第4話 トレーニング

「よーし……やるぞ!」

 食堂で食事を終えた後、エリはトレーニングルームに足を運んでいた。

 宇宙船の乗員は健康維持のため毎日の筋力トレーニングが義務づけられており、トレーニングルームには体の各部位を集中的に鍛えるためのマシンがいくつも置かれている。トレーニングウェアに着替えたエリはそのうちの一つの前に立つと、口に出して言うことで自分のやる気を鼓舞した。

 トレーニングのメニューは部位毎に各曜日に割り振られており、今日は脚の日だった。

 エリはイスのような形状をしたマシンに腰掛けると、両脚を床にぶら下げた位置で固定する。それから負荷を調整する重りを15Kgに設定すると、呼吸を整え、息を吸い込むとグリップを握り込んでトレーニングを開始した。

「――いち……にぃ……」

 ただ脚を伸ばすのではなく、呼吸のタイミングも意識しながらゆっくりと動作を繰り返す。ガイ曰く、「筋トレは呼吸と共にある」らしい。ガイの言葉を思い出しながら、エリは大腿筋の収縮を意識して脚を伸ばしていく。

 前半の5回までは何の問題もなかった。しかし、そこから6回、7回と回数が増すに従って、エリの身体は内なる悲鳴を上げ始める。

「ろくっ……しちっ、はぁはぁ……ふぅんっ! はー……ちぃっ……!」

 グリップを力いっぱい握りしめ、じたばたと暴れ出しそうな身体を押さえ込みながらどうにかして8回を達成した。しかし、本当に辛いのはここからだった。すでにエリの大腿筋は限界を迎えていた。規定の回数までは、あと2回。たった2回と、そう言ってしまえば簡単に思えるが、今の彼女にとってその2回は果てしなく遠いものに思えてならなかった。

「ふぅ、ふぅ…………よしっ……おりゃっ!」

 乱れる息を整え、もはや脚だけでなく身体全身を使って重りを引き上げにかかる。歯を食いしばり、身をよじりながら強引に重りを引き上げた。

 ガシャンッ。エリが力を抜くと同時に重りが下に落ち大きな音を立てる。

 エリはどうにかして9回目を達成した。しかし、それが彼女の限界だった。汗の滲んだ太股はピクッピクッと小さく震えている。息は絶え絶えで、全身が火照って熱かった。

「もうっ、むり……!」

 規定の10回を満たしてはいないが、身体以上に彼女の心が音を上げていた。

 弱々しい動きで脚の固定を外すと、エリはマシンに腰掛けた体勢のまま素早く周囲に目を走らせる。トレーニングルームにはエリの他にはミサキがいるだけで、彼女は自分のトレーニングに夢中でエリの方を見てはいなかった。エリはそれを見るや、さっとマシンから降りてその場を離れた。そして、何食わぬ顔で別の部位を鍛えるマシンへと移動した。

 その後、全てのトレーニングを終えたエリは、更衣室で汗を吸い込んだウェアを脱いで、タオルを手にシャワールームへ向かった。

「う~ん、きもちい~」

 シャワーヘッドから吐き出される温水を肌に浴びながら、エリは疲労の溜まった脚を軽く手で揉んでほぐす。トレーニングを行っている最中は苦しくてたまらないが、終えたあとの開放感と適度な疲労とを混ぜ合わせた恍惚感は他では得られないものがあった。だが、その一方でエリの内には、回数を1回分誤魔化したことへの罪悪感のようなものも芽生えていた。規定の10回という数字は目安であり、身体に十分な負荷がかかれば回数にこだわる必要はないと理解していても、彼女の内に「この苦痛から逃げたい」という思いがあったことは否定できない。

 そんなばつの悪さを抱えながらもマッサージを行っていると、隣のシャワールームに誰かが入る音が聞こえ、その中から声が聞こえてきた。

「――エリ?」

 トレーニングを終えたミサキだった。

「な、何? どうかしたの?」

 その声にエリの心臓は思わず跳ね、答える声も調子外れにうわずった。

――もしかして、見られてた?

 そんな疑念がエリの脳裏によぎる。

「あのさ、」

「う、うん」

 トレーニングの回数を1回誤魔化した程度のこと。そんな小さくてどうでもいいことなのに、誰かに見られていたと思うだけで萎縮してしまう。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」

 その後に続くであろうミサキの糾弾に備え、エリは頭の中で言い訳を用意する。

――ちょっと調子が悪かった、いつもより負荷を強めてみた……大丈夫。このくらいのことなら簡単にごまかせる。

 しかし、エリの考えた言い訳たちの出番はなかった。

「……ジョージに告白されたって、本当なの……?」

「……え?」

 予想外の質問に、声を出すのが一拍遅れた。それをミサキは悪く解釈したのか、

「あっ、ごめん。変なこと聞いて……」

「え、ううん。大丈夫だけど……」

 エリはミサキに聞こえないように小さく息をつく。今度は違う緊張が彼女にのしかかってきた。わざわざミサキが他に人のいない場所でこんな話を振ってくる意図は明白であった。

「……うん。本当だよ。一昨日だったかな、ジョージに告白された」

 エリは慎重に言葉を選ぶ。誤解を生むようなことは避けたかった。

「そう、なんだ……」

 ミサキの声は少し落ち込んだように聞こえた。

 エリはシャワーを止めると、シャワールームにはポタポタと彼女の身体から滴り落ちる水音だけが聞こえた。

「それで……なんて答えたの?」

「断ったよ。ジョージとは付き合えないって、そう答えた」

「え。それって……本当?」

「うん、本当。嘘なんて言わないよ」

「そっか……そっかあ」

 そう答えるミサキはどこか嬉しそうだった。それでエリは、ついちょっとした意地悪をしてみたい気持ちに駆られた。

「ミサキはさ、もしかしてジョージのことが好きなの?」

「え、えっ!? な、なんでなんで」

「ううん、別に。なんとなくそう思っただけだから、私の勘違いだったかな」

 慌てて否定しようとするミサキが可愛く思えて、エリは小さく笑い声をこぼした。

「そ、そうだよ。エリの勘違いだよ。別にジョージのことなんて、全然……」

「で、ジョージのどこが好きなの?」

「え、エリ~!」

 言いながら、頬を赤らめたミサキが隣の個室からエリの個室へと乗り込んできた。エリは「あはは、ごめんごめん」と笑いながら彼女をなだめた。

 それから二人は揃ってシャワールームを出、更衣室で服を着てから外に出ようとしたところ、先に扉が開いてその向こうから一人の女子が現われた。

「あ、ソフィア……」

「邪魔」

 ソフィアと呼ばれたその少女は、エリの肩を手で押してのけると振り返ることなくそのまま歩いて去って行った。

「……なにいまの、すっごく感じ悪い。エリ、ソフィアと何かあったの?」

 ミサキは離れていくソフィアに目を向けながらそう尋ねた。

「ううん。別にそういうわけじゃないんだけど……ミサキにはあんなじゃないの?」

「全然、普通ってかんじだよ。優しくも厳しくもないし……眼中にないって感じ?」

「それもどうなのかな……」

 扉の前に立ったまま二人で話をしていると、

「エリちゃーん! ミサキちゃーん!」

 廊下の向こうから二人の名前を呼んで、こちらにやってくる別の少女が見えた。

「レイアちゃん。どうしたの?」

 その少女――レイアは二人の前まで来ると、大きな目を二人に向け、

「レイア、いまね、船長のことを探してるんだけど。二人はどこにいるか知ってる?」

「私達はついさっきまでトレーニングルームにいたから見てないなー」

「そっかあ」

「急ぎの用事?」

「うーん、見てこれ」

 そう言ってレイアは二人に自分の端末を見せた。

「レイアの端末、なんか壊れちゃったみたいなの」

 エリはそれを手に取り電源を入れようとするが、端末のモニターは真っ暗なまま一切の応答がなかった。

「充電してもダメ。だから船長に言って新しいのと交換してもらおうと思って」

「端末が使えないって、それじゃあ何にもできないじゃん! それは一大事だよ!」

 ミサキは、可哀想にとレイアの頭を撫でた。

「ミサキちゃん、やめてー。レイアは子どもじゃないよ……もうっ」

 口では嫌がりながらも、レイアはまんざらでもない様子だった。

「食堂にもメインコンソール室にいなかったし、お部屋にいるのかな?」

「それなら、私が船長に言ってこようか? 私の部屋が一番近いし」

「ほんと? ありがとうエリちゃん!」

「ううん。これくらい」

 それから少し言葉を交わすと、エリは二人と別れて船長の部屋へと向かった。彼女の手にはレイアの壊れた端末が握られていた。

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