姫と双つ角

りあ

第1話

「日本各地で、孤独死や一人暮らしの不審死が相次いでいます。近所での助け合いや、地元への帰省。一人で暮らしている家族や友人を訪ねる連休になるといいですね」


 ニュースキャスターの締めくくりと共に、ぱちんとテレビを消した。

 平日の朝から流すにしては、少々暗い内容だが、それだけ社会問題として深刻なのだろう。


 朝食を腹に詰め、身だしなみを整えてから壁際に近づく。

 隣の部屋からはなにも音が聞こえてくることはなく、安普請のアパートであることを考えれば、隣人が夢の国から出てくる気がないことはあきらかだ。


 がらんがらんがらん!


 糸を引っ張り激しくシェイクすれば、壁の向こうからペットボトルキャップ同士がぶつかる音が聞こえてくる。

 慣れないうちだけでなく、多少慣れたとしても耳障りな雑音。

 壁越しでこれだけ煩いのだから、隣人にとっては災害同然だ。むしろ、あいつの耳に届かないのならば意味が無い。


 がらんがらんがらん!!


 一分ほど鳴らし続けた頃だろうか、お返しとばかりにこちらのペットボトルキャップも震え始める。

 俺としてはただ不愉快なだけなので、同じく糸に繋がった紙コップの手を取った。


「さっさと起きろバカヤロー、置いてくぞ」


 糸電話特有のくぐもった声が、無理やり穴を空けられた哀れな壁の向こうから返ってくる。


「ほっといてよ……あたし眠いの」


「つべこべ言ってないで支度しやがれ。今何時だと思ってんだよ」


「えー?……あー、七時半?」


「そうだ。で、登校は何時までだ?」


「はちじじゅーごふん」


「よろしい。最後に、ここから何分で学校まで着くか問題だ」


「全力で自転車漕いだら二十分で着くでしょ、あんた」


「それは俺一人の場合な。おまえを後ろに乗せるのは道交法ぶっちぎってんだよ」


「えー?じゃあ、三十分と少し」


「今起きたら身支度間に合うな。今起きたら」


「だる……あたし学校休む……」


 糸電話越しの会話はいつもこれだ。俺の優しい優しいモーニングコールごときであいつは動かないし、俺もこれで済ますつもりもない。


「よーしわかった、待っとけねぼすけ。布団ひっぺがしてやる」


 紙コップを放り出し、隣の部屋へとずんずん歩いて行く。

 どうせもう戻らないからと、荷物と一緒に、部屋に鍵もかけた。


 夏休みを前にして、街は朝から強い日差しにやられている。

 北側を向いているこの廊下から出れば、たちまち汗が吹き出すだろう。

 目覚めが悪すぎる隣人を叩き起すため、俺は合鍵で部屋の扉を開けた。

 今更ノックもインターフォンもなしに、ずかずかと散らかったリビングにあがっていく。


「今ならまだ間に合うぞ、起きる気はあるか?」


「んーー?糸電話切ったのに、なんであんたの声が聞こえんのよ」


 盛大に溜息をつき、どうにも思考能力の戻らない彼女から、布団をひっぺがすことを決める。

 昨日開けたらしい菓子の空き袋を乗り越え、もぞもぞ動くタオルケットの芋虫の側に立つ。


「いい加減に……しやがれ!」


「わ、ちょ、ま!?」


 待たない。というかもうだいぶ待った。

 登校時間は迫り、気温はどんどん上がる。

 癪だが、俺はこの女と共に学校に行かなければならないのだ。……本当に癪だが。


「ばっ……なんでとるのよ……っ」


「あ?そりゃおまえが起きないから、って。あー……」


 ようやっとベッドの上で身を起こした彼女は、桃色に小さな白のレースがついた下着姿だった。

 必死に掴み返したタオルケットが、辛うじて身体の中心を隠しているものの、布の端から覗く太ももやら脇腹やらが、逆に劣情を刺激してきた。


「悪い。てか、服くらい着て寝ろよ」


「暑いの。さっさと出て行きなさいよ」


 バツが悪く、目線をそらす。だが、今ここから出ていく訳にもいかなかった。


「俺が出てったらおまえ、二度寝すんだろ」


「それは……し、しないかもしれないじゃない?」


「いや、するね。絶対する。なんなら今までに二回してる」


 とにかく、この女を放置する訳にはいかないのだ。

 ずぼらでだらしなく、朝に滅法弱くとも、彼女は俺の相方なのだから。


「今、失礼なこと考えたでしょ」


「俺はいつもおまえに呆れてるから、今じゃなくていつもだな」


「馬鹿にして……!!」


「いいからさっさと服着ろ。飯は我慢だな。髪は?化粧は?」


「うっさいうっさい!あんたがいたらろくすっぽ着替えも出来ないのよ!」


「はいはい。じゃあ俺、扉の外にいるから」


 徐々に気温の高まる廊下に出れば、渋々動き出したのであろう、あいつの生活音が聞こえ始める。

 朝から疲れるやり取りだったが……今日は、これから始まる。



 ☆☆☆



「だいたいデリカシーとかないわけ?あたし女の子なんだけど」


「そういうのはもっと人としての慎みとか、生活力を身につけてから言うんだな」


 下着姿を見てしまったのは悪いと思っているが、前に糸電話で起きなかった一週間前はジャージを着ていたのだ。決して俺だけが悪い訳では無いと言いたい。


 ぎっこ、ぎっこ、ぎっこ。


 古臭い自転車を二人並んで漕ぎながら、くだらない言い合いを続けていく。

 もはや朝のルーティンと化しているが、夏の盛りに繰り返すやり取りとしては暑すぎる。


「あー、なんか暑くなってきたから先行くわ。寄り道すんなよ」


「ちょっと、待ちなさいよ。あんたねぇ…!」


 際限なくくだらない言い合いがヒートアップする前に、俺はペダルを強く踏み込んだ。

 朝の日差しはきついが、気温はまだ上がりきっていない。結構な速度で人気のない坂道を下っていけば、日陰の風が気持ちよかった。


 校舎の一番近くの信号で止まれば、気だるげなやつや、手で顔を扇いでるやつ、片耳にイヤフォンを入れてるやつと、バラエティ豊かな学生たちと合流する。

 同輩も先輩も後輩も、信号待ちをしている間は知らない顔に仲間意識を覚えるのだから、なんだか不思議だ。

 バラバラ同じ制服を着た自転車乗りたちが、門を通っていく。

 見知った顔に会う度に、「おはよう」が「はよー」とか、「おは」とか、崩れていくのも、嫌いな朝へのささやかな抵抗なのかもしれない、なんて。俺は友人に挨拶を返しながら思った。


「ねえ。ねえってば!おい!」


「なんだよ…女の子なんだろ?ドスの効いた声出すなよ」


「あんたが反応しないからでしょうが!このばか公佳」


「下の名前で呼ぶな」


 少し息を切らして、俺に追いすがってきた隣の部屋の女――優姫へと振り返る。

 どうやら、俺が引き離してからどこかで赤信号に引っかかったらしい。ウェーブのかかった栗色の髪も、踏ん張って漕いだのか息も、少々乱れている。

 …無駄に整った顔がちっとも赤く見えないのは、厚化粧のせいだろう。汗で落ちればいいのに。


「はいはい須藤くん。で?あたしを置いていったのはどういう了見なのよ」


「夏城お嬢様と一緒に門を潜るとバカが伝染うつるからだ。あと、おまえのファン(笑)がうるさい」


「ちっとも敬意が篭ってない『お嬢様』ね。それと。聞き間違えだと思うのだけど、あたしに向かって『バカ』と言ったのかしら」


「ああ、言ったね。そろそろ猫被らなくていいのかよ?バカがバレるぞ」


「この……っ!」


 拳を振り上げかけて、目の前の女はこほん、と咳払いをした。

 全く、脳筋の癖に視線には敏感だな、相変わらず。


「それじゃ、取り巻きの皆サマが来る前に俺は行くよ。B組は朝から体育なもんでね」


「ふん…覚えてなさいよ」


 地獄の底から響くような声に適当に手を振って、俺は早歩きで昇降口まで歩き始めた。

 なんであいつの被ってる猫がバレていないのか、この学校の七不思議の一つだと俺は思うのだが…それはそれとして、あの女と昇降口を一緒に潜ると、陰湿な嫌がらせが面倒くさいのだ。


 なんと言っても、あんなのでも…夏城優姫は正真正銘、お嬢様なのだから。



 ☆☆☆



「須藤くん。少しいいかしら?」


 学食で買ったオムそばパン(焼きそばパンに焼いた卵が乗っている。意味わからない料理だが、美味い)を咀嚼しながら、教室の入口に立った猫被りに俺は適当に目線を向けた。

 朝、下着で掛け布団を被っていた人間と同一人物とは思えない、白のブラウスとクリーム色のベストを着こなした、優姫からの投降命令。


「はいはい、仰せのままに。今行きますよーっと」


「須藤貴様、今日も姫の護衛か。ご苦労な事だな」


「うるせ。こっちも苦労してんだよ…いやマジで。そんな目で見ないでもらえますー?」


 嫉妬と羨望の入り交じった友人の目をかいくぐり、俺は優姫の元へ向かった。

 案の定取り巻きたちには、虫を見るような目をあからさまに向けられたが、生憎お姫様直々の指名だ。文句は言えまい。


「早くしてもらえない?私、お腹が空いているのだけれど」


「へいへーい」


 気だるさを隠すつもりはなく。しかし、俺は嫌とも言わずに優姫に従って屋上へ向かった。

 今日も彼女と昼ごはんを共にできない取り巻きたちは、あからさまな不満を露わにしつつも、いつものことだと途中で去っていった。


 屋上はずいぶんと暑かった。

 当然だ、今は七月の半ばなのだから。そろそろ夏休みも見えて来る頃の、コンクリートの熱量は想像を絶する。

 それでも、彼女と俺はここに来ることをやめない。

 そこには甘い理由も、騒がれるような浮いた話もありはしない。いや、客観的に見ればあるのだが。


「おい、大丈夫か?耳、もう真っ青じゃねーか」


「大丈夫じゃ、ないから…急いであんたに会いに来たのよ」


「ちっ、その猫っかぶりをやめれば、こんなこと……いや、詮無い話だった。すまん」


 大分、参っているらしい。

 優姫は、いつもの憎まれ口にもキレがなく、肩も足も震えて今にも倒れてしまいそうに見えた。

 俺は、そんな余裕のない彼女に一歩近づいて。クソ暑いのを承知で、抱き寄せた。


「っ……ぅ」


 優しさのない抱擁なのは、俺が一番わかっている。こんな勢いで抱きしめれば、額が当たって痛いくらいだ。

 いや、実際には痛くない。俺も、この女も、この程度で痛みなんて感じない。

 第一…俺とあいつの額の間には、そもそも当たるわけがないんだから。


 そうだ、夏城優姫は人間じゃない。

 ついでに、俺も。


 俺たちは、人崩れだ。俺たちは…バケモノだ。

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