9

青葉が生い茂り、日が伸びたなと感じられるようになった。昼間の日差しが強くなり、夜でもアスファルトに熱が残る。すぐそこに夏の気配を感じるのに、時折湿った冷たい風に吹かれるとああ、まだ春が終わったばかりだったかと思い出させられる頃。

私と陽さんは何かと理由をつけては会うようになっていた。

陽さんが私と会うということは旦那さんが不在ということで、それは旦那さんとの関係が上手くいっていないということを示していた。

笑っていてほしい守りたいなんて思うくせに、この日々が続いたらなんて思ってしまう自分がいた。陽さんの幸せを願うなら夫婦円満が近道だというのに。

自分の願いが何を意味して何をもたらすのかということをあまり理解出来ていなかったのかもしれない。ただただ悪戯に引かれあった糸に翻弄されることに陶酔していた。


「今日は飲んじゃおっかなぁ~。」


陽さんがナスの生姜焼きを頬張る私を見ながら、何か悪いことを企む子どものような目つきをする。

もう何度も夕飯をご馳走になりに来ているが、陽さんが飲みたいと言うのは初めての事だった。

保育所の勤務はシフト制で土曜日も出勤になる事があるらしい。日曜日は休園日になっているので、強制的に休みが入る。今日は土曜出勤をしてきているので、終末休みの人間の金曜日みたいな感覚なのかもしれない。


「いいんでない?皿洗っとくからお風呂入ってきたら?」


「いいの?寂しくない?」


子どものような扱いに間の抜けた声が出てしまう。自分の子どもが小さいからなのか、職場で小さい人間達の相手をしているからなのか、陽さんは時々私を5歳児にした。

他では絶対にされない待遇に私はいつも戸惑ってしまう。そして、それがあまり悪い気はしないということが更に私を戸惑わせた。お髭を生やしたおじさんも昔は子どもであるように、私の中の小さい私が嬉々として返事をしているようで、胸の奥の方が締め付けられた。心地よく甘く痺れる。


「光佑はご飯の時そばにいさせたがるんだよねー。一輝がいいなら行ってこようかな。」


頭の上で冷水の入ったバケツを突然ひっくり返されたような衝撃が襲う。白米を喉につまらせそうになる。


「私、旦那じゃないし。」


「そうでした!ちょっと行ってくるから待っててね。」


やっとの思いで悪態をつくが、去り際にぽんぽんと頭を撫でられたらどうでも良くなってしまう。

静まり返るリビングにここは私の居場所ではないことを痛感させられる。私が座っているこの椅子も箸も食器も普段は誰かのもので、他人が築いた愛の形の隙間にただ入っているだけなんだ。

唐突に呼ばれた男の名前が脳内を漂う。

私は旦那じゃないが、じゃなかったら私はなんなんだ。

蛇口からこぼれ落ちた雫がぽたぽたと音を立てていた。


お風呂から上がった陽さんと座椅子に腰を下ろしテレビを観る。園長の物真似や子どもの面白かった話など時間が許すまでこうして2人で肩をくっつけて話した。


「じゃあ、飲んじゃいま~す!」


「どうぞ。」


麦茶の入ったグラスと缶ビールを合わせる。私は自分の車で来ているので晩酌に付き合うことが出来なかった。陽さんが気持ち良さそうに喉を鳴らす。


「くぅ~!うまいです!」


「よかったねー。」


「一輝はお酒強いの?」


「別に普通だと思うよ。陽さんは?」


「なんかねぇ、最近弱いかもっ。元からそんなに飲める方では無いんだけど、子ども産んでからもっと弱くなった気がする!」


「え?飲んで大丈夫なの?おつまみかなんか買ってこようか?」


「やだっ。…ここにいて。」


そう言って陽さんは床に着いていた私の手をぎゅっと握りしめた。そしてぐびぐびとビールを呷る。

本質的なことは互いに隠したままだが、2人の距離の縮まり方は恋仲のそれで、肌が触れ合う頻度は日に日に増していた。何か理由をつけては触りたかったし全てをぶちまけてしまいたかった。

しかしそれが出来るほど互いに子どもではなかった。

深海にでも沈んでいくかのように進めば進むほど光は遠ざかっていった。


「光佑はさー、あんまり飲ませたがらないんだよねー。」


「え?まじで大丈夫?アルコール分解できない感じ?」


「へぇ?アタシ、バカだからそういうの分かんないってぇ。なんかねぇ、酔うとしつこいんだって。」


「しつこい?」


「アタシちゅーするの好きなんだけど、酔うとそういうのがしつこくなるんだって!ちょっとぉ!言わせないでよ!」


「いや、私何も言ってないし。」


「なぁに?してみたくなった?」


だから何も言ってないし。

けれど目が口ほどに物を言っていたのかもしれない。屈託のない笑顔に当てられる。

この人は一体何処までの何を望んでいるんだろう。私が女とするって見透かされてるんだろうか。これで本当に押し倒してしまったら、このすっかり信用しきった瞳は恐怖に歪むんだろうか。

恐れ戦き涙ぐむ陽さんを想像して生唾を飲み込む。

それも、あり。


「したくなったって言ったら。」


「えー。どうしようかなぁ!」


「最近旦那さんとした?」


「んー?なにをー?」


「セックス。」


「あー!一輝はセックスって言うタイプなんだ!なんかえっちー!」


「他に何て言うの?」


「アタシはエッチ派!なんか照れる!」


陽さんの頬が少し桃色に染まってきていた。本当にお酒が弱いようだ。

両手で缶を包むようにして持ち、白のTシャツワンピから覗かせた足の親指を擦り合わせ、体を丸めてくすくすと笑っている。

どんな顔で誘ってどんな声で求めるんだろう。その小さな体で男を迎え入れるのかと思ったら背筋に細かな鳥肌が立つのがわかった。

そっと頬に手を伸ばしてみる。

こっちらをゆっくりと見上げた陽さんの瞳には余裕があり、口角が艶っぽく引き上がる。



「一輝、私の事好きでしょ。」


「随分と自分に自信があるんだねぇ。」


「顔に書いてある。」


「そっちだって。」


頬からするりと首筋を撫であげる。それでも陽さんはじっとこっちを見つめるだけで、私を試しているかのような瞳に絡め取られる。

飲み込まれるような感覚に怯えを抱き、そっと小さな耳に指を伸ばした。


「ひゃっ、もう!耳弱いって!ねぇ…!んっ」


余裕は消え去り、首を捩る陽さん。眉をしかめてこちらを見やる。私の手が表情を歪ませたのかと思うと情欲が煽られた。


「嫌なら逃げて。」


「分かんないよっ」


「かわいい。」


小ぶりな耳を挟み、小動物でも撫でるように優しく触る。指先に慈しみを込めて。耳のヘリを指の腹で撫でる時が陽さんは一番肩を震わせた。


「はぁっ…ねぇっ…一輝っ、女の人とこういうことするのっ」


「さあ。キスしてみたいんだっけ?してみようか?女同士は回数に入んないんだってよ。」


「分かんないっ…んっ」


「外国人の挨拶みたいな感じだよね。」


まるで自分に言い聞かせるように空間に言の葉を散らす。欲しくて欲しくて堪らない。頭が淀み視界が滲む。思考が霞みがかって何も考えられない。下腹部に熱い血が流れ落ちていく。


顎を掴みこちらを向かせる。髪が揺れる度に柑橘系のさっぱりとした匂いが舞う。

半開きになった口からは吐息が漏れ、熱っぽい瞳と見つめ合う。

腰に手を回すも嫌がるような素振りは見られなかった。かといって、受け入れるような柔らかさもそこにはなかった。


私じゃだめなんだ。

分かっていながら迫ったくせに今更その事実に胸を抉られる。

笑い話にするなら今しかない。冗談だよと高笑いして手を離せ。そして、からかうなってまた怒ってもらうんだ。

明日からもまた夕飯を食べに来る親しい人でいるんだ。


ああ、胸が苦しい…。


この人のこと、すごく好きだ。



ゆっくりと好きな人の唇に自分の唇を寄せていく。

どうにでもなれ。どうせならとことん軽蔑して嫌ってくれ。

吐息が唇にかかった時、固く目を閉じて欲望を重ね合わせた。

そこは柔らかく湿っていた。ビールの香りが体に流れ込む。

二つの肉体が交わり境界線がなくなって一つになるような感覚に身が痺れる。

そっと唇を離した時、陽さんが後頭部に手を回してきた。


「責任…とってよね。」


珍しく低く静かに呟いたかと思ったら、そのまま頭を引き寄せられ唇を奪われる。驚いて仰け反りそうになるも、力は強く体を離すことが許されない。

柔らかな唇に包み込まれる。リップ音が響く度に鼓膜が震わせられ、脳味噌が甘く痺れていく。

陽さんはキスをしながら器用に体勢を変え、いつの間にか私の上に跨っていた。柔らかな体に包み込まれる。体は熱く二人ともすぐにじっとりと汗をかいた。

唇を柔らかく弛ませながら角度を変えて何度も私にキスを落とした。小さな手に包まれた両頬に熱が集まる。

体から力が抜けてだらしなく口を開いてしまう。

陽さんはそれを見落とすことなく私の下唇を咥え込んだ。唇を柔らかく使って包み込まれる。唾液をふんだんに絡ませ優しくしゃぶられる。

この人、上手い…。

働かなくなった頭で過去のキスに思いを馳せるも、急にきつく吸われ思わず息が漏れてしまう。

やばい、やばい、やばい。

陽さんの両耳に手を伸ばし一番気持ち良いところをそっと擦る。瞬間、背筋を仰け反らせるが妖しげな瞳に見据えられる。やったなというように舌先を出し、ゆっくりと私の唇に這わせる。

温かな感触に子宮が悲鳴をあげる。叫びは全身を駆け回り、甘く痺れては体を震わせた。思わず足を捩ってしまう。陽さんの中心を刺激してしまった。


「あぁっ…一輝…きもちぃねっ」


甘く蕩けた声が降ってくる。しかめた眉がなまめかしい。理性が弾け飛ぶ音がした。


「やっ…一輝、そこだめって…」


「嫌なの?」


「んぅっ…きもちぃ…」


1番大事なところにするように耳輪脚を愛撫する。小さく尖った軟骨はさながら蕾のように真っ赤に染まる。

陽さんのキスに吐息が混じり、漏れる度に下半身が切なく涙を流した。


突然ガチャっと扉が開く音がした。慌てて陽さんは体勢を戻す。左手の扉から男の子が姿を現した。


「なんだ…光太か…」


陽さんがため息を吐く。私は慌てて身を隠そうとするもどこにも隠れる場所がないことに気が付き絶望する。


「大丈夫、見てて。」


陽さんが小さく呟くと、光太くんはテレビの前をふらふらと通り右手奥のトイレへと入っていった。


「寝ぼけてるの。面白いでしょ。」


陽さんは愛しそうに笑った。

御手洗を済ませた光太くんがまたふらふらと戻ってくる。

寝ぼけていると聞いて安心しきっていたが、不意に顔を上げた光太くんとばっちり目が合ってしまう。私は思わず声にならない声を上げてしまう。

そんな私に構わず、眠そうに目を擦りながらこんばんはと呟くとふらふらと部屋に戻ってしまった。


「か、顔見られた!」


「大丈夫、明日には覚えてないよ。」


「えっ?そういうもん?」


「うん。上はぼんやりしてるからねー。大丈夫。げっ電話だ!ちょっと静かにしててね!」



それは光佑さんからの電話でもう帰ってくるとのことだった。さっきまでの熱は嘘だったかのように、よそよそしく二人は現実の準備をした。

名残惜しくて名前を呼んでしまう。さっきの出来事が幻ではなかったか、確認をしたくなってしまう。


「陽さん、キス上手いね。」


「ふふん。見直した?一応お姉さんだからねぇっ。気をつけて帰るんだよ。家着いたら連絡してね!」


見送られながら車を出した。疲労感が心地よく全身を包む。車を走らせながら煙草に火をつけた。普段は車では吸わないが、どうしても今吸いたくなった。

お姉さんだからキスが上手いか。あんなこと言わなきゃ良かった。知らない過去があることが痛かった。それ程までに自分の中で陽さんの存在が大きくなっていた。

最後にもう一度キスしたかったな。言い出せずに飲み込んだ言葉が、喉に引っかかって取れない魚の骨ように、ちくちくと胸を刺した。

煙草から出た煙は上手く排気がなされなかったようで、私の目を刺激してはその痛みで涙を流させた。

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