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階段を登りながら、あの日のわたしはここで「まともな人間」について考えていたことを思い出した。
残された人間を顧みずに死んだナオさんはまともな人間だったんだろうか。友人の好意を無碍に出来ず、でも最後には友人を裏切って普通の結婚を選んだシホノさんはまともな人間だったんだろうか。誰かが死んだのに、自分の都合ばかりであまつさえ死人に文句まで言う人達はまともな人間なんだろうか。
一度は死のうとしたくせに、なにかにつけて言い訳をして、今度は死人まで言い訳に使ってまで生きようとしているわたしはまともな人間なんだろうか。
立ち止まって考える。でも、答えは出そうにない。
「そもそもさ、まともな人間なんて、存在しないのかもね」
浮かれ気味に節なんてつけながら言ってみるけれど、校舎の壁に反響するだけで、当然、返事はない。
屋上に出る扉の前に立ち、ドアノブを捻る。どの先生も屋上の鍵は閉まっているものだと思いこんで確認をしていないのか、予想通り鍵は開いたままだった。
唾を飲み込む。
ドアを押す。
瞬間、吹き込んできた風に目が開けられなくなって、わたしは瞳を強く閉じた。
――だあれ?
あの日、初めてナオさんから掛けられた声が聞こえた気がして、わたしは急いで目を開いた。
そこは、星のほとんど見えない夜空に浮かぶ真ん丸より少し欠けた月と、学園ドラマなんかで見る特別変わったところの無い屋上。ナオさんとわたしが出会った場所。
あの人同じ場所にナオさんが立っていた。なんて、おとぎ話はありえない。だって、ナオさんは今日のお昼に死んだんだから。もう、居ないんだから。
屋上の真ん中あたりで腰を下ろす。コンクリートの床がひやりと冷たくて心地が良い。
手に持っていた花束を、花びらが散らないようにそうっと隣に置いた。屋上に来ようと決めて、夕方に花屋で買っておいた花束。花を買うなんて初めてで、もう束ねられた花の名前すら覚えていないけど、店員さんが見繕ってくれたのは黄色を基調として、ピンクや白の花が散りばめられた、ナオさんによく似合いそうな花だ。
亡くなった人に捧げるのだから儀礼的には仏花が相応しいんだろうけど、仏花という名前がなんだか仰々しくて、ナオさんにも似合いそうにないのでやめておいた。
ナオさんが花を好んだかなんて知らない。ただ、自分が綺麗だと思ったから持ってきただけ。だって、わたしとナオさんはほんの数日前に出会っただけで、お互いのことを殆ど知らないんだもの。
一息ついてから、肩から下げたショルダーバッグからカクテル缶を取り出す。カシスオレンジとカタカナで書かれた、一見すると炭酸ジュースと見間違えそうなデザイン。あの日、ナオさんに教えてもらって初めて飲んだお酒。カシスオレンジ。
プルタブを開けて、恐る恐る飲んでみる。
初めてナオさんと飲んだものとよく似た、それでいてどこか違う味。オレンジの甘い香りの後で、甘さと酸っぱさそして主にアルコールの苦味が入り混じった複雑な味。
やっぱり、美味しくない。
わたしはまだ、大人の味を理解するには早いみたい。
コンビニでお酒を買おうとした時、レジ係の店員さんは未成年のわたしを訝しげに見てきた。未成年にお酒を売ると店側も罰せられる法律があると聞いたから当然だ。でも、胸をこれでもかと張って、目が痛くなるくらいに力を込めて睨みつけながら堂々と年齢確認ボタンを押すと、何も言わずにお酒を売ってくれた。
ナオさんに教えてもらった方法。やっぱり、ナオさんは何でも知っていたんだ。
髪がキラキラで、わたしがこれまで出会ったどの女性よりも綺麗で、まるで物語の登場人物みたいにカッコよくて。お金もいっぱい持っていて、お酒の味も知っていて、良くないことだけど未成年がお酒を買うための店員の対処法も教えてくれた。わたしの死にたい気持ちを収める方法だって知っていた。わたしにとって、憧れの大人のひとだった。
――それなのに。
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