第29話 出帆
1712年6月6日、フランスとスペインの相互王位継承権放棄の方向が出て、アン女王はイギリス議会で講和の見通しが立ったことを報告する。同年7月10日にはスペインのフェリペ5世がフランス王位請求権放棄の文書に署名をし、ユトレヒトでの講和は進められることとなった。こうして政局は少しずつ和平へ動いていた。
同日、いよいよデイヴィージョーンズ号を含む提督の艦隊が出帆する。そしてデイヴィージョーンズ号には新たに海軍から一人の人間が乗り込むことになった。クエリダ・ペルソナの港を叩く作戦でエトナ号にいたあのグリーン副長である。理由もわからないのにマリサに敵意を持ったまなざしを送っており、オルソンからこの男に警戒するように言われていた。そして貴族であるオルソンは彼の正体は一般人に成りすました貴族ではないかとみていた。
もう1人軍部が乗り込むことについて連中に緊張が走る。そしてデイヴィスも落ち着かない様相を見せていた。
海軍のようなきっちりした階級制をとっていない”青ザメ”には『副長』という艦長の代理となるものを置いていない。人手がないのもあるのだが、デイヴィス船長の指示で事足りていたからである。しかしグリーン副長が乗り込むことでデイヴィス率いる”青ザメ”を指揮下に置き、デイヴィス船長より高位に立つことで"青ザメ"を制圧することとなった。
今回の任務は講和を
波止場には多くの見物客や見送りの人々が集まっている。この艦隊を見送る人々の中には海賊や私掠船の襲撃により船や荷物を失った船主や損害保険会社、融資した銀行の関係者の姿もあった。海賊や私掠船の略奪による損害は金融経済においても影響を与えていたのである。
しかしそれは逆も同じだった。海賊(buccaneer)である”青ザメ”もスペインやフランスから見れば略奪者だからである。戦争が終わり、相手国から海賊の略奪行為に対して訴えられればあらゆる海賊は海軍によって討伐の対象になるだろう。そしてその可能性は限りなく大きく、軍部の手の内にある”青ザメ”の連中が助かる道はもはや恩赦でしかなかった。
港から少し離れたところに停泊している艦隊の船に乗り込むため、多くの乗組員が何艘ものボートに乗って船を目指す。そしてその海軍の艦隊を見送る人々の中には家族もいた。マリサ達のように自由にカモフラージュしながら寄港している船に比べ海軍は命令で動いており、長い間家族と離れ離れになるからだ。その群衆の中には少ないが”青ザメ”の身内や知り合いもいた。(出自や本名を明かさずにいる連中もいるからである)
その中にマリサはある人を見つける。
(スチーブンソンさん……イライザ母さんも?)
なんと二人が連れ立って見送りに来ている。イライザは家を離れて見送りに来ることは今までなかった。しかしデイヴィスの様子が以前と変わっていることに心配をし、後を追う形でロンドン入りをしていた。港の様子も”青ザメ”の船についてもわからないまま、右往左往していたときにアンテナを張っていたハリエットが見つけたというわけだ。
マリサとフレッドは二人を見つけると笑顔で返す。
総督からの返事はまだ届いていない。ただ、今回の任務中に海軍は”青ザメ”を討伐することはないだろう。するとすれば戦後だ。いまはとにかく命令通りやるしかない。
ウオーリアス提督の艦隊が一隻ずつ出帆していく。今回は提督の4等艦(戦列艦)レッドブレスト(むねあかどり)号を中心に以前同じ海戦を共にした5等艦スパロウ号、グレートウイリアム号、ジャスティス号、6等艦のフリゲート艦アストレア号、オーク号、ガイフォークス号、そして”青ザメ”のデイヴィージョーンズ号で編成されていた。
もともと私掠船だったデイヴィージョーンズ号は3本マストのシップ型で砲門数は20と規模は小さく、連中の数は(仲間を抜けたり入ったりなので人数は常に同じではないが)砲門数でいえば海軍なら100人くらいは必要であるのに対し60人ほど。こんな規模で今まで海賊行為をやってこれたのは一隻二隻狙いの白兵戦が中心だったからだった。海軍での戦いを知っているフレッドには当初は驚きの連続だった。
そして今やこの船の指揮者はデイヴィス船長でなくグリーン副長だ。さすがに右腕に力が入りづらいからと言ってニコラスに任せきりではグリーン副長に何を言われるかわからない。デイヴィスは何かを悟ったようにグリーン副長の指揮下に入り連中に指示を出すことになった。マリサはデイヴィスの様子を見ながら連中の手が足りないところを手伝っていく。厨房も帆の縮帆や展開も何でもやらなければならなかった。もっとも、それは今に始まったことではなかったが、グリーン副長が何を企んでいるかはわからないので警戒をしながらの事だった。
公海へでたところでグリーン副長が提督からの作戦内容を説明する。それは西インド諸島近海で出没している国籍不明の海賊・私掠船討伐だった。スペイン継承戦争・アン女王戦争は表立っては講和へ動いているものの、海賊行為は続いており、海上輸送と植民地の安全が脅かされていた。
「今や国籍問わず、海賊行為は海上輸送と植民地の脅威となっている。戦時中なら軍としても十分な人員と船を用意できるが戦後だと多くの水夫が職を失い、船を売却することもあり得る。それは過去の流れをみてもわかることだ。そうなれば海賊行為を行う者が増え、海上の治安は悪化する。敵となる海賊行為には少なからず政治的な要素も含まれていることは確かである。スペインの無敵艦隊を破って以降、優位にある海上の覇権を維持していかなければならないが、海賊行為はそれを阻むものだ。海賊(buccaneer)である君たちなら言うまでもなく理解していると思うが女王陛下の威信にかけてこの討伐を成功させたい」
グリーン副長がそう言ったところへデイヴィスが口をはさむ。
「海賊の討伐で御大層な艦隊を組んでの作戦だが、俺たちの船は見ての通りの船だ。相手がどんな装備の船か知らねえが、装備によってはまともに相手はできねえと思うがな。俺たちは海賊だ。相手の船を沈めるより拿捕したり略奪したりが目的だから戦い方によっては不利になるんじゃねえのか。で、この船の役割はいったい何なんだ?」
デイヴィスは艦隊の中で艤装も人員も一番手薄なこのデイヴィージョーンズ号を使って海軍が何を企んでいるのか気になっている。それはデイヴィスの過去がそう思わせていた。
「心配しなくてもこの船の装備については提督閣下も十分承知している。そこのスチーブンソン君から逐一情報を得ていたからな」
グリーン副長がそう言うと連中の視線がフレッドに向けられた。このことに一瞬戸惑うフレッド。
「作戦だが、まずこの船の役割は
グリーン副長の言葉に大笑いする連中。
「聞いたか、自称『伯爵』だとよ。オルソン、おめえも信用されなくなったらおしめえだな」
ハーヴェーが苦笑する。
「私が伯爵かどうか信用するしないは個人の自由だよ。さてマリサ、ありがたいことにまた女優業だと。そのうち劇団からスカウトが来るかもな。少しは
「そうだとも、マリサの演技力はどんな一級女優にも負けない。戦争が終わったら職替えもいいかもな」
オルソンの言葉を受けてフレッドが茶かす。
「うるせえ!」
マリサはやはり仏頂面だ。
「さて、作戦について説明したところでまずは敵の情報の詳細を得ることにしよう。すでに西インド諸島近海では海賊と私掠船が横行している。海軍や商船に扮した海賊船もあると聞いている。接触し、その証拠をつかんで提督の艦隊が一網打尽にすると言うことだ。囮としてのこの船の役割は大きいと言える。期待をしているぞ」
グリーン副長が鼓舞する。副長としてのキャリアがすでに連中を手中に収めているのがわかる。グリーン副長の指揮下に入ったことで船長としての威信を傷つけられ、デイヴィスはまた無口になった。『海岸の兄弟の誓い』に基づいた民主的な船長交代ならわかるが、この場合は明らかにグリーン副長の図り事だ。このデイヴィスの様子の変化に気付いたマリサだったが、いつものことかと深く考えないでいた。
こうしてデイヴィージョーンズ号と提督の艦隊は討伐に向かって針路をとったのである。
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