7
目を覚ますと視界には見慣れた天井が広がった。ああ、夢かなどと都合の良い現実は訪れず、頭に残る鈍い痛みが全てを伝えていた。五感が冴えてくると自身から漂う煙臭が鼻をつく。
体を起こすと着の身着のままでソファに横になっていた。働かない頭でもそのままベッドに横になるのは避けたかったらしい。それともベッドに行くことも叶わなかったのか、真相は誰にも分からない。
水槽のベタがふわりと水中に浮かんでいる。時折泡を吐いては何をするでもなく漂っていた。人間の欲求の為だけに生まれてきた君は何を思う。その愚かさを知れば憤りで水を湯に変えるかもしれない。
シャワーを浴びる為、全身のポケットから取り出し忘れたものがないか探る。ズボンのポケットに手を突っ込んだ時、紙くずの様なものが手に当たった。過去に一度、ティッシュを入れっぱなしにして膝を着くほどの絶望を味わっているので、それからは用心している。もうあの絶望は繰り返すまいと紙くずを広げると、そこにはメッセージが書かれていた。
それはユミからのもので本名と電話番号が書かれていた。一夜限りで逃げ帰る私を見越しての
熱い湯を浴びると幾分か思考は晴れ、躊躇うことなく優美の幻影を葬ることが出来た。何らかの裁きはいつかの私に託そう。
スマホを確認すると時刻は15時だった。イベントから帰るといつもこうだ。太陽から逃げるように眠りにつくと起きる頃には日曜日は終わりかけていて、アルコールのせいで気だるさと慢心的な罪悪感を引きずっていた。
新着メッセージに個人からのものは無い。
陽さんは今何をしているのだろうか。夕飯の準備だろうか。それとも日曜日は家族で出かけているのだろうか。子ども3人を連れて歩くのはさぞ大変で賑やかで有意義なものなのだろう。喧嘩はするにせよ、生涯を誓い合った伴侶との日々はきっと幸せなものに違いない。絵に描いたような1つの幸せの形だ。私からは月のようにかけ離れている。
週末が終われば淡々と平日をこなしていく。うちの職場は若い人間が多く、幸いにも変に干渉してくるような者はいない。みんな自分で精一杯で誰がどうとか言い合う余裕はない。それぞれがそれぞれの表と裏を器用に使い分け当たり障りなく日々を終える。
車のフロントガラス越しに刺すような西日に目を細める。
職場には車で通っていた。専門学生時代にアルバイト三昧で買った黒のハスラーの中古だ。高校時代に培った体力を活かして、金を使う間もなく肉体を売り賃金を手に入れていた。使う間がないというよりも、10代の頃から社会に居場所を見い出せなくなっていた。
放課後遊びに行くような友達はおらず、どこか疎外感を感じていた。
誰の口から出るのも異性の話で誰がかっこいいとか、あの人と付き合いたいとかそこまでは何とか話に混ざれても、あそこの婦人科がどうとか体位はどうだとか20代の盛りきった者の性の話には混ざれなかった。
うっかり話を回された暁には上手く返答できずに処女扱いで引かれてしまう。
本当は女が好きで初体験は16の時だ!なんて、親鳥からの餌を温かな巣で大口を開けてぴーちくぱーちく奪い合う雛鳥みたいに、がなりながら自分の体験談を話すあの者達のように言えたなら、夕焼けが綺麗だよと写真を送る友達がいたりしたんだろうか。
レイもミコもプライベートには決して踏み込んで来なかった。それが三人の中の暗黙の了解になっていた。土曜日は現実のようで非現実的だった。
一度家に帰り車を置いてから用意をしてジムに通うようにしていた。ジムでは駐車料金が取られるので数百円をけちって数分の道のりを歩いた。
橙色の街灯に照らされた桜並木は葉桜へと変貌を遂げていた。時折生ぬるい風が首筋を撫でる度に、葉もわさわさとその生命力を揺らしていた。
陽さんにはあの買い物の日から会っていない。丁度すれ違いになっているようだ。何だかんだ言い訳をしては今日は来ますかというたった一言が送れずにいた。
人間は不思議で何か後ろめたい思いがある時は実行したくない理由がどんどん浮かぶ。青春時代に躓いたまま起き上がれていないのか、どんな時にどんな風にメッセージを送れば普通なのか全くわからなかった。
ジムの玄関の自動ドアをくぐり、蛍光灯が煌々と輝く施設内に入る。無意識に正面奥のダンススタジオを見通してしまう。今日は来てるかな、会えたらいいな、などと甘い期待を抱いてしまう。会ってどうしたいかはいまいち分かっていないのに。ただただあの雲一つない晴れた空のような笑顔が見たかった。その声で名前を呼んでほしかった。
今日は腕のトレーニングの日だ。淡々とトレーニングメニューをこなしていく。マシンの扱いにはだいぶ慣れたが、トレーニングをしている間は邪なことを考える余裕がない。自分自身の限界と向き合う時間だ。ある意味贅沢である。額に汗が滲み、力む度に息が漏れる。バーベルを握りしめる手には血管が浮き立ち女のものとは思えなくなっていた。
水を飲みながら、備え付けの鏡を見やった。私は背が高いだけではなく、骨格もしっかりしていた。痩せているけど華奢ではないという体つきで、肩はいかり肩だ。腰骨や膝は骨が出っ張っていて女の曲線というものがまるでなかった。
視線を上に戻した時、鏡越しに金髪の女の人と目が合う。
「うわっ!いつからそこに…!」
不意打ちで思わず大きな声を出してしまった。そこには私があげたTシャツを着た陽さんの姿があった。
「へへーん。いつからだろーねー?精が出ますなぁ。」
「あ、Tシャツ着てくれてるんですね。やっぱりその色似合ってます。」
「ほんと!?ありがとね!もう何回か着てるんだよー。一輝全然来ないんだもん!辞めたのかと思ったー。」
「来てましたよ!メッセージくれたらよかったのに…。」
自分だってできないことをまるで相手が悪いみたいに言う私の悪い癖。いい歳してきっと子どもみたいにみっともなく口を尖らせて野次っているのだろう。会えた嬉しさと浮かれるなと抑える気持ちとがぶつかり合って言いたくないことを言ってしまう。
「そうねぇ。何かドキドキしちゃうんだもん。」
「へ?」
「そもそもアタシあんまりLINEしないし!一輝思い出すと何かドキドキするの!」
「そ、それってつまりどういうことですか?」
「はぁ?難しいことはあんまり突っ込まないでよ!一輝!終わったらいっしょ帰ろ!慌てないで良いから最後までやっておいで。」
「へっ、あ、はい!」
返事はしたものの身が入るはずもなく、一連の会話の内容が頭の中でぐるぐると駆け回った。私がずっと連絡が出来ない理由に対して御託をこねくり回していたのに、彼女はたった一言ドキドキしちゃうで片付けてしまった。そしてその理由もあまり突っ込まないでと考えない選択をしたらしい。分からないことは分からないままにはっきりと割り切れる陽さんが清々しかった。
彼女が太陽なら私はきっと水溜まりのようなものだ。どんなに泥を淀ませていても陽さんならきっとからっと乾かしてしまうのだろう。
息を弾ませ更衣室に戻ると里恵さんと陽さんがベンチに腰かけて談笑をしていた。声をかけると二人とも笑顔で迎え入れてくれた。
「一輝、今日晩御飯食べていきな。」
「え、そんなっ。」
「一輝ちゃんご飯食べてないんだってー?陽に食べさせてもらいな~。旦那さん今日遅いんだってー。」
なるほどと納得すると早速2人は帰り支度を始めた。慌てて私も荷物をまとめる。全身びっしょりと汗をかいているがまごまごしている時間は無さそうだ。こんな時のためにボディシートを買っておくんだった。大きく膨らんだ期待が胸の中で渦をまく。ぱんぱんに空気が入った風船のようだ。それに触れれば訳も分からず泣いてしまいそうだった。
外に出るとむわっとした湿度の高い空気が体に纏わりついた。夏はそう遠くないところまできている。高鳴る胸をなだめるように思い切り空気を吸い込んだ。
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