2 公爵令嬢の事情
俺は、ずぶ濡れのご令嬢を、タオルを敷いたベッドの上に横たえた。
たまに館の雑用を手伝ってもらってるばあさんの家に走って、ばあさんに館まで来てもらう。
「いきなり押しかけてきてな。熱があるみたいなんだ。着替えさせる必要があるが、俺みたいなおっさんが公爵令嬢の裸を見たりしたら大変なことになる。すまないが頼めるか?」
「ほっほっほ。代官様も隅に置けませんな。ここはばあがやっておきますゆえ、代官様はお湯を沸かしてきてくれませんか」
「わかった」
ばあさんの好奇の目から逃げるように、俺は厨房に行って湯を沸かす。
風呂を沸かしたほうがいいかとも思ったが、風邪を引いてるようなので、とりあえずは湯を浸したタオルで温めてもらおう。ばあさんもそういうつもりで頼んだのだろう。
代官相手でも臆することなく用事を頼んでくる遠慮のなさを、俺はけっこう気に入ってる。
「ばあさん、沸かした湯はここに置くぜ」
「ああ、ありがとうごぜえます」
俺はご令嬢を運びこんだ部屋の前に、たらいと、沸かした湯の入ったやかんを置く。
「ええと、スープでも作るか」
ご令嬢はたぶん腹が減ってるはずだ。身体を温めるにもそのほうがいい。
俺は、騎士団仕込みの、食えりゃいいんだろと言わんばかりのスープを作りだす。
最初はひどい味だったが、ばあさんの指導のかいもあって、最近は見違えるほど美味くなってきた。
(料理を趣味にするのもいいかもな)
のどかな山村に娯楽は少ない。
その分、村の主婦たちは腕によりをかけて美味しい料理を作ってる。
それを教えてもらうのも悪くない。
そこで、ばあさんが厨房にやってきた。
「お着替えは済みましたよ。お嬢さんは起きてらっしゃいます」
「そうか。こんな時間に済まなかったな」
「いいええ。でも、女手がないのは困りますねえ。いっそ、あのお嬢さんをもらってあげたらどうなんです?」
「なんだ、何か吹きこまれたのか?」
「娘っ子同士の秘密ですよ、代官様」
ばあさんが笑いながらそう言った。
「ずいぶんシワの多い娘っ子もいたもんだ。あの娘だって、分別があっていい年頃だと思うんだがな」
貴族の令嬢は、彼女くらいの歳になる前に、だいたい嫁ぎ先が決まってるもんだ。子どもを産んで母親になっててもおかしくない。
「女は歳を食っても、娘時代の気持ちを忘れないもんなんですよ、代官様」
「ばあさんもいろいろあったんだな」
「そりゃもう。若い頃はこれでモテモテだったんでねえ」
「歳食ってからならなんとでも言えるな。生き証人ももういねえし」
「代官様は年寄りをもっと大事に扱うべきなんじゃないですかねぇ」
「まだまだ元気じゃねえか。俺の任期中には死ななそうだ」
「ふぁっふぁっふぁっ。まぁ、努力はしてみましょう。
それより、あの娘っ子に会っておやりなさい。せっかくのスープが冷めないうちに」
「おっと、そうだったな」
俺は食事を載せたトレーを持って厨房を出、客間の扉をノックする。
「俺だ。入っていいか?」
「は、はい。どうぞ」
扉を開け、客室に入る。
ご令嬢はベッドに腰かけていた。
地味な村人風の貫頭衣に着替えてるが、そのたたずまいには隠しきれない品のよさがある。
湿った金髪を落ち着かなそうに撫でてるさまは、そのまま絵になりそうだ。
「腹減ってるだろ。メシだ」
「そ、その…………あ、ありがとうございます」
ご令嬢はためらったが、腹の虫には勝てなかったようだ。
客室のテーブルにスープとパンを置くと、素直にその前の椅子に座る。
俺は向かいにある椅子を引き、威圧的にならないよう斜めに座った。
「口に合うかどうかわからんけどな。冷めないうちに食ってくれ」
「は、はい。いただきます」
ご令嬢が木の匙でスープをすくって口に運ぶ。
ここで「不味い」などと言い出そうもんなら叩き出すところだったが、
「……おいしいです」
「本当か?」
「はい。きのことこの根菜がとくに」
「この辺の特産だからな。新鮮なんだ」
しばらく無言で、ご令嬢がスープを飲む。
木の匙を使ってるってのに、まるで宮廷に招かれ、銀器でスープを飲んでるようだった。
俺の前だから気を張ってるとかじゃなくて、身体にマナーが染み付いてるんだろう。
ご令嬢が空になった木の器に木の匙を置いて、それをももの上に乗せ、両手を合わせて礼をした。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さま」
食事を終えたことで、ご令嬢の血色もいくぶんよくなっていた。
「落ち着いたか?」
「は、はい」
「じゃあ……そうだな。名前を聞こうか。俺の名前はレオナルド・バッカス。しがない退役騎士だ。この村の代官をしてる」
「もちろん、知ってます……。
わたしは、システィリア・フィン・エルドリュースです」
「エルドリュースって、あのエルドリュースか? 三大公家の」
「はい。本家の第三女に当たります」
「その公爵家のご令嬢が、なんだって俺にプロポーズなんてするんだ?」
「……婚約を、破棄されました」
ぽつりと、システィリアが言った。
「なんで?」
王国きっての権勢家であるエルドリュース公爵家のご令嬢で、見ての通りの美人だ。
結婚したい男は引きも切らないのが普通だろう。
「いつも優しくしてくれた騎士のことが忘れられない、やっぱりあなたとは結婚できない、そう不安を打ち明けてしまったんです」
「婚約者にか?」
「はい」
「うぅん……そりゃ、プライドの高い貴族様なら怒るかもな」
俺の言葉に、システィリアが首を振る。
「いえ、彼は怒りませんでした。ただ優しく、君も貴族なら割り切れ、そう諭すだけだったんです。わたしとは歳も離れてますし」
「ふぅん。紳士的……なのか?」
「無関心なだけです。彼には、わたしの愛情なんて必要なかったということでしょう。最悪、わたしの気持ちが他の男に向いていたところで、わたしがおとなしくしてさえいればそれでいい。そういうことだと思います」
「なるほどな」
貴族の結婚は、愛情だけでするものじゃない。
その男だって、女性としてのシスティリアと結婚する以上に、エルドリュース公爵家と結婚するつもりだったはずだ。
(俺にはわからねえけどな)
自分の妻となる女性が、他の男のことを愛してる。
そんな状況にはとても耐えられそうにない。
そんなことを言ってるから、この歳になっても独身なのかもしれないが。
「それで、どうしたんだ?」
「その、人前で、わたしはあなたとは結婚できないと……」
「はっきり公言しちまったのか」
「はい……」
「それで、向こうも黙ってられずに婚約破棄か」
「お父様には大目玉を食らいました」
「そりゃそうだ」
「お父様は、もうおまえの子どもじみた空想には付き合っていられない、すぐに別の相手を見つけて結婚させる、と」
システィリアには気の毒だが、決して珍しい話じゃなかった。
貴族の娘の結婚相手を決めるのはその家の当主だ。
いつまでも浮ついたことを考えてる娘も、結婚させてしまえば落ち着くだろう――きっとそんなふうに考えたにちがいない。
「わたしは覚悟を決めました。手荷物だけをまとめて、アイシャに跨り、レオナルド・バッカス準男爵の封じられたこのアスコット村を目指したんです」
「なんでそっちの方向に覚悟を決めるんだ……」
普通は結婚を受け入れる方に覚悟を決めるもんだろうに。
「よく無事にここまで来られたな?」
「乗馬は得意なんです。夜通し駆けて、まる二日もかかりましたけど」
システィリアが、いたずらっぽく笑ってそう言った。
「この辺は治安がいいから盗賊も出ない。モンスターも滅多に出ないって話ではあるが……」
「途中、ゴブリンには出くわしました。アイシャで逃げたら、ついてこれなくなって転んでました。
ただ、途中から雨が降ってきて。宿を探そうにも小さな村ばかりだったので、足がつかないように村を迂回して……」
「雨の中強行軍で来たってわけか……そりゃ熱も出るよ。
って、具合はどうだ?」
「まだふらふらしますが、スープをいただいて楽になりました」
「この体調じゃ、追い返すわけにもいかないか」
体調が良かったとしても、公爵令嬢をそのまま放り出すわけにもいかないが。
「……迎えが来るまでだ。それまではここで預かる」
「そんな!」
システィリアが、絶望に満ちた声を上げた。
「君も、この歳になったら割り切れよ。貴族と平民じゃ住む世界が違うんだ。どっちにもどっちの辛さがある」
俺は、なるべく冷たく聞こえるようにそう言った。
「この村じゃ、代官の妻ってのは、農夫の妻と大差がない。家事を切り盛りし、畑も耕す。子だくさんで、老人の面倒も見なくちゃなんねえ。
貴族のお嬢様に務まるとは思えん。そもそも、務めようとする必要もねえ。貴族のご令嬢には、貴族のご令嬢としての義務がある。裕福な暮らしをする権利の代わりにな。それだけだ」
システィリアが無言でうつむいた。
「迎えが来るまでに、気持ちの整理をつけるんだ。しばらくなら、公爵家への連絡は保留しておく。といっても、そんなに長いことほっかむりを決め込むわけにもいかねえが」
時間が経てば経つほど、俺の立場も、システィリアの立場も悪くなる。
嫁入り前の娘が平民出の退役騎士の所に押しかけた。
それだけでも十分外聞が悪いが、逗留が長引けば長引いただけ、システィリアの娘としての価値が損なわれる。
いくらエルドリュース公爵家が権勢家だと言ったって、口さがない連中の噂話を、完全に封じ去ることはできないだろう。
黙ったままうなだれるシスティリアに心が痛む。
だが、
(ここで優しくしたら、この娘は俺に希望を持っちまう。ありもしない希望をな)
そのほうがよほど残酷なことだ。
(あの上司ならどうするだろうな?)
たぶん、こうするんじゃないか。
システィリアからのプロポーズは曖昧に誤魔化して時間を稼ぎ、その間に可及的速やかに彼女の実家に連絡を入れる。もちろん、そのことは彼女には伝えない。彼女は、不意打ちのように現れた実家の使者によって、実家へと連れ戻されることになる……。
(それがいちばん安全だ。俺にとってはな)
長い目で見れば、彼女にとってもそれが最善なのかもしれなかった。
一時的に失意のどん底に沈んだとしても、時が流れればその傷も癒えるだろう。
その時に、貴族として裕福な暮らしを送れてることは、彼女にとっての慰めになるはずだ。
二十歳になるやならずやのシスティリアと違って、四十の俺は、時の流れの力を知っている。
でも、
(俺が曖昧に誤魔化して、だまし討ちで実家に送り返して……その時この子はどう思う?)
時がいろんな痛みを押し流してくれることを、若いこの子はまだ知らない。
思いつめて家を飛び出すような彼女が、俺に騙されたと知った時どうするか?
白い喉元に彼女がナイフを突きつけたのは、ついさっきのことだった。
「今夜はゆっくり休んでくれ。君に言わずに実家に連絡することはしないから」
とても正解とは言えないことをもごもごつぶやくと、俺は彼女の顔も見ずに、客室の扉をそっと閉めた。
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