げると、さっさと廊下を歩きだす。

 この屋敷は、大きいが古く、歩くたびに廊下がぎしぎしと鳴る。だが、ボロいという感じは不思議となく、時の流れを感じさせるいい意味で古びた屋敷である。もっとも、ワーデン博士のものらしいがらくたがそこらじゅうに溢れていて、せっかくのレトロな雰囲気がかなり台無しになってるのだが。

 ワーデン博士は一階に下りると、客室の一つの扉を開いて振り返る。


「そしてこちらがドワーフのお嬢さんに用意した部屋だ。選定理由は、ドワーフは大地に近いほうが落ち着くだろうということと、部屋に大きな石造りの暖炉があることだな。理由はしいていえばといったところだが」


「部屋、ありがとう、ノーラ!」


 部屋を覗き込み、ワッタが感激の声を上げる。


「ワッタのこと、ワッタ、呼ぶ。社交辞令、ない!」


「うむ。それではワッタと呼ばせてもらおう。ドワーフの話を聞かせてもらえるのをとても楽しみにしている。ワッタも素朴で飾らぬ美しさのある少女だな。バッカス男爵は美女美少女を集める才でも持っているのか?」


「いや、俺にそんな才能があるんだったらもっと早くに結婚してますって。まあ、こいつと結婚できたんだから、長い独身生活も十二分に報われたと思いますが」


「やだ、もう。レオナルド⋯⋯」


「ほう、惚気のろけるではないか、男爵。私の可愛いシスティリアを奪っておいていい度胸だ」


「えっ、ワーデン博士とシスティリアってそういう⋯⋯?」


「ち、ちがいます! ノーラ姉は、本当に審美的な意味で女の子が好きなだけです!」


「美人同士だから絵になるし、俺はべつにかないぞ」


「ちょっ、妬いてくださいよ!?」


「くくっ、仲睦まじいようで結構なことだ、男爵夫妻。さて、君たちの部屋なのだが⋯⋯」


 ワーデン博士はあいかわらずこっちの返事を聞かず、すたすたと歩き出す。

 中庭に出て、池のわきを通り抜け、屋敷から独立した離れに向かう。


「新婚の男爵夫妻にはこの離れを用意した。この離れを選んだ理由は、新婚夫婦への配慮だな。ベッドが傷んでいたので新しいものに取り替えた。音の出にくいスプリングのものを慎重に選ばせてもらった。大いに二世作りに励んでくれたまえ」


「よ、余計な配慮をしないでください!?」


 離れに、顔を真っ赤にしたシスティリアの叫びが響き渡った。

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