3
結構付き合いの長い私と茜。けれど彼女の家に呼ばれたことは殆どなく、今までに一度として彼女の部屋に入り込めたこともない。だけれど今の彼女は私に頼り切っている。私しか、自分を救う人間はいないのだと、思慮の浅い茜は心の底から信じ切っているのです。
「おじゃましまーす」
彼女の家の中には驚くことに平穏が満ちていた。
結構顔を会わせたことがある茜の母親が玄関から見えるリビングで、掃除をしているみたいだった。空気もよどんでいる訳でなく、平日のお昼とも夕方ともつかない時間帯にどんな国の家庭にも訪れるような、一般的な退屈な普通が満ちていた。
あんなに、荒んでいる茜の家がこんなにも普通なのだ。
「ほら、こっち来てよ」
楽しげに笑う茜の姿に目を見張った。
もしや、彼女は両親へ迷惑を掛けない様にと、今自身の身に起こっていることを何も話していないのではないだろうか。あるいは、己の弱みを見せない様にと必死に炎上し学校でいじめられる側になったことを隠しているのではないだろうか
そうして、茜の健気さに鼻が詰まる。
感涙の涙が、零れ落ちそうになる。
「……」
階段を上る。
「茜?」
可愛らしい装飾の扉を黙って茜は開いた。
「ねぇ、茜?」
パタン。扉は閉まる。
「…………茜?」
初めて入った茜の部屋はすごく可愛らしい。女の子と言うものをそのまま映しだしたような、全体的にふわふわもこもことして、ところどころにパステルカラーが散った部屋。それから、彼女の匂いがこの部屋には充満していた。
気を抜けば、気をやってしまう。私はそう確信した。
「たすけて」
ぎゅっ。抱きしめられる。
変な声が出そうになった。
「ど、どうしたの?」
押し付けられる茜の身体。身長差から私の鼻を押し付ける形になった彼女の首元。
濃厚な茜の匂い。
もう、限界だと思った。
「たすけて、たすけてよっ」
向けられたスマートフォンの画面。
そこに映る『契約不履行の件について』の文字。あぁ、今彼女がどうして私のことを家に呼び、部屋を入れたのかを気付いた。
もう、駄目だと思った。
「仕事、切られちゃった」
私を抱きしめる茜が震えている。以前までだったら言っていたであろう「炎上させた奴の所為で」という言葉さえなくなっているのが、彼女の余裕のなさを表していて余計に私のことを苦しませる。
もう、歯止めが利かないと思った
「ねぇ、わたしはっ、どうしたらいいの」
彼女の少女趣味なパステルカラーな部屋の中、ふわふわもこもこなカーペットの上、彼女は涙を流している。
今すぐ襲いたいくらいに、可愛らしかった。
もう、タガが外れてしまったと思った。
「モデルはっ、わたしの、一生の、ゆめ、だった」
フルフルと可愛らしく震え、その癖私にはほんの少し依存している。
もっと、もっと泣かせてみたいと思うほど、茜の姿は儚かった
もう、襲ってしまおうと思った。
だから、ネタばらしをすることにした。
――わたしが、茜の人生を壊したんだよ。
「――えっ」
間抜けな茜の顔。かすれるような儚い声。
もうそれで、限界だった。
「あっは」
あぁ、なんて甘美なのでしょう。
最後まで、最後まで健気に信じていたのに、落ちぶれてもついてきてくれたと思っていた相手がまさか己を陥れた犯人だったと、きっと茜は思ってもいなかったでしょう。目を見開いて、茫然と口を開けている彼女の顔にはそんな事が書いてありました。
愛おしくて、狂おしくて、たまらない。
「……うそ、でしょ」
儚げで、茫然として、何の感情も感じさせない茜の声は私の心を昂らせたのです。
なんで、どうして茜はこんなにいじらしいのでしょう。そんな顔をしたら、そんな声を私に見せたら、もっともっと、どん底まで堕として虐めたくなってしまう。
瞳は長い間揺れ動いていて、まるで焦点はあっていない。私の言葉を耳に入れて、けれどそれを理解しようとせず健気に私の身体へと腕を絡ませる。嘘だ嘘だと錯乱し、言葉を漏らしている。
溢れかえる幸福感。これが絶頂であると、無意識に悟る。
感極まって流れた涙に、ようやく私が恍惚の淵に陥って崩れ落ちたことに気付く。
「――ひっ」
小さな悲鳴、先程よりもよく見える茜の顔。
あぁ、あれほど傲岸不遜な茜はこんなにも庇護欲掻き立てられる、嗜虐心を煽られる姿を見ることが出来るだなんて、思わなかった。
「茜、今までで、一番かわいいよ。あかねっ」
理性がまるで仕事をしない。怯え切って、泣き始めた彼女のことを押し倒してから、身体が別の生き物のように動いていた。
そう気付いたのが、私の最後の理性だった。
「逃げないでよ。私の愛を、受け止めてよ」
甘い匂いと怯えた表情。暴れる彼女と震える身体。
興奮と、理性を失ったがゆえに、私がなにをして彼女がどんな反応をしたのかもあまり覚えていない。茜が、私の愛をしっかりと受け止めてくれたのかも覚えていない。酷く残念なことをした。
私は酷く後悔した。
人生で愛を一方的に渡して、乱れて堕ちた姿を茜は見せていたはずなのに、興奮によって私はその姿を覚えてはいない。可愛らしいその唯一無二は記憶の外へ飛んだ。
思わず、飛び降りて死んでしまおうと思った。
「はぁぁぁぁ、もう、もうっ」
唯一、覚えているのは全てが終わった後の姿。
瞳の色は薄れて、必死に呼吸をしている茜の愛らしい姿。どこまでも無垢で残酷だった茜の中に染み込んだ、こびりつく濃厚な私の匂い。堕ちた天使を幻視した。
その時、私は背徳に陶酔しきっていた。
「なんて可愛いの、茜」
■
それから茜が学校に来ることはなかった。
当然、茜からすれば唯一の仲間だと思っていた私にさえ裏切られ、今の教室に彼女の居場所はない。彼女の人生が崩壊することを望んでこんな行為に望んだわけでは無い私は、周りの悪しき悪魔たちと違ってほんの少しの罪悪感を覚えてしまう。
そんな可哀そうな茜のことを想う度に笑みがこぼれてしまう。
同時に茜に合えない退屈な日々を苦しみながら過ごしていた。
だから茜が数カ月ぶりに高校に来たのはとても驚いた。
髪の毛もぼさぼさで、あれほど美しかった美貌も鳴りを潜め、どこか悪鬼のような雰囲気を持っていた。本当に声を聴くまでは、それが誰であるかさえ見当がつかなかった。
美しさも華やかさも、そこには一切なくてどうしようもなく悲しくなった。
それでも気付けたのは、茜の甘い匂いといまだに取れていない私の香りのおかげ。
私以外の人は誰もその幽霊のような姿をした茜が誰なのかを気付いていなかった。
本当に、哀れで、無様で、救いようもなくて、どうしようもなく心地が良い。
クラスの女王が、今やこの世ならざる異形のような様相で教室の中に立っている。久しぶりに、激情が爆発しそうになった。
それでも、ちょっとだけ可哀想で、だから私は声を掛けた。
「そんな姿でどうしたの?」
私が声を掛けると周りのクラスメイト達は不思議そうな表情をして私に顔を向けてくる。『どうしてこんな不審者に声を掛けるんだ?』とでも言わんばかりに。
「全然来ないから、心配したんだよ?」
察しの良い人たちは私の台詞で目の前の異形が誰であるのか、予想をつけたようだ。目を見開いて、しかしいまだ信じられないのか見違えた彼女の全身を、顔を、力強く眺めている。
けれどクラスメイト達が、いや私ですら平生の静寂を保てたのはそこまでだった。
「お前、おまええええええ!!!!!」
劈くように響き渡った怨嗟の絶叫。
振り上げられる銀色のナイフ。
どこかから上がった悲鳴に、私は茜が刃物を手に持っていたことに気付く。
「許さない許さない許さない許さない!!!」
僅かな驚きと、途方もない幸福。
絶え間ない快感のまま私は近くの椅子を茜へと投げつける。
自身に迫る茜の姿。脳裏に走る彼女との記憶。私の命の終焉が近いのか走馬灯ら士気ものが強烈に浮かび上がる。けれどその癖、見たこともない鬼気迫る形相と、必死に私へ向かってくる彼女が愛らしく、傷つけてしまうことを躊躇ってしまう。
「お前だけは絶対に!」
椅子にぶつかって怯んでも、決して刃物を手放さず私のことを追い続ける健気な茜の姿に、どんどんと頭が幸せに支配されて行く。脳内麻薬がドバドバと、善がり狂ってしまいそうな位にあふれ出る。
もし茜に刺されても、顔の、身体の原形がなくなるくらいにぐちゃぐちゃになっても。目も耳も、やがてすべての感覚を失っても、不健全で淫らな甘さの淵に陥ってしまえるかもしれないと思うほど、気持ちよかった。
もはや殺されそうになっているこの状況で、それが危ないとわかっていても膨大な快楽の前で理性は容易く崩れてしまう。
「あぁ、うれしいよ茜。私の為に、こんなことをしてくれるだなんて」
復讐に染まり、人生を捨てる覚悟で私を殺そうとしている。言葉にするだけで前後不覚になりそうなこの状況で、だけれどほんの少し茜に嫉妬してしまう。
だって、茜を一番愛しているのは私で、茜は私へ途方もないほどの想いをくれる。それはとてもうれしくていじらしい。けれど、私の愛が負けてしまったようでちょっとだけ、ほんの少しだけ嫉妬してしまう。
幸せで、酷く強欲な事を言っているとはわかっているけど、そう思ってしまう。
「でも、私の方があなたをもっと、愛してる」
茜が転んだ瞬間、私はその体に飛び乗っていた。
「茜の絶望した顔も、依存も、忘我も、嫉妬も、幸福も、悪意も、憎悪も、怨嗟も、怨讐も、貴方の全てを私は愛してるの」
もがく茜。
彼女の持っていた刃物はどこか遠くに飛んでいる。素手で私を殴って来る。その血からはあまりにも貧弱で、痛みはまるで感じられない。
「もっと、もっと、茜の全てを見せてよ」
こんなことをして、完全に人生を棒に振ったのに、思惑は失敗して、無様に抗う茜の姿が天使のように美しかった。
押し倒され、刃物さえ失い、名声と夢を私に奪われて、人生をかけて私に報いてくれた茜の、いまだに折れようとしないその強い意志の籠った瞳。それを真っ向から、一瞬も逸らすことなく視線が交わって心は踊る。かつて夢に明るく煌めいていた焦げ茶色の瞳を、私がくすんだ重厚なきらめきに満たしたと思うと、声がこぼれる。
「あぁ、私は本当に恵まれている」
――だって茜に合えたのだから。
その言葉は教室の扉のけたたましい不快音にかき消される。
「
私の絶頂は、その男の醜い声によって冷やされる。
「……邪魔、しないでよ」
甘い熱に冒されていた私の身体は、激しく不快な憤怒の熱で燃え上がる。
「嫌だね、ボクはこれでも恩義に尽くす人間だから」
生意気で軽薄で、微粒子にまで分解したいと願うその人物が誰であるかを私は気付く。ほとんど特徴らしい特徴を明かさなかったその男は、好戦的な顔をして私を見下ろす。嫌味で、最悪なコレが、隠していたヤツの本当なのだろう。
「それに――」
「邪魔しないでよッ!」
もう少しで呪詛ばかりを吐いていた茜の唇に触れられた。
彼女の心の須らくを愛し吸い込みその代わりで満たしてあげられた。
アイと想いが交わって、互いを犯し侵され合う至高の儀式、夢見た奇跡。なによりも特別で神聖で、不可侵の理想の契り。
「ようやく、答えてくれた茜の想いを、独り占めするところなんだからッ!」
一つの雑音。
一つの騒音。
一つの世俗。
一つの汚濁。
キタナイ臭い。
低俗と、醜悪に満ちた悪意の化身。
小さく、矮小で、けれど神聖不可侵を穢す絶対的な汚物。
濯がなければ、茜が穢されてしまう。ほんの少しでも、そんなことは許せない。
「アハハ、ちょっと冗談はやめてくれよ。……まるで理解が出来ないね」
刃物の柄に残る茜の温度にまるで茜も祝福してくれているようで心が温かくなる。
汚れを洗うことが、茜と一緒にやっているように思えて冷えた心も温まってくる。
刃先を沖へとむける。面倒そうに、けれど隠していた中性の美を明かしながら沖は笑っていた。それも、私がよくよく見知ったような表情を合わせて。
「私には、時間がない」
「ほんっと、度し難いね、キミは」
私のアイに初めて答えてくれた茜。
けれどこのまま時間を使っていたら、瞬く間に彼女は私がふれることの出来ない場所へといなくなってしまう。彼女の匂いも、味も、仕草も声も、親愛も、友愛も、憎悪も、絶望も、そうして顔もきっともう私は味わうことが出来なくなってしまう。
「許さない、絶対に」
ほんのわずかな時間しかない、茜と私が交わう最後の時。これが、唯一の、無双の、私と茜の愛のカタチ。だからこそ、その男が憎くて憎くて仕方がない。
振り払ったナイフはソレの長い前髪を切り裂いた。
あとギリギリで、当てられた。
「ふふ、でも、そうじゃなきゃ、協力した意味がない」
一度避けてから、汚物は一切動かない。ただ私へと何を考えているのか分からない瞳を向ける。けれど、ただ殺してしまうだけならば男のことなどどうでもよかった。ここから消えてくれるのならば、なにを思っていても関係ない。
そうして振り上げる刃物。
静かにそのまま死んでほしい、その願いと共に振り下ろす。
「なぎさっ!」
その瞬間、私は地面に身体を倒された。
その瞬間、茜の悲痛な叫びが響く。
私の知らない茜の感情に、視界が真っ白になる。
私でない名前を叫んだ茜の声に、脳の動きは鈍くなる。
なにがあったか、よくわからない。
――――どうしてどうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
私が一番茜を愛してきたのに。誰よりも茜のことを知っているのに。茜と長くいて、誰よりも茜のことを味わったはずなのに。私が知らない感情は、私でなくその男に向けられる。茜の健気な行動は私でなくその男のため。
「あかね、あかね。なん、で、なんで、ソイツに、そんな顔、するの」
分からない、分からない茜は私の為に今日ここにいるんじゃないの。私へ想いを告げるために、刃物を持って数カ月ぶりに来たんじゃないの。どうして、私に想いをぶつけてくれないの。
「ソイツから、離れなきゃ」
汚物に抱き着く茜。私が見たことのない表情を私以外に明かす茜。儚げに、そしてこちらに憎悪の目を向ける茜。私の脳は理解することを停止した。
声が震える。視界がぼやける。
伸ばした腕が、空を切る。
「当たり前じゃない。だってボクは茜の友達なのだもの」
帰ってこない、茜の声。
「ここまでしちゃったのを止められなかったのは、すっごく悔しいんだけどさ」
振り返ることなく、背中しか見えない茜の姿。
「最後の最後に、穢されるのを見て見ぬふりをするわけがないじゃないか」
酷く冷めた男の表情。
突如として担がれた身体。
「離してっ! 放せっ!!」
「落ち着け! とりあえず落ち着け!」
聞きなじみのある教員の声。
引っ張られる身体。
離れて行く茜。
「嫌だいやだ! 絶対にいやだ!」
もう二度と、会えないのに。
もう、茜の声も聞けないかもしれないのに。
茜はあの男の横に居て、私は茜の姿も見えなくなる。
「暴れるな! もう大丈夫だから!」
どんなに暴れても、私を引っ張る手を離すことはできない。
「あかねっ、あかね!」
どんなに叫んでも、もう茜には届かないほど引っ張られてしまった。
保健室の薬品の匂いがこびりついたベッドの上で。
最後の最後に、取り返しのつかないことをしたのだと悟った。
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