第43話 小さなリンゴと初夜権
マリサ達は先日訪れたマングローブの林を再び訪れていた。マングローブの林は以前と変わりなく、
このことにガルシア総督も気が緩んでいた。マリサはガルシア総督のその表情の変化を見逃さず、自ら抱きつく。
「このマングローブがそんなに気に入ったのなら、ここに
ガルシア総督は嬉しそうにマリサに抱きしめると深くキスをする。
(ごめん……フレッド……)
演技ながらも抱かれているマリサの内心はガルシア総督を殺したい気持ちでいっぱいである。
マリサが完全に自分になびいたと感じた総督はすっかりマリサに魅了され、護衛や監視人たちに自慢話をし出した。マリサはそれを見るとサウラから教わったスペインのわらべ歌を口ずさみながらマングローブの林を満喫するかのように再び歩き、あの場所へ来る。
そこは緑がかった小さな実が実っている広葉樹だった。その実からはかすかなリンゴの香りがしている。
(頼みはこの小さな
マリサは大きく深呼吸をすると胸元から大きめのハンカチを取り出し、その実をハンカチで包みながらもぎ取る。そして何食わぬ顔でペチコートのポケットにしまい込んだ。総督と護衛達は相変わらず話し続けている。
「きゃあっ!」
マリサはわざと叫び声をあげ、一目散に総督のもとへ駆け込む。
「どうした、また蛇が出たのか?」
「はい、今度は二匹も出ました。おぞましいったらありゃしない。どうか蛇を一掃してください。私は蛇を相手にするくらいなら人間を相手にした方がましです」
「よかろう。……お前たち、蛇がまた出たそうだから見つけ出して始末してくれ。私の小鳥が怖がっているからな」
総督が声をかけると護衛も監視人も蛇退治に向かった。
「総督閣下、私はあなたのものではなくて、あなたは私のものということですわ。いつも護衛や監視がいるので言えなかったんですけどね」
マリサが媚びてみせると総督は気持ちが早まる。
「おお、そうかそうか。ところで私の小鳥、今夜にでもどうだ……。お前の気持ちを尊重して二か月以上もお前を抱くのを待っているのだよ」
総督は護衛達が離れているのをいいことにマリサの背中に手を回し何度もキスをする。
「……今日は……一週間ほど待っていただけます?口に出すのはお恥ずかしいのですが……しばらく私の身体は受け付けることができません。女の使用人ならご存じだと思いますが……」
そう言って顔を赤らめるマリサ。不順な月経が再びやってきていた。前回は総督の前で恥辱をさらしたが、今はそれを好機と思っている。
(そう……その間は総督はあたしに手を出さないだろう。そしてその間に収容所の連中は少しでもけがを治癒させ体力を戻せる。これはチャンスだと思わなければ……)
「わかったよ、そんなことを口に出させてしまって申し訳ない。もう少し待つよ」
「こればかりは私もどうしようもありません。どうかサトウキビをかじり、リンゴを召し上がってください。そしてその日のためにリンゴを1個は残してください。当日は総督閣下のご期待に添えると思います」
「そうだね、たくさんリンゴを買ったからね。お前のために食べるとしよう」
ガルシア総督は気だけでなく顔の表情も緩んでいる。はっきり言ってマリサの嫌いな表情だったが、そこは女優のマリサ、総督に合わせて微笑んだ。
マリサ達がマングローブの林から戻るのを収容所の窓から垣間見る”青ザメ”の連中。
「へえぇ……あれは本心なのかい。『遊び』をやめさせるために総督になびいたということか」
小窓から外の様子を見ているのは、グリンクロス島の港で路頭に迷っていたところをマリサと双子のシャーロットに救われ、”青ザメ”に加わった主計長のモーガンである。モーガンは初めての捕虜生活と拷問で海賊に加わったことを後悔していた。
「モーガン、あんたはまだ仲間になって日が浅いからマリサをよくわかってないんだ。マリサは女であるまえに頭目なんだよ、俺たちのな。自分だけ助かろうなんて思っていないはずだぜ」
”青ザメ”ではギャレー(厨房)を守っているグリンフィルズがパンをかじりながら話す。『遊び』が中止されて以来、粗末ながらも3食提供される食事。美味い不味いは別として食べるようになってから少しずつ体力が戻っている。
「ああ……はやくこんな食事よりましなものを作りたいもんだ。……モーガン、あんたは頭が良くて計算ができるから暇ならこの
グリンフィルズがおどけるとモーガンが笑う。
「さあな、計算するには材料費がわからないとできないからな。そもそも俺たちの食事って費用がかかっているのか」
モーガンも久しぶりに笑う。
「……さあ、とにかく食おうぜ、モーガン。マリサが行動を起こしたら動かなきゃならないからな。言っとくが、マリサはジャガイモの皮むきが俺よりも早いんだ。船に戻ったらあんたに茹でたジャガイモをたらふく食わせてやるから楽しみにしてくれ」
「残念だな、グリンフィルズ。俺はジャガイモが嫌いなんだ。おまけに歯が悪いから柔らかい牛肉にしてくれ」
「ジャガイモが嫌いでよく船乗りをやっているな。好き嫌いするとママに言いつけるぜ」
二人とも冗談が言えるほど精神的に楽になっている。
自力歩行が難しくなるほど『遊び』によるケガの回数が多かったフレッドは、当初は時間をかけて固形物を摂取していたが、オオヤマやラビットが無理やりにでも固形物を食べさせていったおかげで食事量が増えており、体を当たり前に動かせるようになっていた。
「今までよくがんばったな、フレッド。マリサが何かを考えているようだから遅れを取るなよ」
オオヤマがフレッドの肩を叩く。
「ああ、そうだな……シェークスピア劇場の山場が待っている。ニコラスが天で見ているからな、下手な演技はできないぞ」
フレッドを含め、みんなの傷が完全に癒えているわけではないが、それでも気力が出てきたのは大きな収穫である。こうしてマリサの元気な様子と『遊び』の中止、そして粗末ながらも3食提供される食事は確実に収容されている連中を回復へ向かわせていた。
それから10日ほどたった。『遊び』が中止となった収容所では捕虜たちの体力は目に見えるような早さで回復していた。そしてそれはマリサの思惑でもあった。
あれからマリサは何かにかこつけてガルシア総督と外出している。もちろん護衛もいるが、監視人についてはガルシア総督から必要なしと判断され、いなくなった。マリサはガルシア総督に寄り添うように行動をしていることが多くなり、おかげで港までの地理状況や港の様子を知ることができていた。
港ではときおり”光の船”の残存部隊が入港していたが、捕虜とみられる集団はない。収容所の収容人員に限度があることと、本来の目的である”青ザメ”を捉えたことでその必要がなくなったからだ。今は戦利品だけが揚げられている。
ふと、マリサはその戦利品が気になってきた。”青ザメ”は私掠船と同様に戦利品は国へ納めて取り分だけもらっているのだが、”光の船”は国の非公認の集団であり戦利品は国へ納めることはない。
(ガルシア総督は戦利品を搾取して、一部を仲間に分配しているわけか。その一部が居室にあるあの宝箱ということだ)
「総督閣下、以前は強がっていたため閣下の宝物を拒みましたが、実は気になって仕方がありません。”光の船”の海賊行為が続いているとすればすでに部屋いっぱいの宝が集まっていると思いますが、それを見せていただくのは可能でしょうか。私の体中の血がそれを求めており、我慢ができなくなりました」
そう言ってマリサはガルシア総督にしがみつく。
「海賊であるお前がそう言うのも無理はないだろう。私の宝物は山ほどあるよ……もはや王家を超えているだろう。しかし私の最も高価で貴重な宝は小鳥、お前だよ。お宝を飽きるまで見せてやるから今夜にでもお前を抱かせてくれないか」
ガルシア総督がマリサの腰に手を回す。
「ええ、望むところです。今夜は楽しみましょう」
マリサはガルシア総督の胸に顔をうずめ、ささやいた。
ガルシア総督がこうまでしてマリサに求めているのはいわゆる『初夜権』というものである。権威ある者が結婚式をあげたばかりの、あるいは結婚を予定している娘の身体を試す権利で、マリサの時代にはそれがすでに形骸化していたのだが、総督はそれを行使しようとしていた。
総督の狙いがそれであることに気付いたマリサは、その取引こそがこの不条理な捕虜生活を終わらせるカギとなることを信じた。今自分にしかできないことをやり遂げることで捕虜たちを助けられると確信する。
屋敷に戻ったマリサは総督にある場所に案内される。総督が胸元から鍵を出し、ドアが開けられるとそこにはマリサが見たこともないような宝物や珍しい調度品、金銀や宝石がちりばめられた装飾品がたくさん置かれていた。それは昔話にあるようなイスラムの盗賊の宝物を想像させた。
「ここにあるのは滅びたインカ帝国の財宝をはじめ、イスラムの財宝、そしてイギリス船からいただいた植民地の財宝やオランダの財宝など海賊たちの戦利品が収められている。我々は国へ献上するわけではないからね。これほどまでの物をお前も見たことはないだろう?」
ガルシア総督はとてもご満悦である。”青ザメ”が狙っていた船で財宝を積んだものはあったが、ここの量は半端ない。
「こんな世界があるとは……私は夢を見ているようです」
さすがのマリサもその量に圧倒されたが、部屋の一角にある物を見つける。それは似つかわしくないような黒っぽく長い物だ。
「これは……」
黒っぽい物の前まで来るとそれが何か理解できた。
(これは異国の刀だ……オオヤマが使っている物と同じ形をしている)
「お前はそれがわかるのか。これはオランダ船が積んでいた宝の一つだよ。もちろん船に乗っていた者はすべて海の藻屑となったがね」
「いえ、総督閣下。あまりにも珍しいので目が留まったまでです。使い方や価値もわからなければ宝物も無用の長物です。それにしても想像以上の宝の量ですね。私はこれほどの宝の山をみたことがありません。アン女王陛下も圧倒されることでしょう」
そう言うと総督は満足そうな顔をした。
その夜、ガルシア総督はいつもよりも手の込んだ夕食をとると、お気に入りの赤ワインを用意した。よほど夕食後の楽しみに期待をしているのだろうか、終止総督の機嫌はいい。それだけでなく、今までは食事のときも護衛達がいたが今日は彼らもこの場にいない。
「お前はワインをあまり好まないようだが、今日は特別な日だ……少しでも味わってみないか」
そう言ってガルシア総督は赤ワインをすすめてくる。
「それでは1杯だけいただきます」
総督から差し出されたグラスを持つ。
「では……小鳥の記念すべき初夜の為に。乾杯」
腹の底から煮えくり返るような怒りと殺意でマリサは手を出しそうになったのを必死にこらえる。しかしここが正念場だ。深呼吸をしてワインを一口飲む。
「今日のワインは格別な風味がありますね。では、私はリンゴを切りますのでナイフを持ちます。このナイフは人を切ることはできないと給仕からお墨付きをいただいたものなのでどうぞご安心下さい」
「そんな
マリサの冗談にガルシア総督が笑う。マリサはそのまま笑顔で慣れた手つきでリンゴの皮をむき、小さく切って二人のそれぞれのワイングラスに入れる。媚薬と言いながらリンゴは普通に食べ物である。総督はマリサが子どものような考えをしていることに油断している。
「総督閣下、これは本当に薬になるんですよ。疑っておいでのようですから私も同じものをいただきます」
「いやいや、疑っているのではなくて、そう言っているお前がかわいくて仕方がないのだよ。海賊であっても子どものような心を持っているお前がね」
ガルシア総督はあごひげをなでながらマリサを見つめている。
「海賊であっても貴族であっても死ぬか生きるかのどちらかしかありませんから同じでことです。それよりも総督閣下、今部屋の外で物音がしましたが、誰か外で待機しているのですか」
「そんな無粋な
そう言って居室から出ていく。
マリサはすぐさまハンカチにくるまれた例のものをだし、ハンカチで手にその実が触れないように気を付けながら急いで小さく切り、その上に残りのリンゴを入れた。あたりにリンゴのにおいが立ちこめる。
「安心しなさい、私の部下は気を遣う者ばかりだ。外には誰もいなかったよ。では仕切り直しだ」
「そうでしたか、つい私も敏感になりすぎていましたね」
そう言ってグラスにワインを入れる。
「お互いのワイングラスに媚薬のリンゴが入っています。中のリンゴもちゃんと召し上がってくださいね。初めてのお相手が総督閣下で良かったわ」
マリサの一言でこの上ない喜びに浸るガルシア総督。ワインをたしなむような飲み方ではなく、何かを焦るかのようにすぐに飲み干し、実をたべた。マリサも笑顔で一口二口いただく。
「なるほど、リンゴを入れたワインは香り高いものだな。ああ、私はもう我慢できない。マリサ、私ときておくれ」
総督はマリサの肩に手をやると寝室へ急いだ。
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