第5話 私と不思議な香りの記憶
(ついつい買ってしまったな…。)
コーヒーショップの帰り道、私は地下街のパン屋さんに寄った。
すごく食べたくなってしまったのは、仕方のない流れだと思う。パン屋は記憶の中で、私が勤めていた病院のすぐ隣だった。そこによるのは、看護師だった私の夜勤明けのルーティーンだ。
しかし、今日の電車の混み具合は、フカフカのパンを守って乗るには、かなり厳しい状態だ。
(これは本当に手を離しても落ちないんじゃない?)
前だか、横だか、後ろだか全く分からないけれど、圧迫されて全く身動きが取れない。電車の稼動音以外はしんっとした車内で、私は鞄から手を離そうかと思案中だ。
パンを守る事に集中しすぎて、鞄がガッチリ乗客の間に挟まっていた。
そんな中で、私は何かの番組でぎゅうぎゅう詰めの電車かバスで、手を鞄から外しても落ちない、という場面を思い返していた。
車内は微妙に揺れているけれど、何もつかまなくても倒れる心配もない。本当に落ちないのかな、という好奇心がこの稀なシチュエーションにマッチしている。試すしかない。
(やるか…。)
私は右手をゆっくり離した。
(おお、落ちない。)
密かな達成感。
と同時に自虐的な気持ち。
(何やってんだ私は)
自分自身に若干やれやれと思いながら鞄を掴み直そうとして、気づく。
(わわ。鞄がずれてて手を伸ばさないと掴めない。)
私は鞄の方に必死に手を伸ばした。周囲の方申し訳ない。ただでさえギチギチなのにガッツリ身体を押し付ける形だ。これは、私がおっさんで相手が女性だったら、痴漢行為と思われかねない距離感だ。
その時、だった。
びっくりした。
何、この、香り。
懐かし過ぎて、鞄に伸ばしていた手が止まる。
耳の奥がキーーンとする。
かなり密着しない限り絶対に分からない香り。
香水?
何かの芳香剤?
石鹸?
体臭?
それとも、いくつかの何かが交ざっている?
血が頭の方からサーっと下がって、手先が急に冷たく感じる。そして心拍がバクバクした。
何だこの感覚…。
私は、この香りを知っている。しかも、この位の至近距離でしか、この香りがしない事も知っている。
(何?何?この香り。)
見回そうにもギチギチだ。でも、きっと私の前後左右の誰かで。
(誰?誰?)
ぐらぐらと目眩がしそうな程の混乱の中で、香りの主を捜したい思いだけが募る。
混乱する思考
(近くにいるかも知れない。)
恋慕にも似た焦り
(だから誰に?)
全く分からないのに、気持ちだけがあせる。
(早く見つけなきゃ)
(見つければ何か分かる)
(誰?どこ?)
そんな状況で必死に辺りを見渡した。右側のサラリーマン風の人?
左側は大学生?
前にいるのは2人?
後ろはさすがに分からない!!
こんな満員の地下鉄で、一人だけ必死に香りの主を捜す自分に、客観的に何をしているんだと思う私もいる。けれど、見つけたい私が今の私の行動を主導する。さっき、ほんの一瞬だけ匂ったあの香りの主を。
私は周りの方々の迷惑も考えず、ただでさえ密着している状態から、さらにぐいぐいと周りの人々に順に身体を近付け、全ての意識を嗅覚に集中させた。
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