第15話 眼鏡に食欲を足すとハルジ

 帰り支度を済ませた露店の店主が貸してくれたランタンと、街灯の明かりを頼りに、ハルジは麗人に背負われて新市街の道を行く。昼間はあれほど人で溢れていた街は夜になると一気に人手が減り、明かりがあっても、極端に音の少ない闇と静寂の街をたった一人で歩いていたなら、きっと心細くなっていたことだろう。其処の角から強盗が現れたらどうしよう、露出狂が現れたらどうしよう、其処の川から魚人が這い上がってきたらどうしよう、と。


(女性に背負われるのは生まれて初めてだ……)


 冬の初めの冷たい夜風や川からやってくる冷気に触れて、衣服に覆われていない部分の熱が奪われていく。そんな感覚があるのに、捻った足首と触れ合う背中と腹の間だけが熱を保っているようにハルジには感じられる。


「……重たくはないですか?」


 ぎりぎり小柄ではない男性のハルジを背負って、つかつか歩いている麗人に声をかける。


「失礼ながら、カウピさんは体重が軽いので苦ではないですよ。自分よりもずっと体重もある泥酔した男性を一人で運んだことがあるのですが、その時の重さに比べたら、もう、羽根のよう……とは申しませんが、かなり楽です。大人しく背負われていてくださいますし」


 泥酔した人を運ぶのは大変ですよ、重いし、暴れるし、大声で訳の分からないことを叫ぶし。彼女は前を向いたまま、明るい声で答えてくれる。


「……そうですか。あの、先程の手腕や、職業柄王都の地図が頭に入っていると仰っていましたが、どのような職業に就いていらっしゃるのですか?」

「う~ん、現在は諸事情により宙ぶらりんな立場にありまして、暇を持て余した軍人という表現が妥当でしょうか。ところで、おんぶの具合は如何ですか?上下の揺れがきついとか、体が硬くて抱きつき心地が悪いとか……」

「この上なく安定していて、乗り心地が良いです」

「あははっ、それは良う御座いました」


 ハルジが持っている軍人の印象は、態度が横柄で、物言いがきつく、脳味噌が筋肉で出来ているが故に理性より本能で行動しがち、といったもの。職場である特別会計室や、実家にやって来る軍人の殆どがそうだった。

 けれども、顔も良く見えない、自分よりも背の高い、この女性軍人は雰囲気も物言いも柔らかくて、警戒心を抱き難い印象を受ける。この奇妙な感覚には覚えがあるが、疲れ切った頭では詳細は思い出せない。


(かなり長く背負われていますが、彼女は全く疲れていないようですね。流石は軍人、体力オバケ……)


 誰かに背負われるなど、何時以来か。多忙を極めていた父親に背負われた記憶は、ハルジにはない。祖父にしてもらったのか、年の離れた長兄或いは次兄、はたまた使用人の誰かだったのか。


『あんなに沢山食べるのに、どうしてこんなに軽いんですかね、ハルジは?お腹の中が別の世界にでも繋がっているとか?』

『どうしてそんな発想になるんですか……?面白い人ですね、君は……。愛想も無ければ、共感性もない僕に構うのだから、変人ですよ……間違いなく』

『俺もハルジを面白い人だと思ってますよ、はははっ』


 いつだったか、グラス一杯の葡萄酒で酔っぱらって動けなくなったハルジを背負って、独身寮まで送り届けてくれた人物がいた。不意に思い出した、背の高い、鳶色の髪の青年の背中も温かかった。




「――カウピさん、御実家に到着致しました」


 声をかけられて、ハルジの意識が浮上する。麗人のがっしりとした広い背中が与えてくれる安心感が眠気を呼び寄せ、眠ってしまっていたらしいと自覚して、ハルジの頬が赤くなる。


「……有難う御座います、大変助かりました」

「どういたしまして」


 捻った足首に気を配りながら、麗人は背負っていたハルジを石畳の上に下ろしてくれる。


(改めて見ると、随分と背の高い女性だ。長身と言われる男性にも負けないくらいではないかな……)


 実家の玄関にはガス灯の明かりが点いており、目の前に立っている彼女との身長差がよく分かる。人によって小柄と称されるハルジよりも彼女は頭半分以上、背が高い。


「それでは、これにて失礼致します」


 こんな風に親族や仕事関係以外で誰かを見上げるのは久しぶりだ、と、ハルジが呆けていると、麗人は敬礼をして、踵を返す。


「あ、待ってくださいっ」

「うん?どうされましたか?」


 ハルジは慌てて彼女を呼び止めたものの、何か理由があってそうした訳ではなかった。それではどうして、そんなことをしたのか。自分がとった行動なのに、分からない。


「え、あ、あの……ああっ、そうです、きちんと名乗っていませんでしたし、命の恩人である貴女の御名前も伺っていなかったと思い出しまして。僕はブリュンハルズ・カウピと申します。貴女の御名前は……?」

「恩人と仰って頂けるほどのことは致しておりませんので、照れてしまいますね……。私はスヴェルズレイズ・ステルキと申します」


 びしっと敬礼する彼女の名前を耳にして、ハルジはびしっと固まる。


「……若しや、近衛師団のステルキ准佐……ですか……?」

「元近衛師団のステルキ元准佐であります。現在はしがない平の軍人です。あらら……私を御存知でしたか。何処かでお会いしたことがありましたか?」


 そうなのだとしたら、顔と名前を憶えていなくて申し訳ないと詫びる麗人に、ハルジは勢い良く首を左右に振る。普段しない動作に、首の筋をちょっと痛めた。


「いえ、初対面です。財務院に勤めておりまして、噂を耳にしたことで一方的に存じております……いや、そうではなくて、あの……アトリ・ステルキのお姉さんの、スヴェルズレイズさんですか?」

「……アトリを、弟を御存知でしたか」


 明かりがあっても、ハルジの目では彼女の表情までは分からない。彼女を呼び止めて、彼女が誰であるのかを確認して。その次にとる行動までは考えていなかったハルジが沈黙に耐えられず、何とか言葉を紡ごうとした時、玄関の扉が開いた。それに反応して、二人は其方に顔を向ける。


「……おじさんたち、だぁれ?」


 空いた扉から顔を覗かせているのは、ハルジと同じ巻き毛の黒髪をした、可愛らしい幼女だ。玄関先で話し声がするのが聞こえたようで、好奇心が刺激された彼女は鍵を開けて、扉を開いたようだ。然し、扉の向こうにいたのは幼女の知らない二人の大人。彼女が警戒心を露わにするのは当然だ。


「や、やあ、ダグメル、こんばんは」

「しらないひと!やだ!」


 ぼんやりと見える輪郭と声で、その幼女が長兄の娘のダグメルであると気が付いて、ハルジは顔を引き攣らせながら声をかける。彼は笑顔を浮かべているつもりなのだが、使用頻度の低い表情筋が強張っていて、より不審者感を醸し出している。 ダグメルが拒絶するのは無理もない。


「こら、ダグメル!勝手に扉を開けるんじゃない!泥棒が入ってくるかもしれないし、危ない人に攫われてしまうかもしれないと、お父様がいつも言っているだろう?」


 食堂から飛び出していった娘を追いかけて表に出てきたのは、ハルジの長兄リーヴァルだ。四十路も近い年の紳士はしかめっ面をしている愛娘を抱き上げると、突っ立ったままでいる二人に気が付いた。


「……おや、何方様ですか?」

「貴方の末弟のブリュンハルズです」

「は?…………あっ、ハルジ!到着が随分と遅いから、腹を空かせ過ぎて何処かで倒れているのかと心配していたよ!」


 常に眼鏡をかけているハルジを見慣れている彼らは、眼鏡をかけていないハルジが赤の他人に見えたらしい。ハルジを構成する要素で最も割合を大きく占めているのが眼鏡なのだということを、ハルジは初めて知った。若しかしたら眼鏡がハルジで、ハルジの体が眼鏡を置いている台座だと思われているのでは。そんな気がしてきて、彼は思わず長兄を睨みつけてしまった。


「え、え~と、それでは私は失礼致します。どうぞ、楽しいお食事会を」

「あ、有難う御座います……?」


 夜の街を女性が一人で歩くのは危ない。我に返ったハルジがそう告げようとしたが、長身ゆえに歩幅が広い麗人の姿は、あっという間に闇の中に溶け込んでいってしまっていた。


「ハルジ、今の方は?」

「市場で男女二人組の犯罪者に絡まれているところ助けてくださり、足首を捻った僕を此方までおんぶで送り届けてくださった平の女性軍人さんです」

「……情報量が多いな。冗談を言うなら、もう少し整理して言いなさい」


 冗談などではなく、真実なのだが。それよりも、眼鏡をかけていないだけで長兄や姪に他人扱いされたことの方が、ハルジは冗談であってほしかった。まさか、他の家族も同様の反応をするのではと、嫌な想像をしてしまう。


「全く、腹が空きすぎて頭が回らないのだろう、早く中に入りなさい」


 長兄は抱き上げていた愛娘をおろして、ハルジを支えながら家の中に招き入れた。

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