天手力男命 あめのたぢからおのみこと 第三章

「いやー、あなたが次の黒手ですか?」


 神主はそう言うと、からからと笑った。晴助はあの夜の狛犬との会話がどうも現実とは思えないので、話の内容を確かめるために神社を訪ねてみたのだ。しかし、神主の言葉はあっさりと晴助の疑いを消し去ってしまった。


「さあ、どうぞ、上がってください。」


 神主は晴助の腕を抱える様にして、どんどん奥へ進み、客間まできてようやく晴助は解放された。


「さあ、さあ、ここに座って。」


 神主は廊下の奥に向かって茶を用意してくれ、と大きな声を張り上げたあと、晴助がちゃんと座ったのを確認して、晴助の向かいに座った。


「いやー、早々に決まって安心いたしました。して、儀式は何時頃がよろしいですかな?」

「いや、俺は……その……儀式?」

「そうそう、黒手になるための儀式です。ま、儀式といっても大した事はありませんよ。」


 そう言って、神主はまたからから笑う。晴助は焦って言う。


「いや、その、俺はまだ……」

「おや?これは、わしの早とちりですか。どうも失礼しました。」


 神主は口ではそう言っていたが、晴助がまだ悩んでいる事は、うすうす感づいていた様子だった。


「実はここにお伺いするまで、全部が夢だったんじゃないかと思ってたくらいで……」

「確かに俄には信じかねる話ではありますし、わしは黒手が何をどうしているのか、具体的には知りませんので、ある意味わしにとっても夢みたいな物とも言えますな。」


 神主はからから笑って、茶を一口啜り、晴助にも茶を勧めた。


「神主さんでも黒手の事は良く知らないんですか?」

「はい、昔から黒衆の事情に立ち入る事はご法度でして。……黒手の事は良く知らないですが、左次さじの事は良く知ってますよ。」

「左次?」

「そう、先日亡くなった先代の黒手です。彼はもう長い事黒手をやっておりまして、わしとも長い付き合いでしたから。」

「そうですか……その左次さんは、どうして黒手になったんでしょうかね?」

「彼は不遇な幼少期を過ごしたみたいで、人生を変えたかった、と言ってました。あと……人生に目的を持ちたかった、とも言っておりましたよ。左次はその不遇な幼少期を生き延びる事に精一杯で、何も持たずに成長してしまったと思ってたんでしょうな。普通の人間が持っている人生の意味や目的という奴ですよ。何より黒手のする事と言えば無償の人助けですからね。左次の考えとうまく合致したんでしょう。」

「それで……左次さんは自分の選択に後悔はなかったんですかね?」

「そうですねぇ、直接聞いた事は無いですが……とても良い死に顔でしたよ。満足げな良い笑顔で死んでいきました。」


 神主は湯飲みを両手で抱えて、微笑みながらそう言った。


「ですから、わしは左次の選択は間違ってなかったと思いますし、左次もそう思っていたと考えておるんです。」


 晴助は少し頭を冷やして考えようと神主の所を辞し、神社の境内をぶらぶらしてみる事にした。と、あの狛犬が目に入った。それはやっぱり、あの夜の狛犬に似ていた。果たしてこんな石像が動くものなのか、とその石像を撫で回して、そしてその傍らに腰を下ろした。ふと、そこで幼い頃の記憶を思い出した。


 ・・・・・・


 小学生の晴助は黒板に書かれた文字を何度も見つめる。


 ——将来の夢


 そこにはそう書いてある。しかし、晴助にはどうしてもそれが思い付かない。クラスメートはもう大分書き進んでいる様で、晴助はますます焦って、それで黒板の文字を何度も見つめる。やがて、女教師がふらふらと晴助の席までやってきて、いまだ白紙の原稿用紙を一瞥する。晴助はその気配に身をすくめた。


「加貫くん、何も思い付かないの?」


 そして周りの生徒に聞こえないように口を晴助の耳元に近づけてこう続けた。


「サッカー選手とでも書いておきなさいよ。」


 その言葉にびくっとした晴助は慌てて抗弁しようとする。


「でも、先生、僕サッカーやった事が無い……」


 しかし、女教師は晴助の言葉を遮り、さらに声を落として言う。


「あなたみたいな親に捨てられた子供は、所詮社会から落伍するんだから、将来なんて考える必要もないのよ。分かる?」


 小学生の晴助には少し難しい内容だが、女教師の真意は伝わり、驚きと怒りで背中を冷や汗が伝って落ちていくのを晴助は感じる。そんな晴助の様子をひとしきり眺めた後、女教師は去っていった。晴助は気持ちが落ち着くのを待って、ペンを取っていかに自分がサッカー選手になりたいかを書く。屈辱に気を取られまいと、無心に文章を綴っていく。


 ・・・・・・


 黒手になる事は社会から落伍する事なのか?まあ、どうでもいい。思えば、俺は最初から、あの先生が言う社会から拒絶された人間だったのかもしれない。


 次の日、晴助は神社を再度訪れた。神主は相変わらずからからと笑い、晴助の腕を抱える様にして、中へ引っ張り込んだ。


 ・・・・・・


「寒くないですか?」


 儀式のために体を清めて浴室から出た晴助に、神主はそう声を掛けた。晴助の顔が少し強張ってるのに気付いたからだ。確かに少し体も冷えてはいたが、顔の強張りは緊張のためだった。


 あれからとんとん拍子に話が進んで、今日儀式の日を迎えた訳だが、冷静に考えれば、狛犬も黒手も儀式も、そしてこの神主に至るまで、全て馬鹿げた話だよ。自分はまだ病室のベッドで意識が戻らず、それでこんな長い夢を見ているのかも知れないと半分考えるくらい、これは馬鹿げた話だ。


 ただ、もし仮に、仮にだよ、成功したら、どうなる?俺はどうなる?俺は一体何者になる?俺は人じゃなくなるのか?失敗したら腕はそのまま、成功したら人ではなくなる?


 改めて考えてみると、これは本当に馬鹿げた話だよ。


「大丈夫です。」


 晴助はそんな事をつらつら考えながら、神主に答えた。


「さて、それではこれから宇気比うけいの儀式を行いますが、手順は大丈夫ですか?」


 儀式の手順は事前に神主に聞いて、憶えていた。


「はい。」

「じゃあ、始めましょう。」


 神主に促され、晴助は一人で薄暗い部屋に入った。八畳くらいの畳敷きの部屋で、灯は壁に掛けられた神棚の蝋燭だけで、その向かいに三方さんぼうと座布団が置かれている。晴助はまず神棚に向かって、神主に教えられたとおりに拝み、それから座布団におずおずと座った。三方の上には、白い皿とお猪口が並べられていて、皿の上には懐紙が敷かれ、その上に乾燥した昆布が載っていた。お猪口の中には酒が入っているはずである。


 晴助はこれも神主に教わった通りに、まず、昆布を歯で噛みきり、それを三つに分けて皿に戻した。そしてお猪口の酒を口に含み、その昆布に吹きかけて、お猪口に残った酒も全て飲み干した。儀式と言ってもこれだけだ。晴助も最初に儀式の内容を聞いた時は若干拍子抜けしたものだが、とにかくここまでは神主に従うしか術は無いのだ。さて、晴助は何か劇的な変化が現れるかと期待して、なお座り続ける。しかし、何も起きない。突風が吹き、雷が轟き、横殴りの雨の中、眩い光と共に神様が現れる、といった事も無く、何も起きない。神棚を見つめ、部屋をグルッと見渡し、また神棚を見つめ、十分ほど座っていた晴助だが、いよいよ痺れを切らして、外で待っていた神主に聞いてみた。


「あの、何も変わった様子が無いんですが、これ……うまくいってるんすか?」

「大丈夫。うまくいってるはずです。と、言ってもわしも黒手の儀式は初めてなんですけどね。」


 神主はまたからから笑っている。


「まあ、まだ終わりじゃないですからね。」


 慰めるように神主はそう言った。これから晴助はこの神社の古い社務所で一晩過ごす。それで、儀式は終了らしい。馬鹿げた話ではあるが、どうも色々考えて緊張してしまう晴助は、とにかくこの儀式が早く終わって欲しい、と切に思った。


 社務所に入り、部屋に通されると、そこは儀式を行った部屋と似た感じの部屋で、すでに布団が敷かれていた。やっぱりこの部屋も壁に神棚が掛けられ、灯はこの神棚に置かれた蝋燭だけだった。布団が用意されてるのを確認した神主は、おやすみなさい、からからといつもの調子で襖を閉めて去っていった。


 布団の他にちゃぶ台、その上にポットと急須、湯飲みと新聞が置かれていて、一瞥すると社務所の中というよりは旅館の一室といった感じだった。晴助はまずたっぷりと部屋を見渡し、立ったまま片手でおでこに手を当てしばらく考え込み、それからやっと座った。なんとなくお茶を淹れ、別に読みたい訳ではなかったが、新聞を広げてみた。ただ新聞を眺めているだけだった晴助は、やがてうつらうつらし始めた。普段は寝つきの悪い晴助にしては珍しく、彼はそのままちゃぶ台に突っ伏して寝てしまった。


 真夜中ごろ、晴助は何かを引きずる音に気付き、目を覚ました。畳の上に積もった塵の様に、暗がりが沈殿していた。頭を上げた晴助は、目を凝らして部屋をぐるりと見回し、やがて部屋の隅の暗がりで視線が止まった。その隅に蛇の様な二つの黒い物体がもぞもぞ動いてるのが見えたからだ。驚いて立ち上がった晴助だったが、立ち上がると同時に両の腕が装束の袖から、ごろりと転げ落ちた。呆気にとられ、転げ落ちた自分の腕を見下ろす晴助だったが、先程の蛇がずるずると這っている音がして、そちらに目を向けた。しかし蛇かと思った物はよく見ると、真っ黒な二本の腕だった。晴助は思わず叫び声を上げた筈だが、その時声が出ない事に気付いた。だが、腕が落ちようが、声が出なかろうが、とにかく逃げる事しか頭に無かった晴助は出口の方向に駆け出した。しかしその時を待っていたかの様に、晴助の背後からその黒い腕が飛びかかってきた。後ろからその腕に巻き付かれ、晴助はそのままつんのめって転倒してしまった。その腕は恐ろしい力で晴助の体を締め上げ、やがて恐怖と息苦しさで晴助は意識を失った。


 晴助は目覚めると共に勢い良く体を起こした。あの腕に掴み掛かられた感触が未だ体に残っていて、動悸が早鐘を打ち、血流の勢いよく流れる音が頭の中で跳ね回った。だが、横を見ると驚いた顔をした神主と目が合った。そしてきちんと布団に寝ている自分に気付いて、ようやく儀式が終わったと気付いた。


「……大丈夫ですか?」


 意識を取り戻した晴助を見て、神主は心配そうに尋ねた。晴助は呼吸を整えているのに必死で、神主を見やりながら片手を少し挙げて応えた。


「いやー、丸一日正体なく眠りこけるもんだから、気を揉みましたわ。気分はどうですか?」


 続けて神主は聞いてくる。晴助は儀式の夜の事を話したくて舌がもつれる程だが、今目の前にいる当の本人に、儀式の内容は他言無用です、もちろんわしにも、と幾分怖い顔で念押しされていたのを思い出し、儀式の夜の事をあれこれ言うのは諦めた。


「……儀式は終わったんですか?」

「ええ、多分。ところで、腕はどうですか?」


 神主の口ぶりから、腕の様子を確かめて儀式は終了という事なのだろう。腕?晴助はそれを聞いて、腕の事を今まで忘れていた自分の迂闊さに驚いた。慌てて腕をじっくり眺めてみた。腕の付け根に少し痛みは有るが、思ったほど違和感は無く、自由に動かす事が出来た。多分この腕は、あの部屋を這ってきた真っ黒い腕なのだろう。しかし、実際自分の体にそれが付いてみるとそれほど異物感も感じず、本来の自分の腕と遜色ない気がして、晴助は自分でも驚くほどこの事を冷静に受け入れる事が出来た。なるほど、あの狛犬の言ってた事はあながち間違いではないみたいだ、確かにこれは周到に準備された腕であり、儀式であり、思い掛けない俺の運命だったのだろう。心配そうに眺める神主の前で手の平を握ったり、開いたりして見せて


「大丈夫みたいです。」


 と晴助は言った。神主はそれを聞くと背筋をしゃんと伸ばし


「これにて、黒手の儀式終了です。お疲れさまで御座いました。」


 そう言うと深々と頭を下げた。その所作の美しさと頭の低さに虚を突かれた晴助は、咄嗟に言葉が出てこず、口をもごもごさせながら自分も頭を下げるのが精一杯だった。


「さあ、お腹が減ってませんか?別室にお粥を用意してありますので、さあ、さあ。」


 神主は布団から立ち上がる晴助に手を貸し、そのまま抱える様にして晴助を別室に連れて行った。


 ・・・・・・


 晴助の家の前に子供が二人立っている。玄関の横の窓から中を覗き込むと、部屋の中はからっぽだった。子供たちはそのからっぽの部屋の中をしばし眺め、やがてあきらめて帰っていく。子供たちが帰ると玄関のノブに折り鶴がかかっていて、その折り鶴には子供のつたない文字が書き込まれていた。


 ——ありがとう

 ——はやくよくなってください


 儀式が終わって晴助は神社の隣にある旧社務所に引っ越した。この家には先代の黒手も住んでいたらしい。神社の近くに住むのが何かと都合がいいし、何よりここだと家賃が要りません、と神主に言われ、取りあえず職の決まってない晴助には渡りに船だった。この家には坪庭があって、晴助はその縁側で本を読むのがお気に入りになった。ある日、晴助がその縁側で本を読んでいると、そこにあの狛犬が姿を現したのである。

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