ベース・モラトリアム・深夜

週に何日か、思考が曇り頭が狂いうまく眠れない日がある。思考は止まるところを知らず、感覚はより過敏になり、雑念が増え、私を眠りから遠ざける。もう子供ではないので眠らない夜がないわけではない。でも明日が来なければいいとは思うし、ずっと夜が続いてほしいとも思う。起きている間に自分の中ではケリをつけたと思っていたことでも眠る前になるとそれは頭の中で暴れようとする。私を思考の沼に引きずりこむ。今日だってそうだ。自分の中で落とし所をつけたはずだった。もう何も思うことはないと思っていた。それなのに夜はまた私を眠らせてくれない。もうこうなると当分眠れないことは知っている。幸い明日の朝には急ぎの予定もないので仕方なく一度起き上がる。とりあえず水でも飲もう。

階段を降りていくとまだ明かりがついていた。誰かが話す声がぽつりぽつりと聞こえる。両親はもうとっくに寝ているはずなので、兄と姉だろう。何をしているのだろうか。私は気になってつい聞き耳を立てる。

「夏帆のことなんだけどさ、最近なんか隠してるよね。」

「あれで気づかれてないと思ってんのかな。母さんはなんか知ってるみたいだったけど。」

私の話だった。胸の奥がつきんと痛む。どうしよう、聞きたくなかった裏の話かもしれない。友人だけでなく家族にまで悪く思われてたらどうしよう。そう思うのに体は聞くのをやめられない。

「あの子はいっつもそうだからねー。一人で全部抱えて消化したつもりで。心配する身にもなってほしいわー。」

「ほんとにな。まあ俺らにはいえないでしょ。俺も姉ちゃんに相談とか無理だわ。頼りねーもん。」

「はぁ?あんただって似たようなもんでしょーが。男のくせに情けない。」

「うるせーよ…。それよりさっさとやろうぜ。夏帆にバレたらめんどくせぇ。」

「それもそうね。」

血の気が引いた。私に知られてはいけないことなのだろうか。急に怖くなる。早く動かなきゃ。そう思えば思うほど体は動かない。どうしよう。どうしたら。

「もうちょい練習してからがいいもんな。あと少しだしな。」

練習?何のことだろう。

「でもこの時間にしか合わせられないから私しか弾けないのも困るわよね。ギターはうるさすぎる。」

「しゃーないだろ。それより早く。」

「はいはいっと。」

身に覚えのない兄姉のやりとりが聞こえたかと思うと、低い楽器の音色が聞こえてくる。これは…ベース?でもなんで。お姉ちゃん、ベースなんてできないはずなのに。お兄ちゃんはよく引いてるけど…。そんなことを考えると小さく歌声が聞こえてきた。お兄ちゃんの声だ。普段人前で歌いたがらないのに何で。上手いんだから隠さなくていいのにって言っても頑なに歌わなかったくせに。それにこの曲、

「あ!ミスった…やっぱり難しいわここ…。」

「この曲やるって決めた時からわかってただろ。夏帆が好きな曲なんだから。あと1週間で仕上げるぞ。」

「そうよね…、もう一回!」

何で私の好きな曲を二人が…?1週間後って、私の誕生日?あの二人が私に?予想外すぎて頭が追いつかない。でも、ベースの低音とお兄ちゃんの優しい歌声が私を包むと、気持ちが安らいでいくようだった。不思議とモヤモヤが晴れていく。ああ、なんか、眠いかも…。なんか、いい夢が見られそうだな、なんて思いながら部屋に戻ることにする。ベッドに入るとすぐに瞼が落ちてくる。とりあえず、1週間後の誕生日が楽しみになった。早く明日になればいい。


夏帆が眠りについたあと、静かに部屋のドアが開く。

「寝れたみたいだね。よかったー。」

「ああ、でも聞かれちゃったな。今からでも曲を変えるか…?」

「えぇー!頑張ったのに!」

「仕方ないだろ、最近元気なさそうだし喜ばせたいって言ったの姉ちゃんだろ。」

「そうだけど…。今の曲もやろうよ。もう一曲も頑張るけど!」

「それがいいな。…もうちょい頑張るか。」

「そうだね。おやすみ、夏帆。」

「おやすみ。」

静かな夜にメロディは紡がれる。彼らもまた、子供ではなく、大人でもない。

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