8

車内は職場での愚痴で盛り上がっていた。二人は同じ保育所の保育士でパートとして働いているそうだ。

園長が底意地が悪く、それに続く主任もどうしようもないとか、挨拶をしない新人がいるだとか。2人の日常が浮かんできて私は何だか微笑んでしまう。

里恵さんにもお子さんがいてみんなで遊ぶこともあるらしい。夏はプールに行こうとかバーベキューをしようとかそんな話もしていた。

里恵さんを下ろして数分走った所で車は停車した。白い外観の2階建ての家の前だった。

陽さんのお母さんとの6人暮しで、今は21時だがみんなそれぞれの部屋に入っていて鉢合わせることはないとのことだった。

陽さんが静かに玄関の鍵を開けて私もそれに続く。悪いことをしているわけでは無いのだが、真っ暗な他人の家に上がり込むという行為は、泥棒になったようだった。

玄関には革靴やスニーカー、色とりどりの小さい運動靴やらが沢山並べられていた。


リビングに通され、ダイニングテーブルに着くように促された。室内は白を基調としていて、明るい雰囲気で所々に玩具やランドセルが転がっていた。

そこには確かに1つの家族の形があり、自分が場違いなのではないかと少し気持ちが落ち着かなかった。


「緊張してる?」


「いやっ。」


「あ、お風呂入る?汗だくだったでしょ?入っていいよ。ご飯あっためとく。」


「あ、やっでも…。」


「ん?使い方教えるからおいで。」


手招きされるまま席を立つ。陽さんには中々異論を唱えることができない。返答に悩んでいるうちに何だかんだで押し切られてしまう。


陽さんの後ろから風呂場を覗き、使い方の説明を受ける。本当に陽さんは小さい。頭も肩も手もみんな小さい。手を回したらすっぽりと納まってしまいそうだ。首筋にほくろを見つけた。ここにほくろがあるの陽さんは知ってるのかな。


「大丈夫そ?」


説明をし終わった陽さんが不意に振り返り、目が合う。風呂場を覗くために縮まっていた距離にどきっとする。


「ねえ!つむじ見てたでしょ!押さないでよね!つむじ押すとお腹壊すんだよ!てか、ちゃんと聞いてた!?」


陽さんが頭のてっぺんを抑えながら、キッと睨みつけてくる。ほくろに見惚れてたなんて言えるわけがなかった。今日はなんだか語気が強い気がする。何かあったのだろうか。


ささっとシャワーを借りてジムで着て帰る予定だったジャージに着替える。何だか至れり尽くせりで申し訳なくなってくる。そしてこの後手料理が待っているなんて夢のようだ。いやもしかしたら夢なのかもしれない。夢ならせめて夕飯をいただくまでは覚めないでほしい。


「おかえり。座って。」


テーブルにはいくつかの皿が乗り、中央の皿の上にはハンバーグが盛り付けてあった。


「うおおあ!これ食べていいんですか!まじかあ!」


「テンション高すぎ。こんなんでよければどうぞ。」


久し振りの手料理にテンションが上がってしまう。これが夢でないのだとしたら、久し振りの自分以外で、作った人の顔が分かる料理だ。料理にこんなに感謝したのは初めてかもしれない。


「ははっ!うんまあ!店出せますね!常連なりますわ!わざわざ私のために一つ多く作ってくれたの?」


「いや、旦那の分。飲み行くって夕飯出来てから連絡きたから。」


「そっかあ!何か、旦那さんに申し訳ないね。お弁当とかに入れなくて良かった?私食べちゃっていいのかなぁ。」


「弁当なんか持ってかないよ。いいよ。気にしないで食べちゃって。」


「そっかあ!私は明日も食べたい!毎食陽さんのハンバーグでもいいな!まじでめっちゃ嬉しい!うわあ!まじ、ちょーひさしぶりだー!うまあ!」


「なんか、アタシがハンバーグしか作れないみたいじゃん。」


「あ!そっか!じゃあ他のも毎日食べる!」


「なにそれっ」


そう言って陽さんは吹き出して笑った。さっきまでの仏頂面が笑顔へと変わっていく。目尻にシワがより口元から八重歯が見え隠れする。


「だって、まじで美味いし!ここの住人が羨ましー!長女になろうかな!」


「何言ってんのほんとにっ!何か一輝ってほんと面白い。不思議。」


「そうかな。ほんとのことしか言ってないし。食って大事だね。ご飯でこんなテンション上がったの初めて。」


「ふふん。アタシが初めての女だね。」


「うわー!なにそれ!意味深!」


陽さんは両手で頬杖を着いて、目を細めながら私の食べる姿を見ていた。

ここに子どもが座って、旦那さんが座って陽さんの作ったご飯を食べる。しかし、今は私が座っている。家族でも何でもない他人が。そして、このことはこの家では私と陽さんしか知らない。二人だけの秘密だ。別にジムで知り合った友達に呼ばれて夕飯を振舞ってもらっただけだ。けど、二人だけの秘密だった。


「ごちそうさまでした!まーじで美味かったあ!」


「お粗末さまでしたっ。そんなに喜んでもらえたら作りがいがあるわ。」


「専属家政婦希望。」


「はぁ?アタシ高いよっ!」


「払う払う。陽さんお風呂入る?」


「えっ。なんか恥ずかしいからいい!」


「え。なんで?」


「なんとなくっ!」


「お皿洗っとくから入ってきたら?エアロビ汗かくでしょ?」


「んー…。じゃあ、廊下出て階段上がって2階行ってて!電気のスイッチ、登りきったところの右手の壁だから!」


「はいよー。」


1人分の食器だがそれなりの枚数になっていた。家ではフライパンや鍋からの直食いが習慣化していたので、どんな食器が合うか選んで丁寧に盛り付けてあるというだけでも嬉しかった。


言われた通りに2階に上がると4畳程のリビングスペースにローテーブルとテレビが置かれていた。四方合わせて4枚の扉があり部屋が続いているようだった。

テレビ台には子どもの写真が飾ってある。男の子が光太こうたくんで、真ん中にいるのが陽菜ひなちゃんだろうか。その隣が2人に比べて背が低いので末っ子の光彩ひかりちゃんだろう。

光太くんと光彩ちゃんが柔和な笑顔を浮かべているのに対し、陽菜ちゃんはぎゅっと口を結んでいるようで表情が固い。

みんな小学生くらいだろうか。私も小さい頃はカメラを向けられる事が苦手だった。陽菜ちゃんがどういう訳でそのような表情なのかは分からないが、反抗期から来るものなのだとしたら親近感が湧いて微笑ましかった。

陽さん曰く、今陽菜ちゃんは相当手がかかる様なので、その口には意志の強さが現れているのかもしれない。


「おまたせ…。」


振り向くと不自然にそっぽを向く陽さんがいた。


「ん?どうしたの?」


「あんまりこっち見ないで。電気消す。」


「えっ、ちょっなんで!」


「しっ!後ろ子ども部屋!ねえ。ロウソクとかどうだろうか。あ、なんか仏壇みたいで雰囲気ないか。じゃあ、あの、あれ、あのー、匂いついたロウソクのやつ。」


「え?キャンドル?」


「そうそう!ね!お洒落じゃない?だから電気を消そう。」


「へ?いいけどあるの?てか、座ったら?」


「いいの!こっち見ないで!」


「そんな!滅相な!」


「何!難しい言葉使わないで!」


「座りなさいって意味だよ。」


「絶対ウソ!」


「うん。嘘。」


「もう何なの!バカにしないでよ!ハンバーグ返せ!」


「やだねっ。…陽さん。隣、来てほしいな…。」


観念したようで、陽さんが隣の座椅子に腰を下ろす。しかし、顔は見えないように俯いている。


「どうしたの?どこか痛む?」


顔を覗き込もうとすると押し返されてしまった。


「スッピンなの!」


「え?私もだよ。」


「一輝はいいじゃん。若いから。私メイクとると全然違うからさ…。」


なんだそんなことか。どこも痛くないなら良かった。陽さんの頬に両手を添えて上を向かせる。驚いて見開かれた目と見つめ合う。化粧を落とした陽さんは少女のようだった。普段が目の周りを囲ったメイクで強く見えるせいか、よりそう見えた。


「かわいい。」


「離してよ。」


風呂から上がったばかりで頬はよく温まっており、心地よい温もりが両手に広がる。柔らかくてふわふわだ。拒絶を示した言葉とは裏腹にじっとこちらを見つめてくる。腹を括ったのだろうか。中途半端に開かれた唇がいじらしい。私の手に寄せられて少しぽってりとしていた。


「何?ちゅーでもするつもり?」


「そうって言ったらどうする。」


「やれるもんならやってみろ。」


陽さんの琥珀色の瞳が挑発的な目の色へと変わる。口の端には余裕が戻ってきていた。

ねぇ、陽さん。知らないんだろうけど、この世には、女に欲情する女もいるんだよ。


「んっ…。」


私がゆっくりと陽さんの額に自分の額をくっつけると、陽さんはぎゅっと目を閉じた。


「ははっ。キスされると思った?」


「もう!大人バカにすんな!」


「期待した?」


「聞かないでっ。」


「かわいいね。」


「バカにしてるでしょ!」


嗚呼、本当に可愛い人だ。仙骨の辺りに切なくなるような甘い疼きが走る。もっと知りたい。もっと触れてみたい。

思わずまだ濡れた髪に手を伸ばす。


「なに。」


「髪乾かそうと思って。」


物言いたげな目がこちらを見つめる。

リスやチワワなんかと距離を縮めていくような感覚と似ていた。怖がらせないように怯えさせないようにそっと微笑む。


陽さんの後ろに回り込みドライヤーで髪を乾かしていく。舞い上がる髪からは私と同じ匂いがした。今日は髪も体も同じ匂いだ。そう思うと何だか照れてしまう。でも、よく考えたら子ども達とも同じなんだろうけど…。


陽さんの髪は短い為すぐに乾いた。スイッチを切ると背を向けたままこちらに寄りかかってきた。


「どうしたの?」


「今日ちょっと一輝に当たった。」


「そうなの?」


「旦那にイラついてた。」


旦那さんは最近飲みに行くことが多いらしい。帰宅はいつも遅くなり、陽さんが起きる頃に帰ってくることもあるそうだ。飲み会の代金も毎月相当な額であり、生活リズムがすれ違うようになり、話す機会も減ってきているとのこと。今日も急な飲み会の連絡がきてメッセージでやり取りをしたそうだが、中々思いを上手く伝えられなかったそうだ。


「アタシ、バカだからさー。何か上手く言えないんだよね。文になると余計に。光佑こうすけもそれ知ってて電話かけてこないんだよ。飲み会も付き合いだからしょうがないのは分かるけど…ちゃんと話し聞いてほしいっていうか…。」


「そっか…陽さんはちゃんと話したいんだね。」


「ごめんね。こんな話。一輝に関係ないのにさ。」


「話してくれて嬉しいよ。」


「家のことをだらだら愚痴るのもどうかと思って、あんまり周りには言えなくて…つい…。」


「大丈夫だよ。陽さんは本当は旦那さんに聞いてもらいたいんだよね。」


「うん…。アタシ、子どもみたいだね。甘えてるよね。」


「甘えなよ。私の前でくらい。子どもの前ではお母さんでいなくちゃだもんね。」


陽さんは私の肩口に顔を埋めた。頬に一筋光るものがあった。陽さんの体をそっと包み込む。小さな体は小刻みに震えていた。また声を我慢しているようだ。頭に頬をくっつける。くっついた所から陽さんが抱えた悲しみを吸い取れるように、隙間をなくしていく。


「ねえ、何で一輝はいつも私が欲しい言葉をくれるの。」


涙声で私に問いかける。涙は次々にこぼれ落ちて私の服を濡らしていく。その跡すら愛しかった。


「頑張ってるからかな。」


「頑張れてるかな、アタシ…。」


「とても頑張ってるよ。素敵なのに苦しそうなのが悲しいよ…。」


誰が悪いとかこうするべきだとか人の家庭のことに口出しをする気は無い。ただ、この人を守ってあげたいと思った。怪獣や悪党が蔓延っている訳では無いが、この人から笑顔が消えるのはどうにも胸が苦しくなって悲しかった。


「ねえ、何で一輝がそんな顔するのよ。」


陽さんが泣きながら笑っている。その表情が私の琴線に触れた。優しく爪弾くようでいて鋭利なものが私の心を引っ掻く。


「だって…。」


「泣かないの。」


そう言って陽さんは私の首にふわりと腕を回し、頬に落ちた涙に口付けた。

唇が触れたところから甘く痺れていく。

嗚呼、このまま時が止まってしまえばいいのに。いつまでも二人でいれたらいいのに。

私なら泣かせないのになんてそんな陳腐な言葉すら言えないけれど、私にもこの人を愛する権利が欲しいと思った。

互いの体温を確かめ合うように、時間の許す限りきつく体を抱きしめ合って泣いた。



旦那さんから連絡があったのは午前2時だった。呆れたように笑う陽さんはいつもよりも、もう一回り小さく見えた。私は月水金でジムに行くことと、辛い時は連絡してと言って三宅家を出た。

タクシーを拾うため大通りに出たが、未だに心臓がどきどきしている。いけないことに足を突っ込んでいるのかもしれない。もう会わない方が良いのかもしれない。

陽さんが戻れなくなると言った意味が今更分かった気がする。


けど…もう戻れない…。


あのひとが気になって仕方がない。

あのひとに近づきたくて堪らない。

せめて、私のいない所ではもう泣かないで欲しい。もう笑いながら涙なんて流さないで欲しい。


午前2時の道路にはすっ飛ばして消えていく代行くらいしか走っていなかった。車内から流れる景色は早く、青白い街灯に追いついては追い越していく。現実世界へと一気に引き戻されているようだった。

信号機は役目を終え、ただただ赤く点滅を繰り返していた。

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