第2話

 腕の中の優姫は、真昼間の気温に対してずいぶんと冷たかった。

 同学年、高二女子の平均より少しちいさな彼女は、普段の高慢で憎たらしい態度とは真逆で。震える冷えた身体を抱きしめていると、少しだけ心地いいと感じてしまう俺自身が嫌だった。


「もう、いいだろ。だいぶ体温上がってきてるぞ」


「うん…ありがと」


 ここ数ヶ月で慣れきってしまった、恋人じみた行為の感覚が、離れていく。

 いつの間にか不可視の角も生ぬるい風に溶けていき、青白がった優姫の耳たぶも、人間の朱色を取り戻していた。


「あー、マジで最悪だ。本当に」


「む、なによ。あたしとハグできる男なんて、あんた以外にいないのよ?もっとこの幸運に感謝して、跪くべきだと思うのだけれど」


「おまえのそういうところが嫌いだ」


「奇遇ね。あたしもあんたが嫌いよ」


 徐々にいつもの自分を取り戻していく彼女を横目に、俺はポケットに突っ込んでいたオムそばパンを取り出し、食べ始める。

 くしゃくしゃになってても美味いもんだ。さすがオムそばパン。


「あんた、いっつもそればかりよね。少しは他の昼食に興味ないのかしら」


「オムそばパンをバカにするな。少なくとも、おまえのそのジャム味のパンもどきよりは腹に溜まる」


「あら?スコーンも知らないなんて、貧相な知識の引き出しをしているのね」


 目の前でパックから取り出した、スコーンとやらを優雅に食べ始める。

 屋上であっついコンクリにハンカチ一枚引いて座った美少女が、どこから取り出したのかフォークとナイフでパンもどきを切って口に運んでいる姿は、ずいぶん滑稽だった。


「なあ、おまえさ。今日はなんだってこんなギリギリだったんだよ。毎日暑くなってるんだから、冷気過剰になるのも遅くなっていけよ」


「そんなの決まってるじゃない。あんたが朝…な、なんでもないわ、不思議ねー。あたしもわからないわ」


「おまえさぁ…」


 誤魔化し方が下手すぎる。この脳筋会話能力皆無女が。

 猫かぶってる時は上手くやれてるのが本当に不思議だ。もしかして、幻術でも使っているのだろうか?そんな理外の力を軽く使えるほど、鬼なんて便利な存在じゃないんだが。


「俺は先に戻る。また放課後な」


「ええ。帰りにまた会いましょう?き・み・か」


 下の名前で呼ぶなって言ってんだろ。はっ倒すぞ。



 ☆☆☆



 睨みつけてくる優姫の取り巻きの前を無表情で通り過ぎ、俺はB組の教室に戻った。

 前の席の六条が、昼飯前と同じく恨みがましそうな目で見てくるが、俺だって好きであいつのことを抱きしめてる訳じゃない。

 というか、さすがに意識すると恥ずかしいからやめたい。慣れたが。


 そう、嫌でもやらなければいけないのだ。あれは俺たちにとって呼吸や食事と同じ行為だから。

 憎たらしいことにあの女の言う通り、のだから。


「須藤、今まで何度聞いても誤魔化してきた貴様にこれを聞くのはもはや挨拶だ。だが、それでも聞こう。何故、どうやって、夏城嬢と仲良くなった?」


「毎度毎度懲りないな、六条。だから成り行きと偶然で仕方なくだって、いつも言ってんだろ」


「ちっ、また嘘か。いたいけな美少女に集るハエめ。地獄に落ちろ」


「ひでぇな。これでも一応、友人のつもりだったんだけどなぁ」


「それとこれとは話が別だ。…次の授業は現代文。今日という今日こそは、あのような美少女と付き合えた理由を吐くことだな」


 六条はそう、堂々と授業中の密談を宣言した。俺は別に、嘘なんてついていないんだがな。

 あと、一つだけ絶対に訂正しなければならない箇所がある。


「六条、俺はあんな脳筋ずぼら猫被り悪女と恋人関係になんてなった覚えはない。バカにすんな」


「貴様というやつは…!」


 キーンコーンカーンコーン。


 鐘と同時に六条は眼鏡を直し、黒板に向かって居住まいを正した。

 こいつはパッと見優等生だから、授業中多少筆談していても教師受けがいい。目つきが悪いだけで、少しの居眠りを目の敵にされる俺とは大違いだ。不公平な。


 現代文の時間中、前の席からはしょっちゅうノートの切れ端に書かれた、詰問と恨み言が送られてきたが、無視した。

 俺はなんとなく授業を真面目に受ける気にもなれず、教科書を開いたままぼーっと、優姫と関わらざるを得なくなった日のことを思い出していた。



 ☆☆☆



 夏城優姫は正真正銘お嬢様だった。

 去年の入学式では首席。総代として壇上に上がったあいつは、当時の普通…でもなかったが、純心な男子高校生だった俺は、完璧な彼女に心惹かれた記憶がある。絶対あいつには言わないが。

 だが、そう。あえて繰り返せば、彼女はお嬢様のだ。今は違う。


 去年の十二月の定期試験で、あの女は初めて一位から転落した。

 いや、転落と言っても、ひとつ順位を落としただけだ。普通の人は、大したことないと、よくやっている方だと、そう言うだろう。

 だが、他ならぬ優姫だけは違った。

 詳しくは知らない。聞こうとも思わない。それでも、事実として…あいつのなかで大事な糸が、切れたらしい。


 今日の日本では、不審死が相次いでいる。そしてその多くが、家族を持たない者や近所付き合いのない者の孤独死だ。

 彼らは、誰にも看取られることなく、誰にも気遣われることなく、静かに死んでいく。

 しかし、そこには隠蔽された真実がひとつだけある。

 彼らの全てが、独り静かに朽ちていくわけではない。

 彼らの全てが、自らの境遇を胸の内に秘めたまま逝くわけではない。


 結論を言えば。夏城優姫は、人間は。

 のだ。


 人間崩れのバケモノは、憎悪のままに破壊を尽くす。自らを、周囲を、孤独を嘆いて恨んで、暴れ回る。

 夏城邸はそうして『当主の愛娘だったモノ』に一晩で破壊され、彼女自身は…成り立ちの異なる、同じ鬼。すなわち俺によって、死を免れたのだった。


 俺は、あいつの友達じゃない。ましてや、恋人でもないし、騎士でもない。

 俺は、エゴイスティックに同類を助けた、ただのバケモノだ。



 ☆☆☆



「結局だんまりか。須藤、もはや夏城嬢はいい。貴様らがどうなろうと俺は余計な口出しは辞める」


「それはありがたいこった。できれば、もっと早くその決断をして欲しかったんだけどな」


 記憶に身を委ねている間に、現代文は終わっていた。

 二回ほど寝ていると思われて、机をぶっ叩かれた気がするが、どうでもいいから覚えていない。


「その代わり、俺にも女を紹介しろ。夏城嬢の取り巻きから一人くらいな」


「おまえさ。薄々感づいてはいたけど、クズだろ」


「失敬な!男子高校生たるもの、彼女の一人や二人作ってイチャコラするものであろうが!」


 眼鏡をカチャカチャやりながら捲し立ててくる。心底うざい。

 というか、教師の前でだけ取り繕っているが、俺と教室でそういう話をしている時点で無理だろう。俺もだが。


「勝手にしろ。知らねーよ俺は」


「ならば交渉は不成立だ。夏城嬢を紹介しろっ!」


 なんで俺の周りにはバカしかいないのだろうか。


 ガタガタガタガタ。


 周囲を見れば、他のやつらはみんなもう次の授業のために移動を始めていた。

 ここと違って扇風機もありはしない化学室に行くのは心底腹立たしいが、これも高校生の宿命。俺は未だに未練がましく言葉を、恥を重ねる六条から目を離して席を立った。


 化学室に向かう途中、五限が化学だったらしいA組の連中とすれ違った。

 優姫はこっちを見向きもしなかったし、そうなることを予想して俺も無視していたのだが。取り巻きの一人が話しかけてきたのには、少しだけ面食らった。


「須藤くん、ですよね?」


「あー、誰だっけ?」


「…南です。いつも、顔は合わせていたはずですが」


 不機嫌を隠そうともせず、南と名乗ったボブカットの女子生徒は、俺に向かって言葉を投げつけてきた。


「今日の昼、優姫さんが屋上にいるところを音楽室から見ました。いつもは一緒にいるので、階段前の教室でお昼を食べていましたから、初めて」


「そうか。で?」


「あなた、優姫さんと抱き合っていましたね?」


 なるほど。むしろ、今まで誰にも見られていなかったのが不思議なくらいだったのだ。ようやっと、というくらいである。

 だが、こちらとしてもあれは必要な行為なのだ。見咎められたくらいでやめるわけにはいかないな。


「例えば南、おまえのお花畑な頭で処理された光景が事実だったとして。その事実をどうする?」


「お花畑…!?喧嘩を売っているのですか?あなたは」


「さあな。で?おまえはどうする?もし仮に、俺と夏城が抱き合っていたとしたら」


「決まっています!不純異性交友を先生方に明らかにし、あなたを退学もしくは停学させます。そして、二度と優姫さんに近づけないように手を回していただきます!」


 随分とヒートアップしている。まあ、優姫はあれで、熱烈なファン(笑)が多いからな。こういう手合いに絡まれるのは初めてではない。


「それで?夏城はどうなる?」


「優姫さんは被害者です!あなたのようなへらへらとした男に無理矢理抱きしめられて、さぞお辛かったでしょうに」


 へらへらした。まあ、そうだな。態度はそうかもしれない。

 ピアス穴も開けていなければ、短髪は染めている訳でもないが、どうにも軽薄な男だと思われることが多すぎて悲しい。

 俺はこれで、結構義理堅い方だと思うのだが。


「ほーう。それじゃあ、あいつはもう俺の『お手付き』になるな。いや、品のない言葉しか使えなくてごめんな?俺はへらへらした得体の知れない男なもんで」


「な…っ!優姫さんに、そんな。そんな、破廉恥な真似を…!」


「は?する訳ないだろ。何が悲しくてあんなのを抱くかよ。…だが、おまえの妄想を聞いた世間は、夏城のことをどう思うだろうな?」


「っ…それは」


「名家の令嬢が、どこの馬の骨ともわからない男に穢される。向けられるのは憐憫だな。そして、嫁の貰い手はいなくなる」


 極論だ。だが、全く有り得ないことではない。

 鬼などと言っても、肉体的なリミッターが外れていて、角なんて言う余計な物が生えている以外は、ほとんど人間と変わらない。魔法はおろか、催眠術のひとつも使えやしない。

 だが、鬼は間違いなく、人間より個の力が強い。

 存在の格を、言葉に少々乗せて威圧すれば…このくらいの詭弁は通せる。


「私は、あなたを認めませんから!」


「そりゃ結構なことで。あと、おまえの見た姿は見間違いだ。俺はあいつに好きで抱きつくなんてことは、しない」


 ああ、本当に面倒だ。嫌になる。

 化学室の扉をくぐって、俺は頭に浮かんできた優姫に向かって、中指を立てた。


 ああそれでも、あいつには俺しかいないんだ。

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