34 恋に見合う補償など

「王様、約束、破るか?」


 凍りついた空気を破ったのは、それまで黙って話を聞いていたワッタだった。

 王が、伏せていた顔を上げてワッタを見る。


「ドワーフの族長の娘であったな」


「ワッタ、です」


「その素朴で濁りのない問いは、余の胸に突き刺さるな。余とて、できることならば祖父が王として交わした約束は守りたい。それが不利益をもたらすものであろうと、いや、だからこそ、ここで問われるのは信義なのだ。

 こうして百年の時を超え、信義を貫き、はるばる遠路を、それも歩みなれぬ地上の道をやってこられたエメローラ殿のお気持ちには、王として、否、王以前に人として、誠に感じ入っておるのだ」


 そう言いながら、王は目を潤ませた。

 ロマンシストの祖父と現実主義の父の折衷的な王だと自己分析した王だったが、こうしてみるとロマンシストだったシグルド1世の血をたしかに引いているとおもえてくる。


「だが、王として現実的な側面を見ないわけにもいかぬ。

 今、余には男子は一人しかおらぬ。その結婚相手は、この国の将来を大きく左右することになる。

 エメローラ殿がいい悪いではなく、国内の貴族を黙らせ、対外関係を損ねぬ相手を選ばなければならぬのだ。

 人魚のエメローラ殿が正妃では、国内の貴族は抑えられぬであろうし、国外からは海へ出る野心を疑われよう。

 実際、このノージック王国は、祖父以前の時代から、南の海へ出て港を得ようといくども軍を起こしておる。近代では父王シグルド2世はとくに積極的で、ルタミアとのあいだには緊張関係があったのだ。余が即位してから関係の改善に努め、近年では貴族が避寒のためにルタミアに別荘を持てるほどの友好関係を築くことができた。これは、余の統治能力や外交力によるものというよりは、余がルタミアの王族をきさきに迎えたからだ」


「エメローラさんは、ノージック王国とルタミアは戦争をしているとお母上から聞いていたそうです。だから南の海岸からではなく陸の海門を通って地上を目指したのだとか」


 システィリアが複雑そうな顔でつぶやいた。


「さようであるか。では、エメローラ殿は戦乱のさなかにあるやもしれぬ地上に危険を冒してやってこられたということなのだな」


 ますます辛そうに王が言った。


「エメローラは、陸の海門を通る際に海棲の巨大なモンスターに襲われ、怪我をしてもいました。たまたま友好的なサハギンたちがエメローラを救護してくれたからよかったようなものの、一歩間違えば命を失っていた可能性もあります」


 俺はエメローラの後押しをする。

 後押しというか、まぎれもなく事実なんだからな。

 エメローラの気持ちのほどを、王にはわかってもらう必要がある。

 もっとも、この感じやすい王様は、エメローラの心情を相当なところまで汲み取ってくれてるみたいだが。


「エメローラ、本気。ワッタの父様、言ってた。人間の国、人魚との約束、守るか、破るか。ドワーフも、エルフも、注目する」


「ドワーフの族長は痛いところを突いてこられるな。そして、情に厚い人物のようだ。海に住む人魚と山に住むドワーフのあいだに交流があるわけでもなかろうに」


「ワルド――ドワーフの族長は、人魚の存在を今回のことがあるまで知りませんでした。陛下のご推察されたとおり、とても情に厚く、親切で、信義を大事にされるおかたです」


 ワルドに敬語を使うのは奇妙な感じがしたが、ドワーフの代表を人間の国の代表に紹介するのだからこれでいい。


「わかっておる。百年の時を経てなお信義を貫く人魚と、それができぬ余と。信義にもとるのはこちらである。

 むろん、なんの補償もなく婚約を破棄するなどと言うつもりはない。

 婚約の破棄に見合うとエメローラ殿が納得できる代価を用意させてもらう。余に――この国にできる最大限の範囲で、誠心誠意補償させていただく。そのうえでなお、信義を尽くせなかった王であると責めてもらってかまわぬ。そうする権利が人魚たちにはあろう」


 王の言葉は、心からのもののようだった。

 だからこそ、俺たちも反応に困った。

 もし、百年前の約束など無効だと主張するなら、ワッタの言った理屈で食い下がることはできただろう。

 だが、王はすべてを認めた上で、なお約束は果たせないと非を認め、婚約破棄に見合うだけの補償をすると申し出た。それも、エメローラが納得できる形で、王の側から上限をつけることなく、だ。


 ここまで言われて、なお食い下がることは難しい。

 王はそのまま目を伏せ、食堂に沈黙が落ちた。


 重く垂れ込めた沈黙を破って、エメローラが言った。


「⋯⋯恋に⋯⋯恋に見合う補償など、ありえません」





 気まずい沈黙が続いた。

 王の側近は王に「時間が⋯⋯」という主旨の耳打ちをしたようだ。


「今回のこと、誠に申し訳なく思っておる。王都での滞在費用や行き帰りの便宜は最大限はからせる。

 たしか、おまえたちはワーデン博士のもとに逗留するのだったな。彼女はすばらしい学識の持ち主だ。余とは異なる視点から相談に乗ってくれるであろう。

 エメローラ殿は人間の街は初めてと聞く。よくよく人間のことを見定めた上で、気持ちがまとまってから改めて話し合いの席を持てればよいと思っておる」


 エメローラの様子に罪悪感をおぼえたのか、王はやや饒舌にそう言って食堂を出て行った。


 しばらくして、パトリックが食堂にやってくる。

 パトリックは食堂の空気を見て、開きかけた口をそのまま閉ざす。


「君たちはワーデン博士のところに泊まるんだったね。馬車で送ることになっている」


 俺たちが同じ馬車に乗り込もうとしたところで、


「レオナルド。君だけはこっちに来てくれ」


 と、パトリックが自分の乗る馬車を顎で示した。

 エメローラのことは心配だったが、システィリアとワッタがいれば大丈夫だろう。むしろその場にいずに済んでほっとしていることを認めないわけにはいかなかった。

 馬車に差し向かいに座ると、パトリックが俺に聞いてくる。


「レオナルド。国王陛下はなんと?」


「おおよそあんたの言う通りでしたよ」


「では、金銭で補償するという形で?」


「いや、エメローラが補償に十分と思うものをなんでも言えと言われた」


「なんでも、かい? そりゃまた、随分と⋯⋯」


「国王陛下は、先々代から今に至るまでの経緯なども隠し立てせず語りながら、どうしても今王子とエメローラを結婚させることはできない、と言ったんだ。王様としては、かなり異例なことだよな?」


「そうだね。普通なら、いくら支払うからこれで引き下がれ、と言うだけだろう。言われた側は、若干の金額交渉くらいはできるだろうが、欲をかきすぎればすべてを失う。まして、エメローラさんには後ろ盾が何もない。足元を見て二束三文で済まされても泣き寝入りするしかない立場だ」


「王は王なりに誠意を尽くそうとしてるってことか」


「レオナルド。僕だからいいが、他ではきちんと国王陛下と言いたまえ。上を敬うことは、何も恥ずかしいことや屈辱的なことじゃないんだ。むしろ身を守るための当然の護身術であり、そのラインさえ守っていれば他者の攻撃を受けにくい。敬意を払っているというていを取りさえすれば、諫言かんげんという形で上の意向にやんわりと反対を示すことすらできる。敬語は貴族界では盾であり剣でもあるんだ」


「ご忠告痛み入りますよ。どうもクセが抜けなくて」


「君はシスティリアを娶ったんだ。ついうっかりではもう許されない立場にいる。くれぐれも気をつけたまえ」


 元上司からのマジ説教に、俺は身体を小さくしてうなずいた。


「ともあれ、わかっただろう。陛下は祖父王の約束をないがしろにされるおつもりはない。だが、百年前の約束を字義通りに実行されるつもりもない。陛下に裏の計算がないとは言わないが、知らぬ存ぜぬでとぼけても誰にもわからないところを、ここまで譲歩してくださったんだ」


「でも、その条件じゃあエメローラは納得できない。恋に見合う補償などない、と言ってたよ」


「なんとも純粋無垢なお方だ。淑女としては美徳であろうが、こと政治の場では疎まれるか食い物にされるかのどちらかだ。僕としては⋯⋯そう、僕としては、無事に海に帰ることが、もっとも彼女が幸せになれる道だとおもうね。彼女の純粋な想いに応えられるような人間は、すくなくともこの王都にはいないだろうさ。王子殿下は論外として」


「ふぅん? やっぱり、その王子ってのはヤバいやつなのか?」


「怜悧な美貌の持ち主で、女性からは人気がある。頭の回転が速く、政治向きのことにも機転がきく。幼い頃から帝王学を身につけ、それ以外の諸学でも優秀らしい。剣の腕もなかなかのものだ」


「正直いけ好かないとは思うけどよ。凡愚なよりはいいんじゃないか?」


「なまじ才気に溢れてるだけに、それを鼻にかけ、女性に言い寄っては不適切な関係を結ぶと聞く。貴族の夫人を何人も愛人にしてるという噂もある。相手が王子だけに、夫のほうでも強くは出れない」


「そいつは⋯⋯イヤだな」


「とてもエメローラさんを幸せにできるかただとはおもえない。エメローラさんはすぐにでも王都を去って、陸の海門から海へ帰るべきだ」


「あんたは、それでいいんですか?」


「なんのことだい?」


「パトリックがエメローラに好意を抱いてるのなんて、見てればわかりますよ」


「うっ⋯⋯まあ、否定はしないよ。でも、彼女が望んでいるのは、王子と結婚して彼女の母の約束を成就させることだ。僕ではとても、彼女の相手にふさわしくない」


「そうでもないと思うけどな⋯⋯」


 すくなくとも噂にきく王子よりははるかにマシだと思う。


「それに、僕だってローリントン伯爵家を継ぐという大事な役目がある。システィリアとの婚約が流れたことで、僕への風当たりは強いんだ。エルドリュース公爵家と縁を結ぶ絶好の機会をみすみす逃した、とね」


「そいつは⋯⋯なんというか」


「謝らないでくれよ? 決闘で僕に認めさせたんだ。堂々としててもらわないと困る。あんなやつに負けたのかと、僕が周囲から責められることになるんだからね」


「決闘はあんたの勝ちだったじゃないか」


「でも、その後の結果を見れば、実質負けたようなものだろう。僕としても忸怩たるものがあるから、いつか再戦してみたいものだけどね」


「勘弁してくれよ。本気のあんたに勝てるはずがない」


「あれだって本気ではあったさ。君への侮りがあったことは確かだけどね」


 パトリックが肩をすくめる。


「しかし、システィリアといい、エメローラさんといい、恋のために命を賭けるというのはおそろしいことだ。戦場で剣を斬り結ぶよりもよほど怖いことじゃないかい?」


「まあ、戦場でやり損なったらそこでくたばるまでですが、人生でやり損なったらその後ずっと尾を引くわけですからね。とても俺には真似ができない」


「そうかい? もう十分にやってるじゃないか」


「俺はどうせ、失うものもたいしてないからな。本当にすごいのはシスティリアだ。公爵家の生まれという恵まれた条件を放り投げ、誰もが羨む求婚者を退けて、そうまでして俺のとこに来てくれた。最初はなんの冗談かとおもったが、今はそこまでしてくれたシスティリアに愛おしさを感じるよ」


「ふっ。惚気のろけてくれるじゃないか。

 だが実際、背負っている家やら地位やらをなげうつというのは、男にはなかなかできないことなのかもしれないね。僕だってそんなことができればとおもうこともある」


「とくにエメローラに出会ってからは、か?」


「やめてくれ。なんとか割り切ろうと苦労してるところなんだから」


「割り切る必要があるのかよ? ぶつかってみちゃダメなのか?」


「ただでさえ落ち込んでいるエメローラさんに、かい? これ以上彼女を混乱させるような真似はしたくはない。

 それに、僕がどうアプローチしたところで、彼女のほうで受け付けないよ。システィリアに言われた通り、僕は女心がわからないらしいしね」


「そんなこともないと思うけどな」


「ともあれ、僕としてはエメローラさんが状況を受け入れ、あきらめて、悲嘆にくれることなく納得した上で海に帰れるようであってほしい。エメローラさんを王都に送り届けたことで僕の任務は終わりだけど、もし僕で力になれることがあったら遠慮なく相談してくれ」


 そうきっぱりと言ったパトリックだが、その顔には恋心を抑えかねる苦渋の色が浮かんでいた。


 馬車はいつのまにか王都の外れに差し掛かり、行く手に大きな屋敷が見えてきた。

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