第43話 人魚の歌が聞こえてきたら逃げましょう

 人魚の歌声は人を魅了みりょうし呼び寄せる。


 おとぎ話の中の人魚は、そういう魔物だ。俺は、彼女にあこがれていたけれど、同時に恐怖もしていた。なぜならば、人魚はその後、こう説明されるからだ。


 誘われてやってきた人間を人魚は食べてしまう。


 子供の頃は単純に怖かった。実際に、子供をおどかすためのものだろうし。けれども、今思えば、その歌声は明らかに人間をおびき寄せ食べるための罠。


 だとしたら、俺は、その罠にかかったということになる。


 蜘蛛の巣にかかった羽虫のように、俺は人魚の張った罠に足を踏み入れ、無謀むぼうにも温泉にかり、人魚の歌声にっていた。


 身動き一つとれない。


 どういう理屈かはわからないが、人魚の歌声には人間の身体を麻痺まひさせる効果があるらしい。捕食するためのものと考えれば、あってしかるべき効果だ。


 次第に、思考能力がうばわれていく。何も考えられない。いや、もう考えなくてもいいのかもしれない。温泉にひたって、きれいな歌を聞いて、そのまま眠るように落ちていきたい。


 苦しくないのだ。身体の自由がないだけで苦痛がない。むしろ気持ちがいい。反抗する意思が失われる。なるほどかしこい。人間をとらえるのであれば、痛めつけるよりもよっぽどいい方法だ。


 俺が微睡まどろみの中におちいりそうになったとき、歌が止んだ。すると、人魚が温泉に入り、すーっと近寄ってきた。


 一匹ではない。どこに隠れていたのか、二匹三匹と現れて、こちらに向かってくる。


 その瞬間だった。


 全身に電撃が走った。


 初めての感覚だった。そんな体験がなかったからだ。近づいてきた人魚。彼女達の顔を見た、そのとき、人生で初めて、俺は恐怖した。


 想像していた以上に端正たんせいな顔立ちであった。美女の集まり。彼女達が、にやにやと笑みを浮かべつつ、俺の方を見ている。


 きれいな瞳。水晶をめ込んだかのような、美しい瞳であったけれど、その瞳は俺のことを人としては見ていなかった。


 いや、人間として見ていたというべきか。


 えさ


 ただの餌として、肉塊として俺のことを見下ろしていたのだ。そのことを、俺は、俺の身体は明確に感じ取った。本能とでもいうのだろうか。人間社会で暮らしていたら、ほとんど働かないであろう、その機能が最大の警告をあげている。


 食われる。


 そうさとった。


 それはいいとしよう。いや、いいわけないのだが、いいとしよう。人魚が目の前にいるのだから、当然そういう結果になったとしてもおかしくない。俺が驚いたのは、同時に、こうも思ったからだ。


 死にたくない。


 死のうと思ってやってきたのに、土壇場どたんばになって、死と直面して、俺は死に対して恐怖してしまった。


 怖い。


 怖い怖い怖い怖い!


 痛みはない。むしろ気持ちがいい。だというのに、目の前に迫ってくる美人の顔をした死神に、恐怖以外の感情が起こらない。


 もう、生きることなんてどうでもいいと思ったのに。


 それでも、死ぬのが怖くて仕方がない。


 死にたくない!


 そうさけぼうとして口が動かず、俺は、ただ、ぷるぷると震えていた。


 誰か助けてくれ!


 誰かと言っても、いるのは隣にいるおっさんだけ。彼もじっと座っており、おそらく同じ状態。何かできるとも思えない。


 そんな俺達に、人魚はその豊満ほうまん乳房ちぶさを揺らしつつ、水面を滑り寄ってきて、にんまりと微笑む。


 そして、俺の首筋に向けて、大きく口を開けた。


 食われる!


 俺は目をつむろうとした。


 しかし、その前に。


 人魚の歯が俺の首を噛み切る前に、俺の身体は宙に浮いた。



「!?」



 何が起きたのかわからない。自分の意識の反応できる外で何かが起こった。その結果、宙に舞ったのだ。


 

「っんあ!?」



 腕だ。


 腕が引っ張られている。


 何に?


 縄に!


 あのおっさんに結べと言われていた縄が、俺の身体を温泉から引っ張り上げたのだ。


 縄は森の中へと向かい、俺の身体を雑に引きっていく。


 

「痛っ!」



 俺の口が動くようになったころ、縄の引きは止まり、反動で一度また宙に放りだされ、また地面にドンと叩きつけられ、びたっと止まった。


 心臓も止まったかもしれない。


 いや、動いている。


 でも、どうなった? 助かった? たぶん。人魚から逃げられたはず。だって、そのための縄だっただろうから。


 その逃走手段を用意したであろうおっさんは、俺の横で同じようにぐでんと横たわっていて、のっそりと起き上がった。



「おい、生きているか?」


「死んだ」


「よし、元気そうだな」


「こうなるってわかっていたんだったら、先に言っておけよ」


「言っても信じなかっただろ」


「あー、どうだろう」



 確かに人魚に襲われるなんて、知らないおっさんに言われても信じなかったかもしれない。


 俺は起き上がってから、カラスにたずねた。



「というか、こうなるってわかっていて、何であの温泉に浸かっていたんだよ」


「そりゃ、そこに温泉があれば浸かるだろ」


「意味がわからん」


「気持ちよかっただろ」


「あー、そうだな。人魚に襲われなければな」



 いくら気持ちがよくても、その後に、人魚のふんになるのではたまったものではない。


 俺は腕の痛みに気づいた。どうやら肩を脱臼だっきゅうしている。そりゃそうか。あんなふうに縄で引っ張られたら肩も外れるか。


 このくらいの痛みで済んだと喜ぶべきかと悩んでいたとき、カラスが横ですくりと立ち上がった。



「さて、じゃ、俺は戻るかな」


「は? どこに?」


「温泉に決まっているだろ」


「何で!?」



 今さっき食われかけて、いったいどんな理由があれば、人魚の餌場に戻ろうなんて頭のおかしいことを思うのか。



「もちろん温泉に入るためだ」



 その理由でどう納得しろと?


 

「いや、入ってたじゃん。もう充分じゃないのか?」


「あれじゃだめだ。歌姫の湯を堪能したとは言えない」


「どういうこと?」


「歌姫の湯はな、人魚の歌を最後まで聞いて初めてその真価を見ることができるんだ」


「ほう」


「人魚の歌は、呪いの歌だ。聴く者の身体の自由を奪う。しかし、その呪いに耐え、最後まで歌を聞き終えたら、人魚はその者を食べることができない。むしろ、歓待しなければならないんだ」


「……わるい、ちょっと理解できない」


「そういう呪いなんだ。人魚がまわりに寄って来て、その体液と魔力が充満した温泉はさぞかしいい湯となるだろう」



 つまり呪いに打ち勝てれば、人魚に接待してもらえるということか。温泉のくだりはわからないけれど、こう、いい出汁だしが出る的な意味なのかな。


 ちょっと、興味あるな。


 見た目は美人な人魚達。食われるのは勘弁かんべんだが、彼女達にその身を寄せられて温泉を味わえるのならば、もはや天国といっていいのではないだろうか。


 

「今回はだめだったが、絶対に俺は呪いに打ち勝ってみせる」



 カラスは、強い意思を込めて言い放った。


 暗い森の中で、まだ人魚の呪いのせいでうまく身体を動かせないおっさんが、がくがく震えながら、全裸で。


 ……うん。


 やっぱり、ただの頭おかしいおっさんだったな。



「まぁ、がんばってくれ」


「何だ? おまえは諦めるのか?」


「さすがにそこまでやる気はないよ」


「そうか。まぁ、おまえにはおまえなりに必死になれるものがあるんだろうからな。命を賭けるものは選ぶべきだ」



 命を賭けるもの?


 たかが温泉に何をたいそうなことを言っているのか。やっぱり、おかしな奴だ。普通に生きていたら、命を賭けてまでやりたいことなんて、そんなもの。



「へっくち!」



 俺はくしゃみをして、鼻をすすった。


 全裸で、夜の森は寒い。

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