01.指を舐めてから紙幣を取り出すのはおやめください

「いらっしゃいませ」

 

 入店を告げるベルがカランと音を立てて、少年は反射的に笑みを作り挨拶をする。

 少年の名前はカイン。王立魔法学院エデンに通う17歳の学生だ。放課後の時間を使ってノディアーク書店でアルバイトをしている。

 働き始めてそろそろ1年が経とうとしていた。

 最初こそ初めてのアルバイトということで不慣れな部分があり、釣り銭を間違えては落ち込み、客からの注文を聞き間違えて全く別の本を取り寄せては半泣きになり、酔っ払いに絡まれては慌てていたカインだったが今ではほぼ完璧に仕事をこなすことができるようになっていた。些細なミスはするが、それを冷静に挽回できる経験と知識、という名の悪知恵を手に入れたのだ。

 今のカインの楽しみは閉店作業をしながら「今日も何事もなく終わった」と実感することである。

 しかし、そんなささやかな楽しみは何気ないお客様の行動によって奪われるものなのであった。


「ではこちら8点で6700ゴールドでございます」

「なあ兄ちゃん、いつも買ってんだからよお、ちょっとばかしマケてくんねえか?」

「恐れ入りますが当店はそういったサービスは行っておりません」

「へいへいお堅いねえ」


 2週間に1度の頻度でやってくるこの客は気さくなおじさんでこうしてお会計の際に店員に話しかけてくる。店長がいれば大体は相手をしてくれるが残念なことに今はカインしかいない。

 いつもの軽口にマニュアル台詞を返せば黄色い歯をにっと見せて笑う。

 人と接するのが苦手なカインにとってはこの会話も心の負担になるが、こっちにお喋りする気がないと分かればすぐに会話を切り上げてくれるのでまだ楽だった。

 えーと、と懐をまさぐりながらおじさんは財布を探す。カインは体の前で組んだ手に力を込めた。これから襲われるであろう不快感に耐えるための準備だ。

 目当てのものを見つけたおじさんは紙幣が入った部分を取り出しやすいように大きく広げた後、指を口元に持っていく。


ぺろり


 ぞわっと鳥肌が立ったのをカインは自覚した。

 おじさんは自分の指を舐めて湿らせてから紙幣を6枚数えてトレイに置く。小銭を何枚か出して財布をしまった。

 恐る恐る手を伸ばし、彼が触れていないところを触って枚数を数える。


「ろ、6700ゴールド丁度、頂戴致します」

「んーありがとさん」

「ありがとうございました」


 カランとまたベルが鳴ってお客様の退店を告げる。カインの体からどっと力が抜けた。それでも鳥肌は治まらない。

 カインはちらりとトレイに乗せられたお金を見る。不快感に眉間に皺が寄った。


「おああああ」

「どうした? 不細工な猫みたいな声出して」

「店長!」


 バックヤードからひょこりと顔を出したボサボサ頭の男、エノック店長の声を聞いてカインの心は急浮上する。


「これをなんとかしてください」


 ずいっとお金の乗ったトレイを突き出す。それを見たエノックは一瞬目を見張ったがすぐに合点がいったようで困ったような表情に変わった。


「あのお喋りおじさんが来たんだな」

「お喋りおじさんなんて可愛いもんじゃないですよ。魔獣指舐めおじさんです」

「魔獣て」

「スポンジ置いてるのに使わないんです。野生の獣と同じですよ」


 先程の光景を思い出したのかカインは背筋を震わせて顔を青くした。

 その様子を見てエノックは溜め息を吐く。


「はいはい、いつもみたいに綺麗にしとくからトレイ洗っておいで」

「ありがとうございます!」


 エノックの言葉に声を弾ませてお礼を言ったカインはカウンターにお金を落とし、空になったトレイを持ってバックヤードへ向かった。

 バックヤードには簡素なダイニングキッチンがある。店員が昼休憩を取るための場所だ。

 石を加工した流し台にトレイを置いて側面から伸びる管に手をかざす。魔力を込めるとちょろちょろと水が出た。

 適当に濡らした後に石鹸を泡立ててトレイの表面を洗う。また水を出して泡を落としてタオルで水気を拭き取れば終わり。

 カインは決して潔癖というわけではないが、こうすることで不快感が少しだけマシになるのだ。


「あれ、まだ終わってなかったんですか?」


 カインが店に戻るとカウンターにはまだ先程の紙幣と小銭が並んでいた。


「さっきお客さん来たし、それに君が戻ってくるの待ってたからな」


 エノックはそう言いつつ紙幣に手をかざす。


「君、俺が終わったって言ってももう1回ってせがむだろ?」

「まあ信用ならないので」

「やっぱり君、潔癖だと思うよ」

「そんなでもないですよ。それより早く」


 はいはい、と軽く答えながらエノックは魔力を集中させる。

 本来、この国の通貨は錆や劣化を防ぐために防水の魔法がかけられている。普通の水では湿らせることもできない。しかし、不慮の事故などで汚してしまったり破損させてしまうことがあるだろう。酷い場合は銀行で取り替えてもらうのだが、今回は見た目には汚れも破損もない。そういうときはどうするか。

 エノックの手がかざされた紙幣がじっとりと湿気る。小銭には水滴が浮かんでいた。じわじわと水気が広がり、カウンターの上はコップをひっくり返したような有様になる。

 カインはじっとそれを見つめる。少しだけ頬が緩んでいるようにも見えた。

 エノックはその表情を盗み見て笑みを浮かべる。そしてより一層、魔力を込めた。

 すると、まるで時間が巻き戻るかのようにぐんぐんと水気がなくなっていく。あっという間に最初の乾いた状態に戻っていた。


「ほいしゅーりょー」

「1回だけですか?」

「君が戻るまでに4回やったから今ので5回目。もう十分だろ」


 むっとするカインの肩をぽんぽんと叩いたエノックは本棚の方へ向かう。この魔法を使った後は必ず本の湿気を取りに行くのだ。

 エノックは青魔法を使う青魔道士だ。青魔法は水や冷気を司る魔法で通貨にかけられている防水魔法もこの青魔法の1種だった。彼はこの防水魔法を1度解いてから通貨を水浸しにしては乾かしを繰り返して洗濯する。

 防水魔法が解けるなら普通の水で洗えばいいのにとカインは思ったし伝えたこともあるが、エノックは笑いながら「自分で水が出せるのにわざわざ流しに持ってくのが面倒だ」と答えた。

 さらに言うと、濡らすだけなら青魔道士なら誰でもできるが『乾燥』させることができる青魔道士は珍しい。これは活字中毒のエノックが如何に本を長持ちさせるか考えた末に編み出した青魔法だった。

 この乾燥魔法を使いながらエノックは商品の状態を確かめている。それを横目にカインは洗濯されたお金を種類別に箱にしまった。

 やっぱり少しだけ気持ち悪くてあの魔獣が触れていないところをなるべく触るようにしてしまう。



 こうして今日1日、僅かな不快感を抱えて仕事をするはめになった。

 明日こそは何事もなく終われますように。そう祈りながらカインは入口にあるプレートを『CLOSE』へとひっくり返した。

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