第6話 私の切ない思い出の香り?

「…どしたの?たのっちゃん。」


コンピューターの前で黙々とデータを打ち続ける私に、隣の席に座っていた山口先輩が話しかけてきた。

あまりしゃべらな過ぎたからだろうか。声が心配そうなトーンだ。


「え、ああ、来週締め切り分のデータですが…。」

「いや、それは分かってんだけどさ。そーじゃなくて、何でそんなに鬼気迫る勢いで入れてんの?」

「…鬼気迫ってました?」

「うん。こんな感じ。」

先輩は、おもむろに自分の机に向き直ると、凄い勢いでコンピューターのキーボードを叩き始めた。

音がスゴい。


「大げさ過ぎません?」

はははと乾いた笑いを返す。

さすがにそんな凄まじい音は出してないはずだ。

…とは言い切れないところが、今の私の状態かも知れない。


「何かあったの?もしくはこれから何かあんの?」

「えーと。」

彼はゆったりとしたトーンで尋ねた。その口調は私にはいつも心地いい。だからだろうか、それとも誰かに聞いてもらいたかったのかも知れない。私は昨日の地下鉄での出来事を話し始めた。


「正直、何もなかったんですが。」

「ふーん。」

「いや、正確には、いい臭い、がしました。」

「…は?」

「いや、あの、昨日、地下鉄でですね。誰かのいい臭いを嗅いだんです。」

「…。」


彼は明らかに怪訝な表情をした。そりゃそうだ。私が鬼気迫る勢いでデータを入力していた理由が、いい臭いを嗅いだからって、支離滅裂だ。

しかも"誰かのいい臭い"って、何か少し発言が危ういな。女子高生の発言ではない。だからか、私の言葉は言い訳がましくなる。


「いい臭いってゆーか。人に接近した時に匂う香りではあるんですけど、いや、そんな変な意味じゃなくて、何て言うか、すごく懐かしくて、知ってる香りで。」

「ほお。」

「ほんの一瞬だったんですけど、その香りが、漂ってきて…。」

「漂ってきて?」

「驚いて、誰から漂っているのか、むっちゃ混んでたんですけど、必死に香りの主を捜して、クンクンしてたんですよね。」


「クンクン、ね。」

先輩はくくくくっと手の甲を口にあてて笑いを噛み殺している。何だかちょっとむっとする。

「いや、ごめん。」

先輩はそんな、私の表情をみて素直に謝った。


「で?見つけたの?その香りの主様」

「…いえ。結局、分からなくて。」

そうなのだ。あの香りを嗅いだ後、私はかなり必死に周りの方々に接近し続けた。匂いを嗅いでいるのを気付かれないように、平静を装いながら。

けれど、結局あの香りの主を捜すより、終着駅に着く方が早く、人の波に押し流されてホームに着いてしまったのだ。


「へー。それで、たのっちゃんはその元彼への思いが甦って、センチメンタルハード入力って訳か。」

「は?!」


今度は私が怪訝な顔をする番だった。

「何ですか?!元彼って?」

先輩はニヤニヤしながら私を見た。


「そんな至近距離でしか判んない香りって事は、そういう事でしょー?いやーん。お、と、な。」

「いやいやいや、そんな人いなかったし、いや、いないってゆーか、香りと関係ないってゆーか。」

「切ない別れだったりした?」

「だから、そんなんじゃなくて…。」

「そういう特別な香りってのは記憶に残ってるもんなー。」

先輩は一人でうんうんと頷きながら、分かる分かると繰り返した。


(記憶に残る…?)

私は彼が、発した一言にフリーズした。

(この香りは私の記憶?…どっちの?もしかしてあちら側?)

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