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 ナオさんを慰めるためとはいえ、婚約者だと自分から言ったことに気がついて、わたしは恥ずかしさから顔が沸騰しそうになるくらいに熱くなった。自分から口に出すなんて。これがアルコールで酔いが回るってやつなんだろうか。


「あはは。そうだね。ありがと」


 やっとナオさんは笑ってくれた。でも、涙は止まっていない。無理やり笑おうとしているのがバレバレで、わたしじゃあ彼女を本当に笑顔にすることはできないんだと、無力さのようなものを感じた。


 わたしはグラスを両手で掴んで、ほとんど残っていなかったお酒を喉に流し込んで飲み込んだ。


 慣れれば美味しく感じるかもしれないと思ったけど、やっぱり不味い。


♯♯♯

 

 居酒屋を出たわたしたちは、お互いに目的地も尋ねずに歩いた。繋いだ手をブンブンと大きく振りながら。夜のお散歩。


 深夜という時間のせいか、初めてのアルコールで頭がふわふわとするせいか、毎日登下校で通る見知った景色のはずなのに、どのあたりを歩いているのか見当が付かなくて、全く知らない場所を歩いているみたいだ。


 火照った肌を撫でる五月の夜風が心地よくて、なんだか浮かれた気持ちになり、自然と足取りも軽くなる。


 不意にナオさんが足を止めたので、わたしも遅れて立ち止まった。


「どうしたんですか?」


 尋ねながら、どこかをじっと見上げるナオさんの視線の先を追った。


 白レンガの建物。茶色のとんがった三角屋根の先には真っ白な十字架が立っている。きっちりと剪定された木々の植えられた庭には、翼の生えた女性が慈愛の笑みをたたえている石膏像が立っている。教会。


「結婚式を挙げるなら、こんな教会がいいなあ」


 ナオさんがポツリと呟いた。


 教会。チャペル。結婚式を挙げる場所。


 実際、この教会で結婚式を挙げているのを、何度か見かけたことがある。一緒に歩いていた友達は「素敵だね……」とうっとりとした目で見つめていたけど、私には遠い未来の出来事で想像もできなくて、わたしも大人になったらキラキラしたドレスも似合うような姿になるんだろうかと首を傾げるしかできなかった。


「――キス、してくれる?」


 突然の発言に、頭で考えるよりも先にわたしの口からは「はあ?」と声が漏れてしまっていた。


「酔ってるんですか?」


「かもしれない。結婚式の予行練習だと思ってさ」


 呆れ気味に尋ねると、彼女は潤んだ目を細めて、なんだかうっとりとした表情で微笑んだ。


 彼女の甘い言葉に反して、わたしの中からは黒い気持ちが芽吹き出してきた。


「……良いですよ。その代わり、わたしを連れて逃げてください」


「どこに?」


「ナオさんの選んだ場所ならどこでも」


 わたしはナオさんの好意を、愛を利用しようと決心した。わたしの死にたい理由は大人のナオさんからすれば、時間が解決してくれる幼稚なものなのかもしれない。でも、だからといって、今のわたしが耐え難いと感じているのは事実。


 だから、わたしはナオさんと逃げ出したい。ここではない、どこかへ連れ出してほしい。


 この選択で未来がどう変わるかは分からない。もしかしたら、現状よりも更に悪い方向へ流れるかもしれない。でも、彼女は「不幸にはしないつもりよ」と言ってくれた。その言葉をわたしは信じたい。


「愛の逃避行。ううん、ハネムーンってやつです」


「分かった」


 わたしが断られるかもしれないと悩む間もなく、彼女は即答した。


 

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