階段を駆け下りる音がした。続いて俺も階段を下りる。急ぎながらも、手すりを握って足元に注意を払うのを忘れない。

 廊下に下り立ち、辺りの気配を探る。人の気配も霊の気配も感じない。耳をそばだてていると、家の奥から音がした。ゆっくりと奥に進む。左に折れて続く廊下から、少年が姿を現した。少年は、廊下の先にいる何かを見つめながら、ゆっくりと後退ってきた。

 少年は俺に気付くと、怯えた顔で俺を見た。その顔に、ちょっとだけ罪悪感が生まれる。少年は部屋には入れないらしく、扉に張り付きながら、怯えた顔で俺と廊下の奥とを交互に見ている。

『なんでこんな所にいるんだい? こっちにおいで』

 穏やかな優しい声がした。

 廊下の奥が見える位置まで来ると、少年の視線の先を追った。見ると、腰の曲がった小柄な老婆がいた。しわだらけの顔に柔和な笑みを浮かべ、しみの浮いた手でおいでおいでをしている。

『迷子か? 迷い出て来たんか?』

 少年は、声も出さずにただ首を振る。俺には少年が、この小柄な老婆を怖がる理由が分からない。

『嫌なんか? でもな、ここにおるのも良くないんよ。そうやろ? お兄ちゃん』

「えっ?」

 老婆に突然話を振られ、正直戸惑った。

 この人も生きていない。それは分かる。なのに、まるで生きているかのようにその声ははっきり聞こえた。

 生きていない人にこうもはっきり話しかけられたのは初めてだ。いや、少年から投げつけられた言葉を入れたら2回目かな。

『こっちさおいで。一緒に行こう』

 老婆は再び少年に向き直り、ゆっくりと近づいて行く。

 老婆が言う『一緒に行こう』はきっとあの世とかそういう所なんだろう。なんで少年がこの家にいるのか分からないけど、霊にとっては向こうに行く方が良いに決まってる。さんざん脅かされて、迷惑かけられた少年だ。連れて行ってくれるなら願ったり叶ったりだ。

 追い詰められた少年が、怯えた目で俺を見る。まるで、助けを求めるように。

「あの、ちょっと待ってください!」

 思わず、老婆と少年の間に割り込んで立つ。老婆の言うように、このまま連れて行ってもらう方がいいに決まっているのに、何故か体が動いた。

『なんだい?』

 老婆が首を傾げ、穏やかな声で問いかける。

「あの……この子、嫌がってますし……」

『あんたは、もう死んじまってるこの子が、ここにいてもいいと言うんかい?』

 老婆の声が少しきつくなった気がした。

「それはその……良くないんでしょうけど、この子にもなんか事情がありそうだし、無理に連れて行くのは……」

『そうかいそうかい。それじゃあ……』

 開いているのか分からないほど細い目が、うっすらと開いて俺を見た。その瞬間、肌が粟立つほどの悪寒がした。


『お前が代わりに来るかい?』


 老婆がしみの浮いた手を伸ばしてくる。頭のどこかで『危険』『逃げろ』の警報が鳴っているのに、体が動かない。

 老婆に腕を掴まれると思った瞬間、辺りが真っ白な光に包まれた。


『優輝は、聖子に許されてここにいるの。勝手に連れて行かせない』


 落ち着いた女の人の声。

『ギャアッ!』

 続くかすれた短い悲鳴。

 光が落ち着いた頃、眩しさに閉じていた目をそっと開く。老婆の姿はどこにもなく、代わりに真っ白な狐が座っていた。

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