第16話 身嗜みを整えて、いざ
冬空独特の晴天の朝。ヴェルザは念入りに髪を梳かして、鳶色の長い髪をきっりと結い上げる。近頃は手を抜きがちにしてしまっている化粧も、念入りに。
昨夜のうちに手入れをしておいた上質の服を身に纏い、鏡の前に立って、くるくると体を回したり、顔を覗きこんだりして、おかしなところがないかを入念に確認。よし、近衛師団時代のスヴェルズレイズ・ステルキに変身出来ている。
しっかりと身支度を整えたヴェルザは、連泊しているうちに随分と親しくなってしまった宿の主人に挨拶をして、出かけて行った。
宿を後にしたヴェルザが向かったのは、水の都と称されるアーサヴェーの彼方此方にある船の停泊所の一つ。これから船に乗って、王都を分断するように流れる川の上流にある小島を目指すのだ。
その小島は王族が所有している土地で、何代か前の国王が外国から迎えた王妃の為に建設したという宮殿がある。居住者がいなくなった宮殿は改装されて、現在は一般人も訪れることが出来る美術館へと姿を変えたその場所で、ヴェルザはヒミングレーヴァ王女と話し合いをすることになっているのだ。”自滅のワルツ事件”のごたごたで碌に挨拶することもなく地方へと左遷されて以降、久方振りに拝謁するので、ヴェルザはとてつもなく緊張していた。そわそわとして落ち着かないヴェルザを乗せた船は目的地の島に到着し、心なしかぎくしゃくと動く足でヴェルザは船着き場に降り立つ。手にした懐中時計を覗けば約束の時刻まで少しばかり余裕があったので、仕事以外では訪れたことがないこの場所を散策していることにする。
この国の雪に閉ざされる昏く長い冬とは違い、それほど雪が積もらないという南の或る国の建築様式を模して建てられた宮殿には、広々とした庭園が設置されている。季節柄、花壇には色とりどりの花は植えられていない。然し、適度な高さに切り揃えられて、形も整えられた常緑樹が花壇ごとに様々な刺繍紋様を描いていて、庭園に美を添える。庭園に張り巡らされた水路には貯水池から引いてきた水が流れ、それはやがて一箇所に集まり、噴水となって、人々の好奇心を刺激してくれるのだ。宮殿内に展示されている美術品は勿論だが、この国ではあまり見かけない様式の庭園を目当てにやってくる者も多い。
庭園の風景を楽しんでいるうちに時は過ぎ、手中の懐中時計を覗きこめば、約束の時刻が迫っていることを教えてくれる。ヴェルザは足早に宮殿の内へと移動して、顔見知りの職員に用向きを伝えると、或る人物を呼んできてくれた。
「久方振りだな、ステルキ」
「お久し振りで御座います、ベルググレイン少佐。知人から伺っておりましたが、本当にヒミングレーヴァ王女殿下付きの中隊長を務めていらっしゃるとは……」
近衛師団に配属されたばかりの新人は教官について、様々なことを学んでいく。ベルググレインはヴェルザの教官を担当していた人物だ。顔回りを囲むように生やした髭を撫でつけながら、不敵な笑みを浮かべているので、ヴェルザは思わず背筋をピンと伸ばしてしまった。
「ステルキが戻るまでの中継ぎだと聞いたので引き受けたのだが、このまま続けていくことになりそうだな」
「はあ、申し訳ないことを致しまして……」
「気にするな。優秀な人材に軍から去られてしまうよりは良い。さて、行くか。王女殿下が首を長くして待っていらっしゃるのでな」
ベルググレインの後について、豪華な装飾で彩られた宮殿の廊下を進んでいき、一般人が入ることのできない区域に入り、やがて”第一館長室”と書かれた表札のある部屋の扉の前で足を止めた。
「王女殿下、ステルキ准尉を連れて参りました」
「どうぞ、お入りになって」
凛とした女性の声に促されて、ヴェルザはベルググレインと共に部屋の中に足を踏み入れる。宮殿の中で最も落ち着いている色彩の館長室の窓際に佇んでいた妙齢の女性は二人の姿を認めると、にっこりと気品に満ちた笑みを浮かべた。彼女の傍に侍っている女性士官レインストラウム少尉はヴェルザに向けて、にこやかに会釈をしてくれた。
「あら!想像していたよりもずっと顔色が宜しくてね、ヴェルザ?」
青を基調としたドレスを着た、黄金の髪の女性――第三王女ヒミングレーヴァは軽やかな足取りでヴェルザの許までやって来るなり、そんなことを言い放つ。頭一つ分ほど下からねめつけるように見上げてくる緑色の瞳にたじろいでいると、ベルググレインが着席するようにと促してくれたので、ヴェルザは安堵の息を吐く。
「積もるお話が山のようにあるものだから、どのお話から切り出そうかと悩んでいたところよ。ヴェルザから切り出してくださっても宜しいのよ?でも、先ずはそうね……リョーゼイ、お茶とお菓子を用意してくださるかしら?勿論、貴女とファールキの分もよ」
「畏まりました、殿下」
ヒミングレーヴァは信頼を置いている人物を、姓ではなく、個人名で呼ぶ。新参者のベルググレインをファールキと呼んでいるので、彼女と彼は短い期間で信頼関係を築けているようだ。用を言いつけられて一旦部屋から出ていく嘗ての部下の背を眺めていると、対面の席に着いたヒミングレーヴァが居住まいを正したのが視界の端に映ったので、ヴェルザは顔と目の向きを戻す。
「わたくしのヴェルザが好奇の目に晒されるのが嫌で、こんな所に呼びつけてしまったの。此処なら人払いも出来るし、何方かの醜聞欲しさに耳を欹てる方々もいらっしゃらないから。後で、お財布係のファールキに船賃を請求しておいて頂戴ね?わたくしの身勝手な要望に付き合わせたのだもの、貴女に払わせる気はなくってよ」
「畏まりました、姫君」
新しい中隊長殿はお財布係も兼任しているらしい。ヒミングレーヴァの斜め後ろで佇んでいるベルググレインをちらりと見ると、彼はやれやれと言いたそうな表情を見せていた。
「……さて、と。どのお話からと悩んでいたけれど、やはり、このお話から始めないといけないわね。近衛師団に、わたくしの傍に戻らないと決めた理由を貴女の言葉でしっかりと伝えて、わたくしを納得させて頂けるかしら?」
力強く頷いたヴェルザは誠意をこめて、理由を述べていく。ヒミングレーヴァは茶々を入れることもなく、真剣に耳を傾けてくれる。話し中であるからと音を立てずに戻ってきたレインストラウム少尉は卓上にお茶とお菓子を並べ、主君の背後に立っているベルググレインにもお茶を差し出してから、ヴェルザの背後に侍った。
「……分かりました。生半可な気持ちでないことが知れて、良かったわ。残念だったわね、ファールキ。王太子付きの大隊に戻れそうになくて。これからも生意気で世間知らずな王女のお守りが続くのだそうよ」
「そのようで御座いますね」
努めて冷静であろうとするベルググレインの様子が愉しいのか、ヒミングレーヴァが意地の悪さを滲ませた笑みを浮かべた。
「わたくしはもう何も言わないけれど、他の方々がヴェルザを大人しくロスガルジ小隊に戻してくださるかしら?ほら、軍の皆さんは貴女の後ろにいるクヴェルドゥールヴが怖くていらっしゃるのでしょう?」
「正当な理由で処分を下されたのであれば、あの方々は決して踏み込んではいらっしゃいません。今回はそうではございませんでしたので、少々、口を挟まれたのかと存じます。ところで姫君、無理を承知で申し上げるのですが、姫君から軍の人事部に口添えを……」
「すると思うの、わたくしが?」
「いいえ、全く。くだらない冗談を申しまして、失礼致しました」
ヴェルザとヒミングレーヴァの会話を静かに聞いている二人の士官は、彼女たちに分からないように笑う。
「……本当はね、貴女が突然いなくなってしまって、どうしたら良いのか分からなくて、心細くて……だから、貴女に戻ってきて欲しかったの。成人しているにも拘らず、幼い子供のように駄々をこねて、貴女も王太子殿下も困らせてしまったこと、申し訳なく思っているわ。御免なさい。でもね、貴女が育てた部下の皆さんは変わりなくわたくしを支えてくださるし、貴女ほど気は回らないけれどファールキともどうにかやっていけているわ」
意見が合わなくて対立しても、その場でお互いを罵り合ってスッキリして、不平不満を引きずらない、次に持ち越さない協定を結んでいるのだとヒミングレーヴァは語り、ベルググレインも「そうですね」と答えた。どうやら二人は喧嘩友達のような関係に落ち着こうとしているのかもしれないと感じたヴェルザが苦笑する。
「今日、貴女がきちんとわたくしにトドメをさしてくれて、吹っ切れました」
寂しそうな笑みを浮かべたヒミングレーヴァがヴェルザを真っ直ぐ見据える。
「これまでわたくしを励まして、見守ってくださって有難う。貴女がわたくしの傍にいてくれたから、小心者のわたくしが強気になれて、どんな困難にも立ち向かっていけたのよ。その勇気は未だ、わたくしの胸の内に住み着いてくれている」
新しい中隊の皆と宜しくやっていけているから、ヴェルザはもう自分のお守りをしなくても良いのだと語るヒミングレーヴァを、ヴェルザは優しい目をして見つめる。
「ヴェルザ、新しい場所でもどうか心穏やかに。貴女の新しい職場にわたくしが赴くことがあったのなら、その時は挨拶をしてださると嬉しいわ」
「勿論で御座います、姫君」
楽しいお話という名前の職場の愚痴を聞かせてね、と言ってから、ヒミングレーヴァはレインストラウムに「例の物を此方へ持って来てくださるかしら?」と用を言いつける。銃撃を受けても壊れそうにない金属製の鍵がつけられた金庫の中から赤いベルベットの小箱を取り出すと、レインストラウムは蓋を開けて中身を見せるようにして、ヴェルザに差し出した。
「姫君、此方の御品は……?」
小箱の中身は、色とりどりの宝石を花の形に配置した銀細工の胸飾り。何の意図があるのかと訝るヴェルザに、ヒミングレーヴァは柔らかく微笑む。
「わたくしから貴女への感謝を形にしたものよ。貴女、女性らしい恰好が似合わないと言って常に男装をされるでしょう?職業柄、動きやすさを重視した服装を好むということもあるのだろうし、よく似合っているから止めなさいとは言わないけれど。それに宝飾品も身につけないでしょう?だからね、胸飾りくらいは派手なものをつけても宜しいのではなくて?普段使いには向いていないかもしれないから、ここぞという時に身につけてくださると、わたくしは嬉しく思うわ」
王族の警護をする近衛師団の一員であった頃はヴェルザは服装にはとても気を遣ったが、装飾品にはあまり頓着しなかった。殆ど男装をしている彼女が常に身につけるのは、シンプルな金細工の耳飾りくらいで、それ以外の物を見つけなければならない時は、その都度、クヴェルドゥールヴの養母やアルネイズに借りていた。
「有難く頂戴致します、姫君」
こんなにも高価なものを頂いても良いのかと逡巡するが、ヒミングレーヴァがヴェルザのことを考えて用意してくれたものだ。断るのは失礼だとして、彼女は両手で胸飾りが入った小箱を受け取り、早速身につけてみる。レインストラウムが気を利かせて手鏡を持って来てくれ、鏡に映る自分を見ながら調整しているヴェルザを、ヒミングレーヴァは満足そうに眺める。
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