第63話 夏樹の選択
15時になった。夏樹は強張った表情のまま、マンションのエントランスを抜けた。
我ながら酷だと思う。自分が消えるか消えないかの判断を、たった数時間で決めろと言ったのだから。
だが、クランはいつ進行するかも分からない奇病だ。選択肢があるうちに、冬陽には選んでもらいたい。
階段を登って、二階へと辿り着くと、廊下を進んで家の前に立つ。
大きく深呼吸をして、ドアノブを握った。扉を開ける。
「……ただいま。――冬陽、いる――」
「い、いやあああああっ!」
突如、冬陽の悲鳴がリビングから木霊した。
夏樹は肩を震わせて驚いたが、すぐさま靴を脱いで廊下を駆けぬけた。
「ど、どうしたんだ冬陽! 一体何が――」
焦燥の思いで扉を開けた。そして、その光景に夏樹は絶句した。
「な、なんでゴール手前で甲羅を投げるのよっ! 若菜ってば性格悪いよ!?」
「ふふふ。なんとでもいえ、ですよ冬陽さん。勝負とは、常に相手の裏を掻くものです」
夏樹が飛び出したリビングでは、冬陽と元の若菜と思われる二人がレースゲームに熱中していた。
唖然としてリビングの入り口に立ち尽くす夏樹。そんな彼の帰宅に気付いた冬陽が、ひょこっと顔を上げる。
「あっ、おかえりお兄ちゃん。紹介するね。この子は元の若菜ちゃん。友達になったの」
「……ど、どうもお兄さん。元の小日向若菜です」
少し顔を赤らめて、ぺこりと礼をする若菜。夏樹の知っている若菜から、しっかりした部分を引き抜いた、なんだか緩そうな雰囲気の少女だった。
「あ、ああ。よろしく。し、しかし冬陽……これは、どういう――」
「ん? どういうって、簡単よ。若菜ちゃんと友達になって、ゲームしてたのよ」
「……お、お前なあ」
あっけからんと説明する冬陽に、夏樹は思わずその場にへたり込みそうになった。
きっと、自分の運命に苦しみ、嘆き、怒っているだろうと思っていただけに、今の冬陽の緩そうな雰囲気は、ある意味拍子抜けだった。
「ん? どうしたのお兄ちゃん? そんなに疲れた顔しちゃって。なんかあったの?」
「……ああ。たった今、急激に疲れたところだよ。それよりも、お前……ちゃんとどうするか決めたのか?」
言いたくなかったが、こう言わなければ話が進まない。
冬陽も夏樹の言わんとしていることが分かったようで「……うん」と、短く頷いた。
「でも、それを伝える前に、お兄ちゃんに訊きたいことがあるの。あの時、家出した時に訊きそびれていたお兄ちゃんの気持ち。今度はちゃんと教えてほしい」
俺の気持ち……。と、夏樹は心の中で反芻する。
あの時の夏樹の気持ちは、冬陽の意志を尊重することだった。何故なら、問題は冬陽自身に起こっているからだ。自分の事は自分で決めるべきだ。それこそ、今の冬陽の命が掛かっている。残ってほしい、消えてほしいなどと自分が言うのはおこがましい。
だが、今は違う。若菜の話を聞いて、小日向の決断を知った。ならば、自分も決断しなくてはいけない。
飾らない本心を告げなくてはいけない。それが、クランの人間を一番間近で見てきた人間の責務だ。
ゆっくり息を吸って、夏樹は冬陽に向けて告げた。
「冬陽。俺は……やっぱり元の冬陽に会いたい。お前を選ぶわけにはいかない」
夏樹は目を瞑る。激怒、沈痛の叫び。なんでも引き受けるつもりだった。
しかし、冬陽は取り乱すことなく、ただ静かに夏樹を見つめていた。
「……よかった」
切なげな、そして少しばかり嬉しそうな表情で冬陽は呟いた。
「それで、いいんだよ。お兄ちゃん」
ハッと目を開けた夏樹は、瞠目したまま冬陽を見つめ返した。
「……いいのかよ。俺、今最低なこと言ったんだぞ? お前に死ねって言ったんだぞ?」
「そんなこと言ったの? でも、残念。わたしってば、さっきの台詞はそんな風には聞こえなかったみたいだよ?」
にししっと、冬陽は屈託なく笑う。その笑顔は、まるで大人をからかう子供のようだ。
冬陽は手を後ろで組むと、右足に体重を掛けた。その時に少し、ポニーテールが小さく揺れた。
「……わたしも、お兄ちゃんと同じ気持ちだよ。わたしもね、お兄ちゃんと元の冬陽が幸せになってほしいと思ってる。だから、わたしは消えることにするね」
「冬陽……」
この決断をするまで、一体彼女はどれだけの苦痛と葛藤を乗り越えてきたのだろうか。夏樹は想像できなかった。
「わたしね、気付いちゃった。わたしが生まれた理由が、一体何なのか」
冬陽が、上目遣いで夏樹を見上げた。
「わたしはね、元の冬陽とお兄ちゃんを繋げる恋のキューピットなんだ」
「恋のキューピット?」
「うん。ちょっと大げさかもしれないけどね。元のわたしの抑えていた、お兄ちゃんへの想い。それをお兄ちゃんに伝えるために、わたしは生まれたの。それで、わたしが冬陽の想いをお兄ちゃんに伝えて、元の冬陽の中に戻る。そうすれば、二人は晴れて両想い。みんなが幸せになるの」
優しい声音で言う冬陽の姿が、夏樹は未だに信じられなかった。
「……なあ、冬陽。それでお前は幸せなのか?」
訊くべきではないと思った。しかし、それでも気になってしまった。
「……うん。幸せ、なのかな。でも、これでいいとは思ってるの。わたしが消えても、わたしの想いや、わたしがいた証は残る。そりゃ、わたしだって本当はお兄ちゃんの恋人になりたかったよ? ……でも、わたしじゃダメなんでしょ?」
「……ごめん」
「いいって。……ねえ、お兄ちゃん? 本当にいい女は、好きな人が幸せになるために動ける人のことを言うんだよ。それが、例え自分が愛されないと分かっていても。って、普通はなるんだけど、別にわたしは冬陽の一部なわけだし? 結果的にお兄ちゃんに愛してもらえるから別に気にしてないんだけどね」
冬陽はくるっとその場で回ると、夏樹に背中を向けた。
「というわけで、今からわたしは若菜と思う存分遊ぶので、お兄ちゃんは邪魔しないでよ!」
冬陽は明るく宣言すると、再び若菜とテレビゲームに興じはじめた。
夏樹は、そんな彼女の笑顔を横目に、リビングから出た。
自分の無力さを強く感じる。それは、冬陽が倒れた時に匹敵するほどに。
目の前の冬陽を助けてやれないことが、悔しかった。
自室に戻ると、ベッドに倒れ込んだ。そして、夕方まで彼は静かに泣き続けた。
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