19 決着
パトリックが馬にまたがって現れたのは、草葉から朝露がなくなろうという時間のことだった。
俺たちは言葉少なに館の前に出た。
パトリックが、俺に木剣を渡しながら言う。
「これで十分だろう。ご令嬢に血を見せたくはない」
一般的に、貴族同士の決闘は真剣を使って行なわれる。
決闘の場合、鎧兜は身につけない。
名誉のための戦いなのだから、それぞれが「正装」で挑むということになっている。
パトリックは軍の礼装姿だし、俺は準男爵に叙任された時に着たきりの礼服だ。
もちろん、そんな軽装で斬られたらただでは済まない。
もっとも、どちらかが大怪我を追うまで決闘が続くことはあまりない。
剣を落とすなどして形勢が明らかになった時点で、見届け人が終了を宣言する。
どちらかが途中で棄権してもいい。
それでも、真剣勝負である以上、事故が起こる可能性は十分にあった。
この決闘で事故に遭うとしたら、まず間違いなく俺だろう。
木剣でいいと言うのなら、俺としては助かるが……
「いいんすか、それで?」
「見届け人はマリーズ嬢だ。エルドリュース公からの委任状も持っている。
ところで、マリーズ嬢。君にはこれが何に見える?」
パトリックは木剣を軽く持ち上げてマリーズに聞いた。
「紛れもなく真剣です。エルドリュース公爵から委任を受けた見届け人マリーズ・エルテロワは、決闘が正しく行われていると認めます」
マリーズはあいかわらずの無表情でそう言った。
「……そういうことか」
パトリックは、システィリアの目の前で万一にも俺を斬るようなことはしたくない。
そんなことになれば、その後の夫婦関係は絶望的だ。
俺とパトリックは木剣を手に、数歩の距離を取って対峙する。
それを、いまにも倒れそうな顔で見るシスティリアと、硬い表情のまま中間地点に立つマリーズ。
場に漂う緊張感を察してか、アイシャが厩舎から首を伸ばし、そばに立つシスティリアに、鼻先を近づけていなないた。
「では、マリーズさん」
パトリックの言葉に、マリーズがうなずく。
「レオナルド様もよろしいですか?」
「ああ」
俺は木剣を軽く振って重さを確かめ、正眼に構えた。
両手で柄をしっかり握りしめる俺に対し、パトリックは手の内に生卵でも隠してるような感じで木剣を持つ。
騎士団で教わった通りに構える俺に対し、パトリックは木剣を斜め横に傾けた格好だ。
一見すると、力の入らない構えに見える。
だが、どこにも力みのないその構えは、身体のすべてがあるべき場所にあるといった、自然な調和を感じさせる。
ただ様になってるだけじゃない。
パトリックは、この構えからいく筋もの軌道で剣を振るうことができるのだ。
剣速はおそろしく速い。
自分に向かって振り下ろされる剣に対し、その柄を握ってる指や手首を狙って斬りつける。
パトリックの十八番である「小手斬り」だ。
握りに力を入れないのは、その必要がないからだ。
力ではなく技で斬る。
それが、パトリックの生まれた騎士の名門・ローリントン伯爵家の秘伝剣法なのだという。
パトリックはそれを惜しげもなく部下に教えようとしていたが、相当に繊細な感覚がいるらしく、部下の中でその剣技を会得できた者はいなかった。
と、ぐだぐだ解説してしまったが、要するに俺に勝ち目はないってことだ。
俺が気合いとともに斬りかかったが最後、パトリックの剣が閃き、俺は小手を打たれて剣を落とす。
真剣じゃないからといって、パトリックにそれができないとは思えない。
刃がないならないで、パトリックは俺の手首の弱い箇所を的確に打ち、俺の手を痺れさせて剣を手放させることだろう。
「両者構えましたね? それでは――始め!」
マリーズが開始の合図を出した。
だが、俺もパトリックも動かない。
後の先を得意とするパトリックが動かないのは当然だが、俺だって迂闊には飛び込めない。
俺はじりじりとパトリックの右脇に回り込もうとする。
それを、パトリックは隙のない足さばきで牽制する。
「どうしたんだい? 打ち込んでこい!」
パトリックが言った。
「じゃあ――遠慮なくいくぜっ!」
俺は剣を振りかぶり、一歩を踏み出す。
剣を振り下ろせば、その瞬間にパトリックの剣が飛んでくる。
小手斬りを、見てから避けることは不可能だ。
だから、俺は剣を振り下ろさない。
そのまま、さらに一歩を踏み込んだ。
「それで、対策のつもりか!」
一瞬とまどったパトリックだが、すぐに剣を翻し、横薙ぎの斬撃を放ってくる。
俺は予定してた通りに跳び下がりながら、
「っらあああ!」
全力で剣を振り下ろす。
俺の剣が、横薙ぎに迫るパトリックの剣を上から叩く。
「ちっ!?」
パトリックは上からの衝撃を受け流し、剣を手元に引き寄せた。
普通なら、今ので剣を落としてる。
物心つく前から剣を握ってきたパトリックは、手のひらの感覚だけで、剣の状態を瞬時に把握できるらしい。
今も、俺の振り下ろしに反応し、自分から剣先を低くして、下への力を受け流していた。
今が追撃の好機――と思うのは素人考えだ。
俺はそのまま後ろに下がる。
パトリックは、一瞬で切り返し終えた剣を、肩の前の位置で止めていた。
(あのまま突っ込んでればバッサリいかれてたな)
なにも、小手斬りだけがローリントン剣術の極意じゃない。
あらゆる状況に柔軟に対応すること。
それがローリントンの目指す剣の境地だ。
剣を軽く握ってるのはそのためでもある。
もっとも、俺がそれを真似して握りを軽くしたら、あっという間に剣がすっぽ抜ける。
剣に対し、どういう角度、どういうタイミングで、どれだけの力をかける必要があるか。
それを、骨身に染みるレベルで身に付けて、初めて有効に機能する握りなのだ。
俺は、柄を右肩の辺りに、剣を立てて構えたまま、パトリックとの間合いを慎重にうかがう。
間合いを図りそこなえば、すぐさまパトリックの剣が飛んでくる。
俺は、この元上司が、宙を舞う木の葉を剣先だけで真っ二つにするのを見たことがあった。
俺とパトリックは膠着状態に陥った。
パトリックが笑って言う。
「やるじゃないか、レオナルド君。力任せに振り下ろすばかりの野良剣法。そう侮っていたのは取り消そう」
「取り消す必要はねえさ。実際、俺はそれしか考えてねえ。あんたみたいな華麗な剣技は身につかなかったからな。ただひたすら、一撃で敵を
荒事では、これが案外役に立った。
荒事になったら、稽古通りの状況なんてそうそうない。あったとしても、型通りに動けることなんて、十に一回あるかどうかだ。
結局、実戦では身に染み付いた動きをするしかない。
そんな時に、いくつもの型を同じくらい練習してるやつは、どの型を使うかで一瞬迷う。覚えてる型が多ければ多いほど迷ってしまう。
だが、俺は迷わない。
ただ振り上げ、振り下ろすだけだ。
よほどの使い手が相手ならともかく、街のごろつきやモンスターが相手なら、それだけで十分戦える。
「なるほど……騎士団では馬鹿みたいに木偶人形相手に振り下ろしばかりを練習してたっけ」
パトリックが構えを最初に戻し、俺はそれに応じて立ち位置を変える。
同時に、剣を頭の上まで振りかぶる。
防御を捨てた構えだが、それでまったく構わない。
どうせ、こいつからの攻撃をまともに受けたら、あっという間に連撃を決められる。
一撃を受け止めてしまった時点で、ローリントン剣術の必殺の手順の中に囚われてしまうのだ。
だから、初撃は絶対に避けるしかない。
「しかし、随分とやる気なんだね。もっと投げやりな決闘になるかと思ったけど」
「悪いな。人生負けてばっかりだけどよ。それだけに、負け方にはこだわりがあるんだ」
「負けは負けだ。勝てなければ意味がない。それが戦場というものだろう」
「そうか? 戦場だって勝ったり負けたりだ。勝って死ぬこともあれば、負けて生き残ることだってある」
「新鮮な考え方だ。生き恥を晒すよりは犬死にを選べ。それが我が家の家訓でね」
「恥をさらさずに生きてくことなんてできるかよ」
「きちんと身を持することができれば可能なはずだ」
「そいつは、挫折を知らない奴の言い分だ」
「……これ以上は話してもしかたがないだろう? これは剣の勝負なんだ」
俺は踏み込む――気配を見せて引っ込んだ。
俺の目の前を、パトリックの剣閃が駆け抜けた。
その直後に踏み込む――と見せかけ、やはり引く。
今度はパトリックも動かない。
「なかなかの駆け引きだね。騎士団時代に発揮してくれればよかったのに」
「へっ。平民出の非正規騎士がイキったところでたかが知れてんだよ。
それより、せっかくだからあんたに訊きたい」
「なんだい?」
「あんたは誠実なんだろうさ。だが、本音で話してるわけじゃない」
俺は、不意打ちを警戒しながら、パトリックにそう言った。
パトリックは徐々に剣先を下げている。
こっちが振り下ろししかやってこないとわかったので、小手斬りで対応するつもりなのだ。
小手斬りは、斜め下からが狙いやすい。
振り下ろされる剣の柄を狙うには、若干斬り上げる必要があるからな。
大上段に構えた俺と、それを迎え撃つ構えのパトリック。
だが、余裕があるのはあっちだろう。
パトリックは、離れた場所で固唾を呑んで決闘を見守るシスティリアを、ちらりと見てから答えてくる。
「昨日、腹を割って話し合ったはずだけどね」
パトリックから目を離さずに、俺は視界の隅でシスティリアを見る。
アイシャの繋がれた厩舎の前でマリーズと並んでるのはわかるが、焦点を合わせないままでは、その表情まではわからない。
俺はパトリックに言った。
「ありゃ、腹を割ったんじゃない。企みを持ちかけて共犯者に引きずり込んだだけだ」
「人聞きが悪いね。やっぱり、あの条件では君にメリットがなかったということかい?」
「そんな話はしてねえよ。俺が訊きてえのはあんた自身の気持ちだ」
「僕の……?」
「どうして婚約者を奪った俺を憎いと思わない? 婚約者が他の男に惚れてるのを、どうして『ちょっと困った問題』くらいにしか感じてない? 俺なら、烈火のごとく怒り狂うぞ!」
一気に踏み込んだ。
今度は、最速で振り下ろす。
その手を狙って、パトリックの剣が飛んでくる。
俺は、途中で右手を柄から離していた。残る左手だけで剣を降り下ろす。
木偶人形への打ち込みのおかげで、俺は握力だけは強いのだ。
パトリックの剣が、直前まで右手のあった部分をかすめて過ぎる。
「くっ!?」
パトリックが剣を引き、俺の振り下ろしを受け止めた。
俺は、無事で済んだ右手を柄に戻し、両腕に体重をかけてパトリックの剣を圧迫する。
「なんで、自分の婚約者を取り返すのに、おまえは取り引きを持ちかけた!」
「何……?」
「どうして、俺をくだらねえ条件で釣って、自ら負けるように仕向けようとした!」
「それは……君自身とシスティリアの名誉を重んじたから……」
「あんたは昨日言ったな! システィリアを幸せにできるのは、俺ではなくておまえだと! なんでそれを、おまえの口からシスティリア自身に言ってやらない!」
俺は剣を押し込んでいく。
パトリックはそれをじっと堪える。
少しでも力を抜けばそれで終わりだ。
パトリックの剣は翻り、俺の身体を打つだろう。
「こいつを幸せにするのは俺じゃなくておまえなんだと、どうして言ってやらねえんだ! おまえがそんなだから、こいつはこんなにも不安になってんだろうが!」
俺は力任せに剣を押す。
単純な力比べなら、そこまで分は悪くないはずだ。
もちろん、有利とも言えない。
向こうは剣術家で鳴らしたエリート騎士で、俺より十も歳が若い。
俺が上から全力で叩きつけた態勢だから拮抗してるだけだ。
パトリックは、珍しく握りに力を込め、腕に筋を浮かべて、俺の剣をかろうじて堰き止めていた。
「……っざけるな」
パトリックが、食いしばった歯の奥から声を漏らす。
「ふざけるなっ! 誰が不安だって!? そりゃあ花嫁はいつだって不安だろうさ! だけど、その不安に振り回され、他の男のもとに走られて……僕が平然としていられたとでも思ってるのか!」
パトリックが、剣をわずかに傾ける。
それだけで、俺の剣は意図せぬ方向に滑り出す。
パトリックの剣が、火花を残して、俺の剣の下から抜け出した。
パトリックは木剣をさばき、最下段から最上段へと一瞬にして剣を旋回させる。
そして、そのまま斬り下ろす。
技も何もない、渾身の振り下ろし。
およそこの男らしくない一撃を、俺はなんとか受け止めた。
だが、
「ぐぉっ!?」
剣を受け止めたのと同時に、俺の腹に衝撃が走った。
慌てて飛びのき、体勢を整える。
パトリックは、俺に
「それでも……理解しようと努めたさ! まだ若い女の子にはありがちなことだろう、僕にも何か落ち度があるんじゃないか! 来る日も来る日も悩んで、手紙を送って、公爵家に日参して……そうまで尽くしても、システィリアは曖昧に微笑むばかりだった! 最後の最後まで、僕に心を開いてはくれなかった!」
パトリックが袈裟懸けに斬りつけてくる。
避けられない。
しかたなく、剣で受ける。
パトリックは左手を柄から離し、拳を握って、俺の鼻面を狙ってくる。
俺は身をかがめ、額でその一撃を受け止めた。
「っ
と思わず言ったが、威力はそんなでもなかった。
無理な体勢だったせいで、拳に体重が乗ってなかったからな。
が、パトリックは拳を開き、手のひらで俺の右目を塞いでくる。
視界を遮られた隙に、パトリックの木剣が、俺の胴へと食い込んだ。
「ぐはっ……!」
たまらず下がった俺の肩に、さらに木剣が叩きつけられる。
利き手側を打たれ、剣から手を離しそうになったが、かろうじて柄を握り直す。
俺は、転げるようにして後ろに下がる。
それを追って繰り出されたパトリックの蹴りが空を切った。
「それで……おまえはどうした、パトリック?」
「なに?」
「間男に領地をチラつかせて決闘を呑ませ、パパに仕込まれたご自慢の剣法で叩きのめす。
たしかに、誰も文句は言わねえだろうさ!
だが、それのどこに、システィリアへの気持ちがあるって言うんだっ!」
愚直に剣を振り下ろす。
パトリックは、俺の手首を狙うこともできたはずだ。
だがあえてそれをせず、俺の剣の側面に回り、俺の胴に一撃を入れてきた。
「ぐぅっ!」
俺はたまらずうずくまる。
(あばらが……イってるな)
視界が霞む。
立ち上がろうにも立ち上がれない。
「気持ちなど……整理をつけて進むしかないものじゃないか! システィリアを幸せにできるはずもない君が、いったい何を偉そうに語ってる!」
「ぐふっ!」
パトリックの蹴りが、俺の脇腹に突き刺さる。
俺は、地面に仰向けに転がった。
パトリックは、俺の利き手の肩を踏みつけて動きを封じると、木剣を逆手に握り変える。
その切っ先が、俺の顔へと向けられた。
木剣の切っ先は丸い。
だが、この男なら、この状態からでも俺を殺せるだろう。
「これは決闘だ。君も同意した以上、殺されたって文句は言えない」
「馬鹿言え。殺されたらどっちにせよ文句なんざ言えねえよ」
パトリックが剣に力をこめ――
「いい加減に……しろおおおおおおおっっ!!」
火炎が、パトリックの上半身を呑み込んだ。
「うわっ!?」
パトリックは、とっさに地面に転がり、炎の大部分をやりすごす。
それでも衣服に燃え移った分を、地面に擦りつけて消そうとする。
そこに、ざばっと水がかけられた。
「うぷっ!」
パトリックが顔をかばう。
見れば、マリーズが木桶をパトリックに向けた格好で立っている。
(あの木桶は、厩舎の馬の飲み水を入れてた奴だな)
もちろん、パトリックに炎を放ったのはシスティリアだ。
「双方、決闘を中止してください。第三者の横槍が入りましたので」
マリーズが言った。
「シス、ティリア……君は……」
パトリックは、システィリアが秘呪を使ったことに驚いてる。
こいつは、本人からも公爵からも知らされてなかったってことだな。
「あなたも、レオナルドも! いい加減にしてください!」
システィリアが叫んだ。
その顔には、まぎれもない怒りの色が浮かんでる。
これまでの生活でも、システィリアが怒った場面もあった。
だが、それとは次元の違う本気の怒りだ。
「なっ、俺もかよ!?」
俺は思わず、自分を指さしてそう言った。
「そうですっ! レオナルドもです!
二人とも、わたしのためを思ってと繰り返しながら、わたしの気持ちを何一つまともに受け止めようとしてないじゃないですか!
なんでわたしの問題を、わたしの気持ち抜きに、二人で勝手に決めようとしてるんですかっ!」
「「そ、それは……」」
期せずして、俺とパトリックの声が重なってしまった。
シリアスな場面で間の抜けた反応を返した男二人に、マリーズが奥でプッと噴き出す。
「わたしは! レオナルド様が! 好きなんです! 愛してるんです!
パトリックのことを、なんとか愛そうと思ったこともありました! でもやっぱり無理だったんです! パトリックがどれだけ完璧な夫になろうとしてくれても! わたしには、その想いに応えることが、どうしても! どうしても! できないんですっ!」
「システィリア……」
濡れたままのパトリックが、あっけに取られた顔でそう言った。
「パトリック! あなたはこれまで本当によくしてくださいました! 最初はエルドリュースの権勢が目当てかとも思いましたが、パトリックなりに真情があったことは理解してます!
でも……ごめんなさい。どうしても、ダメなんです。わたしは、自分の気持ちに嘘がつけません……」
肩を落とし、涙をこぼしながらシスティリアが言う。
パトリックが言った。
「本当に……どうしようもないのかい? 十年、二十年経った後でも、今の選択を悔やまないと言えるのかい?」
「そんなことは知りません。誰に、そんな未来のことがわかるっていうんです? わたしにわかるのは、今ここにある気持ちが、絶対に動かせないものだってこと……それだけです」
システィリアの言葉に、パトリックが苦しげに目をつむる。
パトリックは、何かを堪えるように、木剣の柄を握りしめる。
「……はああっ。くそっ!」
パトリックは、濡れた髪をがしがしと掻きむしりながら立ち上がる。
そして、まだ立ち上がれない俺を見下ろして言った。
「やめようか、レオナルド君」
「えっ……?」
「これ以上は意味がない。僕のもとに来るのが彼女の幸せだ。その確信に揺らぎはないが、これ以上は僕が惨めになりすぎる」
パトリックは、濡れた髪を左手でかきあげ、水を切りながら後ろに流す。
そこから現れた顔は、悔しそうでもあり、すこしさっぱりしたようでもあった。
「サーガの悪役を演じるのはごめんだよ。僕にだって傷つく心がある。
僕のもとでは幸せになれそうにない。そう言ってる女性を力づくで妻にしてどうなるっていうんだ?
僕だって、人並みに幸せな家庭を築きたいと思ってるんだよ」
そう言って、パトリックは厩舎の隣につないだ自分の馬へと歩いていく。
「決闘はどうなさるのです、パトリック様」
マリーズが、空気を読まずに確かめる。
「僕は勝ったが、勝者の権利を放棄した。それでいい。代官の任を解くつもりもない」
パトリックは振り向きもせずにそう言って、ひらりと馬にまたがった。
馬上から、顔だけをシスティリアに向け、パトリックが言う。
「さようなら、システィリア。僕は僕なりに、君のことを愛していたよ」
システィリアはただ黙って、パトリックに深々と頭を下げていた。
パトリックが大きく手綱を引いた。
パトリックの馬が前脚を上げ、空中を何度も空掻きする。
「はぁぁっ!」
パトリックが、拍車のついた足で馬の胴を打った。
馬が、全速力で駆けていく。
まるで、主人の未練を断ち切るかのように。
その姿を見届けたところで、俺は地面に倒れ、意識を闇に閉ざしていた。
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