第17話 何事も経験です

 お湯は少し熱めだが、流れがあるのと外気がいきすずしいのとで、そこまで気にならない。さらにやわらかく、水なのに何かしら粘性ねんせいがあるのではないかと思えるくらいに身体に吸いついてくる。


 驚いたのは、染みると思った傷口がまったく気にならなかったことだ。むしろ、傷口に染み込んでくる水はこそばく、痛気持ちい。


 

「あれ? 治っていく?」



 そう。傷口が治っていくのだ。温泉のお湯に触れた傷口は薄い膜を張って、輝き、その擦傷、切り傷を治療し、もとの肌へと返していく。


 そのからくりは、この小さな光の粒だろうか。



「妖精の鱗粉?」


「そうだ。この粒子が妖精の鱗粉。まぁ、妖精が人の前に姿を現すことはないが、こうやって鱗粉を残していく。この鱗粉は人には治癒効果をもたらす。瀕死の状態でも、この温泉につけておけばたちまち復活する、かもしれん」


「かもしれんって」


「実際にやったことはないからな」



 そんな軽口を叩きつつ、カラスは、はぁ、と気持ちよさそうに身体を沈めた。


 しかし、すごい治癒能力だ。全身の痛みと疲れが、お湯に解け出ていくかのように消えていく。そして何より、気持ちがいい。


 身体がしっかりと温められ、傷口が治っていく刺激はほどよく、循環じゅんかんする大きな魔力の流れはまるで母胎ぼたいに包まれているかのような安心感を与えてくれる。


 ただの温泉だと言うのに、今まで味わったどんな快楽よりも心地が良く、どんな遺跡よりも雄大に思えた。


 これが、カラスの欲していたもの。



「カラスは、初めから聖剣を求めていなかったの?」


「あぁ。ここに秘湯があると聞いてな。年に一度くらい訪れている」


「そんなに!?」


「たまに来たくなるんだよ。周りの自然と、この完成された風呂と、質のいい温泉。これだけ揃っているところは、世界中探してもそうない」


「その前に必死の試練を受けなきゃいけないところもそうないと思うけど」


「それがまたいいんだ。温泉に入る前に身体を思いっきり動かして、傷だらけになったところで、英雄の湯に入りいやされる。そうすることで、温泉をめいっぱいに味わうことができる」


「完全にマッチポンプだと思う」


「それでいいのさ。大事なのは温泉を最高に楽しむこと。そのための努力を俺はしまない」



 やっぱりに落ちないところは多いけれど、きっとそれが彼の信念であり、強さの源なのだろう。


 世界を救うなんて声高に言っても、温泉を楽しみたいというカラスの思いの強さに、僕は負けていた。


 はぁ。


 ため息をついて、温泉に沈み込んだときだった。僕は、気配に気づき、ザバンと水しぶきを上げて立ち上がった。



「え? ロックロック!?」



 そこには倒したはずのロックロックが立っていた。僕は慌てて剣を探したけれども、その剣は、目の前のロックロックが持っている。


 やばい、剣を奪われた!? どうする?


 いや、というか。



「なんか、ちっちゃいな」



 服装と髪型から、ロックロックかと思ったが、よく見ると一回り小さい。面影は似ているのだけど、やはり、全体的にこじんまりとしている。それに武器も持っていない。



「そいつは大丈夫だ」



 僕が焦っていると、カラスが肩に水をかけつつ、呑気な声で告げた。


 

「神殿の管理用ゴーレムだ。害はない」


「え? そうなの?」


「夜は料理も出してくれる。感謝しろよ」



 カラスは何度も神殿に来ているのだから間違いないのだろうけれども、こっちはものすごい焦っているのに、ゆるいかんじがむかつく。


 僕がいぶかしんで彼女の姿を見ていると、彼女は、スカートを優雅に持ち上げてみせ、かるく頭を下げた。



「初めまして。ロックメイドと申します。勇者様の身の周りのお世話をさせていただきます。なんなりと申しつけください」



 ロックメイドと名乗った少女は、そう言って、僕の脱ぎ散らかした服をひょいひょいと拾い上げる。洗濯をするらしく、代わりの服を置いていった。


 見渡してみれば、ロックメイドは何人もいた。一人は、カラスの服を片付けており、二人がかりでエミリーの介抱を行っていた。


 しかし、どうなのだろう。大丈夫とは言っても、あれは魔の者だ。



「なぁ、聞きたいんだが」



 気を許さない僕に、カラスはぽつりと零す。



「おまえは、その子達も殺すのか?」


「え?」


「そいつらは人工だが、ゴーレム、魔物だ。つまり、おまえが駆逐くちくすべき対象だ。だから、聞きたい。おまえは、そいつらも殺すのか?」


「それは……」



 即答できなかった。この子達は、何もわるいことをしていない。それなのに殺すことはできない。けれども、この先も何もしないかわからないわけで。ロックロックを思い出せば、こいつらにも殺傷能力はあるだろうし。



「わからない」


「わからない?」


「うん。わからない。わからなくなった。いや、わからないことが、わかった気がする」


「それは、結局わかったのか? わからなかったのか?」


「さぁ、わからないや。わかんないけど」



 僕は再び、ざぶんと温泉に潜り込み、そして、ぷはっと水面から顔を出した。夕陽が途方もなく赤く、湯気は妖精が踊るようにキラキラと輝き、木々のゆっくりとした揺れが、時の流れを遅くする。浮世から切り離された世界で、僕は、産まれて初めてといっても過言でないくらいに、気楽な気持ちで軽やかに告げた。



「今はどうでもいいや」

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